***第一章 埃まみれの独白***
消毒液のツンとした匂いが、死の残り香を覆い隠そうと躍起になっていた。高橋健太は、ゴム手袋の感触を確かめながら、玄関のドアをゆっくりと開けた。これが彼の仕事場。社会の片隅で、誰にも看取られずに消えていった人々の、最後の部屋を片付ける「遺品整理士」だ。
今回の現場は、築四十年の木造アパートの一室。故人は佐藤義男、八十二歳。死後二週間が経過していた。室内は、コンビニ弁当の容器と古新聞が雪崩を起こし、床はほとんど見えなかった。健太はいつものように、感傷を排し、効率だけを考えて作業に取り掛かった。衣類、食器、家電。それらを機械的にゴミ袋へと仕分けていく。故人の人生は、こうして可燃と不燃に分解され、跡形もなく消えていく。それが健太の日常だった。
作業開始から三時間。部屋のほとんどが空になった頃、健太は押し入れの奥、天袋のさらに奥に、不自然な板が嵌め込まれているのに気づいた。指をかけると、それは簡単に外れた。隠しスペースだ。中には、埃を被った段ボール箱が一つ。開けてみると、そこにはおびただしい数のカセットテープと、一台の旧式なテープレコーダーが収まっていた。テープのラベルには、震えるような文字で『声の日記』とだけ記され、日付が添えられている。
「……こんなものか」
健太はため息をついた。マニュアルによれば、個人情報に関わるものは専門業者に引き渡して溶解処分。それがルールだ。彼は箱を持ち上げ、処分品用のコンテナに入れようとした。だが、その瞬間、なぜか指が止まった。無数のテープが、まるで声なき声で彼を呼び止めているような気がしたのだ。魔が差した、としか言いようがない。健太は、一番上にあった一本を手に取り、レコーダーにセットした。再生ボタンを、ゆっくりと押し込む。
ジーッというノイズの後、しわがれた、しかし温かみのある老人の声が流れ出した。
『……今日も、よく晴れた。ベランダの朝顔が、また一つ咲いたよ。君は、青色が好きだったね』
その声は、誰に語りかけるでもなく、ただ静かに、空間に響いた。健太は、時が止まったかのように、その場に立ち尽くしていた。
***第二章 聞こえない隣人***
健太の日常に、奇妙な習慣が加わった。仕事から戻ると、持ち帰ってしまった佐藤さんのカセットテープを一本ずつ聴くことだ。同僚に知れれば、規則違反だと厳しく叱責されるだろう。だが、健太は止められなかった。
佐藤さんの『声の日記』は、淡々とした日々の記録だった。天気の話、テレビのニュースへの感想、物価の変動へのぼやき。しかし、聴き進めるうちに、健太はその声の中に、ある一貫した響きを見つけ出した。それは、日記の中で頻繁に登場する「ミカ」という名の人物に向けられた、深い愛情だった。
『ミカ、今日は君の好きなハンバーグを作ってみたんだ。もちろん、君は食べに来られないけれどね。いつか、大きくなったら、わしの自慢のデミグラスソースを教えてあげよう』
『ミカ、夜は冷えるから、ちゃんと布団をかけるんだよ。風邪をひいてはいけないからね』
ミカ。おそらく、遠くに住む孫娘か、あるいは若くして亡くした娘の名前だろうか。健太は、会ったこともない佐藤さんとミカの姿を想像した。孤独死という無機質なレッテルだけでは到底測れない、豊かで切ない愛情が、磁気テープには刻み込まれていた。これまで何百という「遺品」を処理してきたが、これほどまでに故人の息遣いを感じたことはなかった。それは健太にとって、仕事の倫理観を揺さぶる体験だった。
「ただのゴミじゃない……。これは、この人が生きた証そのものだ」
健太は、佐藤さんの人生の断片に触れるうち、ある使命感のようなものに駆られていた。このテープを、ミカさんに届けなければならない。それが、佐藤さんへの、そして自分のこの仕事への、唯一の誠意であるように思えた。
健太は、故人の数少ない書類の中から、親族の連絡先を探した。しかし、見つかったのは遠縁の甥一人だけで、彼も「葬儀も済んだし、あとはそちらで処分してください」と事務的な返事をよこすだけだった。ミカという名前に心当たりはないかと尋ねても、「さあ、聞いたことがありませんね」と冷たい答えが返ってくるだけだった。
手がかりは、テープの声のみ。健太は、ほとんど執念で、テープに残された僅かな情報を繋ぎ合わせていった。「公園の前のパン屋」「さくら通り」「三丁目のポスト」。それらの言葉を地図アプリに打ち込み、可能性のある場所を一つずつ潰していく。それは、遺品整理士の業務を、完全に逸脱した行為だった。
***第三章 壁一枚隔てた祈り***
数週間にわたる調査の末、健太はついに一本の電話番号にたどり着いた。佐藤さんのアパートからほど近い場所に住む、「宮下」という家。テープの中に一度だけ、「宮下さんのところの庭は、見事だな」という呟きがあったのだ。祈るような気持ちで電話をかけると、若い女性の声が応答した。
「はい、宮下です」
「突然申し訳ありません。私、高橋と申します。あの、ミカさんはいらっしゃいますでしょうか?」
電話の向こうで、女性が息を呑む気配がした。数秒の沈黙の後、彼女は警戒しながらも答えた。
「……私が、ミカですが」
健太の心臓が大きく跳ねた。見つけた。ついに見つけたのだ。彼は事情を説明し、佐藤さんの遺品であるテープを渡したいと伝えた。ミカさんは戸惑いながらも、近くのカフェで会うことを承諾してくれた。
カフェに現れた宮下ミカは、二十歳くらいの、少し影のある瞳をした女性だった。健太は、佐藤さんが愛情を注いだ孫娘が、こんなにも近くにいたことに感動を覚えながら、テープの入った箱をテーブルに置いた。
「佐藤さんは、あなたのことを本当に大切に想っていたようです。日記には、あなたの名前ばかりが……」
健太がそう言いかけた時、ミカは不思議そうな顔で彼を見つめ、静かに首を振った。
「あの……、勘違いされているようです。私は、佐藤さんと一度もお会いしたことがありません」
「え?」
「私が子供の頃、母と二人で、佐藤さんの部屋の隣に住んでいたんです。ただ、それだけです」
健太の頭は真っ白になった。隣人?会ったこともない?では、あの愛情に満ちた言葉の数々は、一体何だったのか。
ミカは、伏し目がちに語り始めた。彼女の母親は、夫と別れてから一人でミカを育て、精神的に不安定だったという。生活は苦しく、幼いミカに辛く当たることも少なくなかった。
「よく、叩かれました。夜中に、些細なことで大声で怒鳴られて……。壁が薄いアパートだったので、隣の部屋の佐藤さんには、全部聞こえていたんだと思います」
その言葉に、健太は雷に打たれたような衝撃を受けた。
テープの中の言葉が、全く違う意味を帯びて蘇る。
『ミカ、今日は君の好きなハンバーグを作ってみたんだ』
それは、壁の向こうで空腹に泣いているかもしれない少女を想っての言葉。
『ミカ、夜は冷えるから、ちゃんと布団をかけるんだよ』
それは、母親に家から閉め出された夜があった少女への、祈りにも似た呟き。
佐藤さんは、孫娘に語りかけていたのではなかった。彼は、壁一枚隔てた隣で、虐待に苦しむ名も知らぬ少女を、どうすることもできずに、ただ案じ続けていたのだ。直接介入すれば、母子をさらに追い詰めてしまうかもしれない。無力な老人にできたのは、せめて自分の声だけでも、と、いつか少女がこの世界を嫌いにならないように、愛されていると感じられるように、祈りを込めてテープに記録することだけだった。
孤独死した老人。そのレッテルは、あまりにも皮相的だった。彼は、誰にも知られることなく、たった一人で、小さな命を守ろうとしていたのだ。健太は、自分の浅はかさに、そして佐藤さんの計り知れない優しさに、言葉を失った。
***第四章 物語の運び人***
ミカは、震える手でヘッドフォンを耳に当てた。健太が再生したテープから、佐藤さんの温かい声が流れ出す。
『……ミカ。世界は、怖いことばかりじゃない。道端に咲く花も、空の青さも、全部君のためにあるんだよ。君は、独りじゃない。わしが、ずっとここにいるからね』
ミカの瞳から、大粒の涙がとめどなく溢れ落ちた。幼い頃の孤独と恐怖。母親を愛しているのに、憎んでしまいそうになる自己嫌悪。誰にも理解されなかった心の傷が、初めて会う人の、いや、一度も会ったことのない老人の声によって、そっと包まれていくようだった。
「……私、ずっと独りだと思ってた。誰からも必要とされていないって……。でも、違ったんですね」
彼女は泣きながら、それでも微かに笑った。それは、長い冬を越えて咲いた、一輪の花のようだった。
健太は、その光景を静かに見つめていた。遺品整理という仕事は、死と向き合う仕事だ。しかし、彼は今日、この仕事が「生」と繋がっていることを、痛いほどに実感した。忘れ去られた人々の人生には、必ず物語がある。そして、その物語を拾い上げ、次の誰かに手渡すことこそが、自分の本当の役割なのかもしれない。
数日後、健太は新しい現場に立っていた。部屋の主は、五十代の男性。ここもまた、孤独な死の気配が満ちている。しかし、今の健太には、部屋に散らかったモノたちが、ただのガラクタには見えなかった。使い古されたギター、書きかけの楽譜、一枚だけ飾られた風景写真。その一つ一つが、故人の生きた軌跡を、夢や挫折を、雄弁に物語っている。
健太は、一枚の写真立てを手に取ると、積もった埃を指で優しく拭った。その表情には、以前のような無感動な色はなく、故人の人生に対する深い敬意と、慈しむような優しさが浮かんでいた。
社会の網の目からこぼれ落ち、音もなく消えていく命がある。しかし、その最期の部屋には、誰かを想った声なき声や、届けられることのなかった祈りが、確かに残されている。健太は、これからもその声なき遺品を拾い集めるだろう。彼はもはや単なる整理屋ではない。名もなき人々の物語を、未来へ運ぶための、静かな語り部なのだ。
窓から差し込む西日が、部屋の埃を金色に照らし出していた。それはまるで、無数の失われた物語が、健太の仕事を祝福しているかのようだった。
声の遺品
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