残月の繕い人

残月の繕い人

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***第一章 鬼の貌(かお)***

江戸の片隅、神田川から一本入った薄暗い路地裏に、桐生左馬之助(きりゅうさまのすけ)の小さな仕事場はあった。かつては人を斬るための剣を握っていたその手で、今は針と糸を操り、壊れた器や破れた書画を繕って糊口をしのいでいる。彼は自らを「繕い屋」と称し、過去を塗り潰すかのように、ただ静かに日々を送っていた。

雨のそぼ降る昼下がりだった。引き戸が軋む音とともに、冷たい空気が流れ込む。そこに立っていたのは、年の頃七つか八つほどの、痩せた少女だった。雨に濡れた黒髪が、血の気の薄い頬に張り付いている。その小さな腕には、古びた桐の箱が大事そうに抱えられていた。

「……何か、ご用かな」
左馬之助の声は、長く使われなかった鉄のように錆びついていた。

少女は黙って歩み寄り、箱を畳の上に置くと、震える手で蓋を開けた。中から現れたのは、一枚の能面だった。鬼女の面、『般若』。しかし、その面は眉間から顎にかけて、鋭い刃物で断ち割られたかのように、無残に裂けていた。純白の胡粉(ごふん)は剥がれ落ち、金色の眼光は虚ろに宙を彷徨っている。

「これを、直していただけますか」
か細いが、芯のある声だった。

左馬之助は面を一瞥し、顔をしかめた。ただの繕い仕事ではない。この面には、常ならぬ気配がまとわりついている。断ろうと口を開きかけた時、彼の視線は、面の裏に焼き付けられた小さな紋に釘付けになった。

―――三つ葉の葵に、重ね藤。

血の気が引いた。全身の毛が逆立ち、呼吸が浅くなる。それは、彼が捨てた故郷、裏切りの烙印を押して逃げ出した北の小藩、相馬家の家紋だった。そして、この般若の面は、藩随一の能の舞手であった親友、伊吹刑部(いぶきぎょうぶ)が、命よりも大事にしていたものに違いなかった。

「……無理だ。これは俺の手には負えん」
絞り出すように言うのが精一杯だった。

だが、少女は諦めなかった。すがるような瞳で左馬之助を見つめ、言った。
「お願いです。これは……これは、父様の、魂なのです。このままでは、父様が浮かばれません」

父様、という言葉が、錆びついた刀で胸を抉るように痛んだ。この少女は、まさか。左馬之助が、藩命によって斬り捨てたはずの、伊吹の娘だというのか。
止まっていたはずの過去が、濁流となって左馬之助の心に流れ込んできた。彼は、この依頼を引き受けることが、自らを地獄へ引き戻すことだと知りながら、頷くことしかできなかった。

***第二章 偽りの罪咎(つみとが)***

能面の修復は、左馬之助にとって過去との対峙そのものだった。裂け目に膠(にかわ)を流し込み、欠けた部分を木屎(こくそ)で埋めていく。その一つ一つの作業が、五年前のあの日の記憶を鮮明に蘇らせた。

伊吹刑部は、左馬之助の無二の友であり、好敵手であった。剣の左馬之助、能の伊吹と並び称され、互いの道を尊重し合っていた。しかし、藩主の理不尽な圧政に異を唱えた伊吹は、謀反の濡れ衣を着せられ、討伐の対象となった。そして、その討ち手の大役を命じられたのが、他ならぬ左馬之助だったのだ。

「友を斬ってこそ、武士の忠義が立つ」
家老の冷たい声が耳朶(じだ)に蘇る。

松林で対峙した時、伊吹は静かに微笑んだ。「お前が来たか、左馬之助。それでいい」。彼は抵抗しなかった。左馬之助は涙で歪む視界の中、心を鬼にして刀を振り下ろした。その手にかかる、鈍い感触。友の血潮が己の頬を濡らした、あの熱。あの日以来、彼は刀を捨て、二度と人を斬らないと誓った。友殺しという、決して消えない罪を背負って。

少女は、お小夜(おさよ)と名乗った。彼女は時折、小さな握り飯を手に、左馬之助の仕事場を訪れた。
「父様は、このお面を被ると、鬼にも仏にもなれる、と申しておりました」
無邪気に語るお小夜の横顔は、どことなく伊吹に似ていた。

左馬之助は、自分が伊吹を斬ったという事実をひた隠しにしながら、彼女の言葉に耳を傾けた。お小夜との束の間の交流は、彼の荒んだ心に、まるで陽だまりのような温かさをもたらした。彼は、この少女のために、伊吹の魂ともいえるこの面を、完璧に蘇らせなければならないと心に誓った。それは、彼にできる唯一の贖罪だった。

面の傷が完全に塞がり、下地を塗り重ねていく。左馬之助の指先は、かつて剣の柄を握っていた時と同じ集中力で、繊細な作業を続けた。失われた鬼の貌が、少しずつ元の凄みを、そしてその奥に秘められた哀しみを、取り戻していくようだった。

***第三章 裏切りの真相***

面の修復が、最後の仕上げである彩色の段階に入った、月の美しい夜だった。戸口に立った人影に、左馬之助は筆を止めた。そこにいたのは、浪人風の男だったが、その鋭い眼光と立ち姿は、紛れもなく相馬藩の武士のものだった。かつての同僚、矢崎だった。

「桐生殿、久しいな。まだ生きておいででしたか」
矢崎の口元には、嫌らしい笑みが浮かんでいた。
「その面、伊吹刑部のものですな。藩の汚点をいつまでも江戸に晒されては困る」

左馬之助は立ち上がり、お小夜が預けた桐箱を背後にかばった。「何の用だ」
「ご心配なく。あなたを斬りに来たわけではない。ただ、一つ、面白いことを教えて差し上げようと思いましてな」
矢崎は楽しむように言葉を続けた。
「五年前のあの日、あなたは伊吹殿を斬ったと思い込んでおられる。だが、真実は違う」

左馬之助の眉がぴくりと動いた。
「……どういうことだ」

「あなたは、友を前にして刀を振り下ろせなかった。あなたの刃は、寸前で彼の肩を浅く斬っただけ。情けないことに、躊躇したのです。本当の止めを刺したのは、あなたの背後に控えていた我々だ。背後から、無慈悲に。あなたが友殺しの罪悪感に苛まれている間に、我々は藩の命令を完遂した」

世界が、音を立てて崩れた。左馬之助が五年もの間、背負い続けてきた罪。友を手にかけたという、地獄のような記憶。それが、全て偽りだったというのか。

「なぜ……」
「家老のご命令だ。忠義の揺らいだあなたを、友殺しの罪人として藩から追放し、伊吹殿の反逆を闇に葬る。実に巧みな筋書きでしょう? あなたは我らにとって、実に都合のよい罪人だったのですよ」

愕然とする左馬之助に、矢崎は追い打ちをかけるように言った。
「そして、その筋書きの最後の仕上げが残っている。伊吹の忘れ形見……あの小娘だ。藩の汚点の根を、完全に絶たねばならん。我々はその娘を探していた。あなたが匿ってくれていたとは、手間が省けた」

左馬之助を縛り付けていた鎖は、罪悪感ではなかった。友を守れなかった後悔。己の無力さへの絶望。そして今、その友が命を懸けて守ろうとしたであろう娘が、同じ者たちに狙われている。
怒りとも悲しみともつかない感情が、腹の底から突き上げてきた。それは、今まで感じたことのない、熱い塊だった。

***第四章 守るための刃(やいば)***

「……させん」
低い声が、左馬之助の口から漏れた。
「お小夜殿には、指一本触れさせん」

矢崎は鼻で笑った。「刀を捨てた繕い屋に、何ができる」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、左馬之助は部屋の奥に駆け込んでいた。床板を剥がし、油紙に包まれた長いものを取り出す。彼の愛刀、『残月』。五年ぶりに鞘から抜かれた刀身は、月光を浴びて青白い光を放った。

それはもはや、忠義や藩命のための刃ではない。贖罪のためでもない。ただ一つ、守るべき命のために振るわれる、魂の刃だった。

「愚かな」
矢崎が斬りかかってくる。キン、と甲高い金属音が響き、火花が散った。左馬之助の剣は、錆びついていなかった。むしろ、五年の時を経て、不要な力が抜け、研ぎ澄まされていた。守るという一心が生み出す剣筋は、殺気だけに満ちた矢崎の刃をことごとく受け流し、いなしていく。

激しい打ち合いの末、左馬之助の剣が矢崎の肩を捉えた。深手ではない。だが、勝負は決した。矢崎は己の敗北を悟り、闇の中へと消えていった。

静寂が戻る。左馬之助の腕からは、生暖かい血が滴り落ちていた。彼は傷の痛みも忘れ、仕事台に目をやった。そこには、彩色を終え、魂を吹き込まれたかのように凄絶な美しさを放つ、般若の面が置かれていた。

翌朝。左馬之助は、お小夜を遠縁の商家へと送り届けた。彼は桐箱を少女に手渡し、言った。
「これは、お父上の魂だ。そして、お前を守る、鬼の貌だ。何があっても、誇りを失わず、強く生きなさい」
彼は最後まで、真実を語らなかった。伊吹が卑劣な騙し討ちにあったという事実も、自分が彼を斬ってはいなかったという事実も。お小夜の中の父親は、誇り高い武士のままであるべきだと考えたからだ。

少女の姿が見えなくなるまで見送った後、左馬之助は一人、路地裏の仕事場へ戻った。そこには、繕い物の道具と、血糊のついた刀が並んで置かれている。

彼は、刀を再び床下に封印することはしなかった。懐紙で血糊を丁寧に拭うと、打ち粉を打ち、油を引く。手入れを終えた刀を、静かに壁に立てかけた。
人を斬るためではない。守るべきものができた時に、いつでも抜けるように。

左馬之助の人生は、罪からの逃避ではなくなった。友を守れなかった後悔と、その娘を守り抜いたという小さな誇りを胸に、これからも壊れたものを繕い、そして、守るべきもののために魂の刃を研ぎ続けるのだ。

東の空が白み始め、新しい一日を告げる光が、仕事場に差し込んできた。その光は、立てかけられた刀と、その傍らに置かれた般若の面を、静かに照らし出していた。まるで、一つの魂が二つに分かち、互いを見守っているかのように。

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