夜空の次のページ

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***第一章 色を失ったパレット***

高校二年の夏、僕の世界からはすべての色が抜け落ちていた。窓から差し込む光は白々しく、教室の喧騒は意味のない音の羅列でしかなく、目の前の教科書に並ぶ黒い活字は、ただの染みに見えた。かつて、僕の手は世界を切り取り、パレットの上で混ぜ合わせ、キャンバスに新たな命を吹き込むはずだった。だが、今では鉛筆一本握ることさえ億劫だった。

すべての始まりは、一冊のスケッチブックだった。埃をかぶったそれを、部屋の掃除中に偶然見つけてしまったのが運の尽きだ。中学の頃から使っていた、くたびれたクロッキー帳。開くつもりはなかった。そこには、僕が絵を描くことをやめるきっかけになった、あいつ――健太との思い出が詰まりすぎている。捨てようとして、手が止まる。最後のページに、何かが見えた気がした。

意を決して開くと、そこには見覚えのない絵が描かれていた。いや、絵と呼ぶにはあまりに拙い、一本の線だった。夜空を切り裂くような、淡い鉛筆の軌跡。流れ星だろうか。僕が描いた記憶はない。気味が悪かったが、誰かのいたずらにしては手が込んでいない。気のせいだと思い、僕はスケッチブックを再び本棚の奥へと押し込んだ。

翌日、学校から帰ると、妙な胸騒ぎがした。まるで呼ばれているかのように、僕は再びあのスケッチブックを手に取っていた。最後のページを開く。心臓が嫌な音を立てて跳ねた。

線が増えている。

昨日は一本だった流れ星が、三本に増えていた。それだけではない。夜空の背景となる闇が、柔らかなタッチで薄く塗り込まれ始めている。間違いなく、誰かがこのスケッチブックに触り、僕の知らないうちに絵を描き足しているのだ。背筋に冷たいものが走った。鍵のかかった自室で、一体誰が? 恐怖と同時に、奇妙な好奇心が鎌首をもたげた。そのタッチは、どこか懐かしい気配をまとっていた。

「水島くん、それ、スケッチブック?」

背後からの声に、僕はびくりと肩を震わせた。教室で、こっそり例のページを確かめていた時だった。声の主は、クラスメイトの佐伯陽菜。太陽みたいな笑顔が特徴的な、快活な女子だ。僕のような日陰の住人とは接点のない、光の中にいる人間だと思っていた。

「……ああ」
「絵、描くの? 星の絵?」

彼女の視線が、僕の手元にあるスケッチブックのページに注がれている。なぜ、星の絵だと分かったんだ? まだほとんど闇と数本の線しか描かれていないのに。
僕の訝しげな表情を読み取ったのか、陽菜は屈託なく笑った。

「なんとなく。水島くんって、夜空見てそうな顔してるから」

意味の分からない理屈だった。だが、彼女の笑顔を見ていると、僕の心の澱みがほんの少しだけ、かき混ぜられるような気がした。僕はこの時まだ、この不可解な現象と彼女が、僕の止まっていた時間を大きく動かすことになるなど、知る由もなかった。

***第二章 星空の共犯者***

謎の画家による加筆は、それからも続いた。毎晩、僕が眠っている間に、インクの染みが広がるように、ゆっくりと、しかし着実に。僕は犯人を見つけようと、スケッチブックの上に髪の毛を一本置いたり、机の位置を微妙に変えたりと、古典的な罠を仕掛けてみたが、全て無駄に終わった。朝になると、罠は綺麗に元通りにされ、絵だけが描き進められているのだ。

犯人は、僕がこの現象に気づいていることを知っている。そして、それを楽しんでいるかのようだった。恐怖はいつしか、歪んだ期待へと変わっていた。今日はどこまで進んでいるだろう。あの繊細なタッチは、どんな星を生み出すのだろう。僕はいつのまにか、毎朝スケッチブックを開くのが日課になっていた。

絵は、驚くほど精緻だった。無数の星々が、それぞれの光の強さで瞬き、天の川の微細な粒子までが丁寧に描き込まれていく。まるで本物の夜空をそのまま写し取ったかのようだ。僕は、その圧倒的な画力に嫉妬した。同時に、焦がれるような憧れを抱いた。こんな絵が描けるなら、どんなに素晴らしいだろう。僕が失ってしまったものが、そこにはあった。

「ペルセウス座流星群、今週末がピークなんだって。すごい数、見えるらしいよ」

昼休み、屋上へ続く階段の踊り場で、陽菜が話しかけてきた。彼女は僕がスケッチブックの「観測」をしているのを、どこかで見守っているようだった。

「……そうなんだ」
「水島くんの描いてる絵、もしかしてそれじゃないかなって」

彼女の言葉に、僕はハッとした。スケッチブックに描かれた星の配置。それは、特定の星座や方角に偏って流れ星が描かれているように見えた。陽菜に言われて、スマートフォンのアプリで調べてみる。まさに今週末に極大を迎える、ペルセウス座流星群の放射点の位置と、絵の中の流れ星の中心点が一致していた。

犯人は、未来の星空を描いている。

「ねえ、一緒に見に行かない? よく見える丘があるんだ」

陽菜の誘いを、僕は即答できずにいた。誰かと夜空を見上げる。それは、僕が健太と交わした、果たされなかった約束だったからだ。
犯人は陽菜ではないか? 僕をからかっているのではないか? 疑念が胸をよぎる。しかし、彼女の真っ直ぐな瞳を見ていると、そんな考えは霧散していくようだった。

その週末、僕は陽菜に連れられて、初めて天文部の部室を訪れた。古びた望遠鏡、壁一面に貼られた星座早見盤、独特のインクと紙の匂い。そこは、僕がかつて愛した美術室の匂いと少しだけ似ていた。陽菜は慣れた手つきで望遠鏡を覗き、星々の物語を語ってくれた。アルタイルとベガ、デネブが作る夏の大三角。その壮大なスケールに、僕の悩みなど、宇宙の塵ほどにもならない些細なことのように思えた。

夜空を見上げるうちに、僕の指先が疼いた。描きたい。あの、スケッチブックの絵のように、この胸を打つ星々の輝きを、自分の手で生み出してみたい。その衝動は、もう一年以上も感じたことのない、熱いものだった。

***第三章 一番星の遺言***

流星群がピークを迎える前日の金曜日。学校から帰った僕は、逸る心を抑えながらスケッチブックを開いた。息を呑む。

絵は、完成していた。

漆黒のキャンバスに、無数の光の矢が降り注いでいる。息をのむほどに美しく、そしてどこか切ない夜空。だが、僕の目を釘付けにしたのは、星々ではなかった。丘の上に立つ、二人の人物。そのシルエット。

一人は、陽菜だった。風になびく髪の描写で、すぐに分かった。そして、その隣で、少し照れくさそうに笑っている、もう一人。

「……健太」

声が、震えた。一年前に、僕の前からいなくなってしまった、親友の健太がそこにいた。楽しそうに、僕ではない誰かの隣で、星空を見上げていた。なぜ。どうして。完成された絵は、僕にとって残酷な不在証明でしかなかった。頭に血が上り、僕はスケッチブックを握りしめて家を飛び出した。陽菜に会わなければ。すべてを問い質さなければ。

公園のベンチで一人、空を見上げていた陽菜を、僕はすぐに見つけた。
「どういうことだよ、これ!」
僕はスケッチブックを彼女の前に突きつけた。陽菜は驚いた顔をしたが、すぐに悲しげな色を瞳に浮かべ、静かに口を開いた。

「ごめんね、ずっと黙ってて」

彼女の口から語られた真実は、僕のちっぽけな想像を、予想を、根底から覆すものだった。

「健太は、私の従兄弟なの」

陽菜は、健太の従姉妹だった。そして、僕が持っていたスケッチブックは、僕のものではなかった。それは、健太が遺したスケッチブックだった。陽菜が、僕の部屋からこっそりすり替えていたのだ。

「健太ね、ずっと言ってた。水島と一緒に、今年のペルセウス座流星群を見るんだって。最高の絵を描くんだって。あいつ、水島の絵が大好きだったんだよ。お前の才能には敵わないって、いつも悔しそうに、でも嬉しそうに話してた」

健太が亡くなる直前、僕たちは些細なことで喧嘩をしていた。進路のこと、絵に対する考え方の違い。僕は彼の情熱を、どこか冷めた目で見ていた。「お前みたいに、ただ描いてるだけじゃダメなんだよ」。僕が最後に投げつけた言葉だった。その言葉を後悔し、僕は罰として絵筆を折ったのだ。健太の才能を、夢を、僕が否定してしまった罪悪感から。

「これは、健太が描きたかった絵。あいつが遺したラフスケッチを元に、私が少しずつ仕上げてたの。あいつの想いを、水島くんに伝えたかったから」

陽菜は自分の鞄から、もう一冊のスケッチブックを取り出した。そこには、走り書きのような、しかし確かな熱量を持った線で、丘の上に立つ二人の人物と、流星群の構想が描かれていた。間違いなく、健太の筆跡だった。

「健太が一番悲しむのは、水島くんが絵を描くのをやめちゃうことだよ。あいつにとって、水島くんは最高のライバルで、一番星だったんだから」

涙が、止まらなかった。僕が抱えていた罪悪感は、健太の想いを踏みにじる、独りよがりな感傷でしかなかった。健太は、僕をライバルだと認め、僕と一緒に夢を追いかけたかっただけなのだ。僕は、一番大切なことから目を逸らし続けていた。完成された絵の中で笑う健太は、僕を責めてなどいなかった。ただ、そこにいる。それだけだった。

***第四章 夜空の次のページ***

約束の夜。僕は陽菜と一緒に、健太と見るはずだった丘の上に立っていた。ひんやりとした夜風が、火照った頬を撫でていく。草の匂いと、遠くの街の光。空は、健太の絵で見た以上に、深く澄み渡っていた。

僕の手には、真新しいスケッチブックと、久しぶりに握る6Bの鉛筆があった。その重みが、不思議と心地よかった。

「ありがとう、佐伯」
「……陽菜でいいよ」
彼女は少しだけはにかんで、空を見上げた。

やがて、その瞬間は訪れた。
一条の光が、夜空を切り裂く。それを合図にしたかのように、次から次へと、星が流れた。まるで天が泣いているかのように、夥しい数の光の涙が、僕たちの頭上に降り注ぐ。陽菜が、わぁ、と歓声を上げた。

僕は、スケッチブックの白いページを開いた。
もう、迷いはなかった。

カリカリ、と鉛筆が紙の上を走る音だけが、僕たちの間に響く。僕は目の前の星空を描いた。健太の模倣ではない。誰かのための絵でもない。僕が、今、この瞬間に感じているすべてを、ぶつけるように描いた。

失ったものへの哀悼。
残してくれたものへの感謝。
隣にいる温かさ。
そして、これから始まる未来への、かすかな、しかし確かな希望。

どれくらいの時間が経っただろう。流星群が少しずつ勢いを弱め始めた頃、僕の絵も一枚の完成を迎えた。そこには、満天の星の下で空を見上げる、陽菜と僕の姿があった。健太の姿はない。だが、この絵のすべての線、すべての光と影に、あいつは生きている。僕の中で、生き続ける。

「見せて」
陽菜が、そっと僕の手元を覗き込む。彼女の瞳が、星の光を反射してきらりと輝いた。

「……きれい」

その一言で、僕の心にあった最後の氷が、静かに溶けていくのを感じた。

これは、終わりじゃない。
僕と、健太と、そして陽菜の物語。その、次のページが、今めくられたのだ。
夜空を見上げる。一番強く輝く星が、まるで健太のウインクのように、一度だけ強く瞬いた気がした。

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