錆色のオルゴール

錆色のオルゴール

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***第一章 鉄屑の旋律***

首都が陥落したという報せが届いたのは、乾いた風が工房の窓をカタカタと鳴らす、秋の日の午後だった。俺、リヒトは、磨き上げた真鍮の歯車から顔を上げた。街は静まり返り、遠くで鳴り響いていた教会の鐘の音さえ、今はもう聞こえない。戦争は、分厚い雲のように俺たちの日常を覆い尽くし、空の色さえも灰色に変えてしまったかのようだった。

俺は時計職人の見習いだ。師匠が徴兵されて以来、この小さな工房を一人で守っている。人々は日々の糧に追われ、時を刻む繊細な機械に心を寄せる余裕など失くしていた。注文は途絶え、俺はただ、埃をかぶった時計たちのゼンマイを巻き、止まった針を動かすだけの毎日を送っていた。戦争なんて、遠いどこかの出来事。俺の関心は、カチコチと正確に時を刻む、この小さな宇宙の中にしかなかった。

そんなある日、工房の扉が荒々しく開かれた。立っていたのは、見慣れない軍服に身を包んだ長身の将校だった。硬質な光を宿す瞳が、工房の中を値踏みするように見回す。彼の背後には二人の兵士が控え、その手には重そうな木箱が抱えられていた。

「君がリヒト君か。腕の良い職人だと聞いている」

将校は抑揚のない声で言うと、兵士に目配せした。木箱が作業台に鈍い音を立てて置かれる。蓋が開けられると、中から現れたのは、おびただしい量の鉄屑と、一枚の羊皮紙に描かれた、見たこともないほど複雑な設計図だった。

「これを、作ってもらいたい。可及的速やかに、百個だ」

俺は設計図を手に取った。そこには、天体の動きを模したかのような、無数の歯車とバネが緻密に絡み合う機構が描かれていた。それは、俺がこれまで作ってきたどんな時計やオルゴールよりも精巧で、ある種の禍々しい美しさを放っていた。これが何に使われるのか、将校は言わない。だが、その素材が銃や砲弾の残骸から集められた鉄屑であること、そして設計図の片隅に記された「信管」という文字が、その用途を雄弁に物語っていた。兵器の一部なのだ。

「これは……」言いよどむ俺に、将校は冷たい視線を向けた。
「国家の存亡がかかっている。君のその腕が、我々に勝利をもたらすのだ。これは命令であり、最高の栄誉だと思え」

栄誉。その言葉は、乾いた工房の空気の中で空虚に響いた。だが、俺の指は、設計図の複雑な線をなぞりながら、微かに震えていた。恐怖からではない。この難解な機構を形にしてみたいという、職人としての抗いがたい衝動からだった。戦争の是非も、国家の存亡も、正直どうでもよかった。ただ、この美しい地獄のような機械を、俺は自分の手で生み出してみたい。そう、思ってしまったのだ。

「……やります」

俺は頷いた。窓の外では、敗戦を告げるビラが、秋風に舞っていた。

***第二章 喝采と罪悪感***

俺の日常は一変した。工房には潤沢な資材と食料が運び込まれ、夜通しランプを灯すための油も不足することはなかった。俺は寝食を忘れ、鉄屑との格闘に没頭した。冷たくごわついた鉄を溶かし、叩き、磨き上げる。設計図に記された寸分違わぬ精密さで歯車を削り出し、バネを調整する。カチリ、と小さな部品が組み合わさるたびに、俺の心は高揚した。それは、新しい命を吹き込む作業に似ていた。

最初に完成した十個の「計時装置」が前線に送られてから数週間後、戦況が大きく動いたという噂が街を駆け巡った。敵の補給路を断ち、重要な拠点を奪還したのだという。街には久々に活気が戻り、人々は勝利の報に歓声を上げた。

そして、俺は「英雄の職人」と呼ばれるようになった。新聞には俺の名前が載り、街を歩けば見知らぬ人々から「ありがとう」と声をかけられる。工房には感謝の印として、パンやワインが届けられた。人々は、俺の作った小さな機械が、愛する家族を、この街を、国を守ったと信じて疑わなかった。

その喝采の中心で、俺は言いようのない孤独と、胸の奥に澱のように溜まっていく罪悪感を感じていた。誇らしくなかったわけではない。自分の技術がこれほどまでに高く評価されたことは、紛れもない事実だった。しかし、工房の窓から見える人々の笑顔と、遠い東の空を時折赤く染める砲火の光が、俺の中で決して交わることのない二つの世界として存在していた。

俺の作ったあの装置が、一つの戦果を挙げるたびに、その裏では何人の命が失われているのだろう。俺の削り出した歯車の一つ一つが、誰かの未来を、日常を、永遠に奪っているのかもしれない。

そんな考えが頭をよぎるたび、俺は作りかけで放置してあったオルゴールに目をやった。それは、師匠から受け継いだ仕事で、可憐な花の装飾が施されるはずだった。だが、今の俺の手は、鉄の匂いと油にまみれ、あの優雅な旋律を生み出すための繊細な動きを忘れてしまったようだった。ゼンマイを巻いても、その音色はどこか虚しく、錆びついて聞こえた。

俺は、喝采の中にいながら、誰にも理解されない罪を背負っているような気がした。夜、一人工房で作業をしていると、計時装置の規則正しい作動音が、まるで死へのカウントダウンのように響き渡り、俺は耳を塞ぎたくなる衝動に駆られた。

***第三章 真実の設計図***

その夜、街は地獄に変わった。けたたましいサイレンが闇を切り裂き、空から降り注ぐ焼夷弾が、次々と家々を炎に包んだ。報復だった。俺たちの勝利は、敵の憎しみに火をつけたのだ。轟音と振動が工房を襲い、俺は作業台の下に身を伏せることしかできなかった。

やがて空襲が止み、俺が瓦礫の山と化した工房から這い出すと、そこには見慣れた街並みはもうなかった。燃え盛る炎が夜空を焦がし、人々の悲鳴と呻き声が、死んだような静寂を切り裂いている。その時、俺は工房の残骸の下から、微かなうめき声を聞いた。

瓦礫を掻き分けると、そこにいたのは敵国の軍服を着た若い兵士だった。足に怪我を負い、苦痛に顔を歪めている。その顔は、憎むべき敵というより、ただの怯えた若者の顔だった。一瞬、躊躇いが心をよぎる。しかし、目の前で苦しむ人間を見捨てることはできなかった。俺は彼を担ぎ、かろうじて形を留めていた工房の地下室へと運び込んだ。

数日後、意識を取り戻した彼は、俺が作った計時装置の残骸が床に転がっているのを見て、目を見開いた。彼はエリアスと名乗り、敵国で機械工学を学んでいた技術兵だと言った。

「これを……君が作ったのか?」エリアスは、震える手で装置の破片を拾い上げた。
「ああ。国のために」俺はぶっきらぼうに答えた。
「国のために、か……」エリアスは自嘲するように笑い、そして、驚くべき真実を語り始めた。

「これは、爆弾の信管なんかじゃない。もっと恐ろしいものだ」
彼が言うには、この装置は敵国の通信網で使われる暗号を解読するための、超高精度な補助装置の心臓部だというのだ。俺が作り出した規則正しいリズムが、複雑な暗号のパターンを読み解く鍵となっていた。だからこそ、あれほどの戦果を挙げられたのだ。

そして、彼は続けた。言葉を選ぶように、ゆっくりと。
「この装置の基本設計は……元々、平和利用のために作られたものだ。数年前に国際天文学会で発表された、『恒星観測用クロノグラフ』の設計図なんだ」

恒星観測用クロノグラフ。その名前に、俺は息を呑んだ。その設計者こそ、俺が若い頃から密かに憧れ、その著作を擦り切れるほど読んだ伝説の時計職人、マイスター・クラウゼン。そしてエリアスは、そのクラウゼンの最後の弟子だった。

「先生は、この技術が星々の囁きを聞き、宇宙の真理を探究するために使われることを夢見ていた。国境も、憎しみも越えて、人類が共有できる知の遺産になるはずだった。それを……君たちの軍が盗み出し、殺戮の道具に変えたんだ」

頭を殴られたような衝撃だった。俺が美しいと感動し、職人魂を燃やして作り上げたあの機構は、俺が最も尊敬する人物の、平和への祈りを踏みにじったものだったのだ。俺は勝利に貢献したのではない。偉大な師の夢を汚し、人類の叡智を、最も醜い形で利用する手助けをしていたに過ぎなかった。

工房の床に散らばる歯車やバネが、まるで俺を嘲笑うかのように鈍く光っていた。英雄の職人? 冗談じゃない。俺はただの、愚かで無知な破壊者の手先にすぎなかったのだ。罪悪感が、絶望となって俺の全身を貫いた。

***第四章 夜明けのオルゴール***

やがて長い戦争は終わった。どちらの勝利でもない、ただお互いが疲れ果てただけの、虚しい終戦だった。街は瓦礫の山となり、生き残った人々は、失われたものの大きさに言葉もなく立ち尽くしていた。エリアスも、捕虜交換で故郷へと帰っていった。

俺は一人、半壊した工房の跡地で呆然と日々を過ごしていた。もう何かを作る気力もなかった。俺の技術は、結局、人を傷つけ、憎しみを生んだだけだったのだから。

そんなある日、瓦礫の山を漫然と掘り返していると、指先に硬いものが触れた。作りかけで放置してあった、あのオルゴールだった。埃と煤にまみれ、所々が錆びついていたが、その姿は奇跡的に保たれていた。俺はそれを手に取り、じっと見つめた。

その時、ふと、エリアスが去り際に残した言葉が蘇った。
『技術に罪はない。罪があるとしたら、それを使う人間の心だ。君の手は、まだ何か美しいものを生み出せるはずだ』

美しいもの。今の俺に、そんなものが作れるのだろうか。

俺は立ち上がった。工房の跡地から、使えそうな工具を拾い集める。そして、街の至る所に転がっている兵器の残骸――薬莢、銃の部品、砲弾の破片――を拾い集め始めた。人々は、気味悪そうに俺を遠巻きに見ていた。

俺は、あの忌まわしい計時装置を作った時と同じ集中力で、作業に没頭した。憎しみの象徴である鉄屑を溶かし、叩き、磨き上げる。だが、今、俺が作っているのは破壊の道具ではない。俺は、瓦礫の中から見つけ出したあのオルゴールを、この鉄屑たちで修復し、増幅させる、一つの大きな装置を作っていた。

数週間後、それは完成した。歪で、不格好で、錆だらけの、巨大なオルゴール。俺は震える手で、そのゼンマイをゆっくりと巻いた。

カチリ、という音の後、廃墟の街に、静かな旋律が響き渡った。
それは、勇ましい軍歌でも、勝利のファンファーレでもない。敵国も、自国も関係なく、誰もが幼い頃に母親から歌ってもらった、古い古い子守唄だった。

鉄屑から生まれたとは思えないほど、その音色はどこまでも優しく、温かかった。それは、この戦争で失われた全ての命への鎮魂歌であり、破壊された世界への慰めだった。瓦礫の上で立ち働いていた人々が、一人、また一人と動きを止め、その音色に耳を澄ませる。すすけた顔を上げた老婆の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちるのが見えた。

俺は、もう英雄ではない。ただの職人だ。そして、俺の技術が、初めて人を傷つけるためではなく、人の心を癒すために使われたことを、静かに実感していた。

夜明けの光が、瓦礫の街を金色に染め始める。錆色のオルゴールが奏でる子守唄は、まるで新しい世界の産声のように、いつまでも、いつまでも響き渡っていた。俺は、これからもここで、壊された世界で、美しいものを作り続けていこう。そう、心に誓った。

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