***第一章 壁の向こうのピアニスト***
健太の日常は、限りなく灰色に近い水色をしていた。フリーランスのグラフィックデザイナーという仕事は、彼に社会との最低限の接点と、孤独でいる自由を与えてくれた。築五十年の木造アパート『月光荘』の二階の角部屋。軋む床、すりガラスの向こうにぼんやりと滲む隣の建物の輪郭、そして、しんと静まり返った空気。それが彼の世界のすべてだった。
変化を嫌い、人との関わりを極力避けて生きる健太にとって、その単調さはむしろ心地よかった。朝、決まった時間に起き、コーヒーを淹れ、パソコンの前に座る。昼食はコンビニのサンドイッチ。夜はスーパーの半額になった惣菜。そのルーティンが、まるで防波堤のように、予測不能な世界の荒波から彼を守ってくれていた。
その静寂が破られたのは、十月も半ばを過ぎた、冷たい雨が窓を叩く夜のことだった。
いつものように仕事を終え、ぼんやりと天井を眺めていた健太の耳に、ふと、か細い音が届いた。最初は気のせいかと思った。古いアパートだ。どこかの部屋のテレビの音か、あるいは風が立てる物音だろう。だが、その音は途切れることなく、はっきりと旋律を形作っていた。
ピアノの音だ。
驚いて身体を起こす。音は、隣の部屋との境にある、薄っぺらい壁の向こうから聞こえてくる。つたない、一音一音を確かめるような指運び。時折、ためらうように間が空き、また弾き始める。プロの演奏ではない。むしろ、作曲のスケッチか、あるいは練習を始めたばかりの子供のような、ぎこちない響きだった。
しかし、そのメロディには不思議な力があった。短調の、どこか物悲しい旋律。寄せては返す波のように、同じフレーズが繰り返され、少しずつ形を変えていく。それは健太の心の奥にある、名前のない感情をそっと揺さぶるような、切なくも美しい調べだった。
問題は、隣の二〇三号室が、もう半年以上も空き部屋であるということだ。
前の住人が引っ越して以来、不動産屋の「入居者募集」の札がドアノブにかかったままのはず。健太はそっと立ち上がり、壁に耳を当てた。ざらりとした壁紙の冷たさが耳に伝わる。間違いない。音は壁の内部から、直接響いてくるかのようだ。
幽霊、という陳腐な言葉が頭をよぎり、健太は自嘲気味に息を吐いた。そんな非科学的なことがあるものか。おそらく、上の階か下の階の音が、建物の構造上、隣から聞こえるように反響しているのだろう。そう結論付け、彼はベッドに潜り込んだ。
だが、その夜からだった。毎晩、きっかり十一時になると、壁の向こうからピアノの音が聞こえてくるようになった。雨の日も、晴れた日も、風の強い夜も、その音楽だけは律儀に健太の部屋を訪れた。
健太の灰色の日常に、正体不明の「色」が、一滴だけぽとりと落とされた瞬間だった。
***第二章 聞こえない聴衆***
壁の向こうのピアニストは、健太の日常に静かに溶け込んでいった。初めのうちは不気味に感じていたその音も、一週間も経つ頃には、一日の終わりを告げる時計の鐘のように、彼の生活の一部となっていた。
彼はその音楽を聴くために、仕事を早めに切り上げるようになった。十一時が近づくと、パソコンの電源を落とし、部屋の明かりを消して、静かにその時を待つ。やがて聞こえてくる拙い旋律は、彼の孤独な部屋を、ささやかなコンサートホールに変えた。
その音楽は、決して上達しなかった。いつも同じ箇所でつまずき、同じところでためらう。しかし、その不完全さこそが、健太の心を惹きつけた。まるで、壁の向こうにいる誰かが、決して完成することのない想いを、夜ごと音に託しているかのようだった。
健太の中で、眠っていた好奇心がむくむくと頭をもたげた。彼はアパートの住人名簿を思い返してみたが、ピアノを弾きそうな家族はいなかった。一階には年金暮らしの老夫婦、向かいの部屋には夜勤の多いトラック運転手。やはり、どうしても二〇三号室から聞こえてくるようにしか思えない。
ある日の昼間、彼は意を決して二〇三号室のドアの前に立った。ドアノブには、色褪せた不動産屋の札がぶら下がっている。彼はそっとドアに耳を当ててみたが、何の音もしない。ただ、ひやりとした鉄の感触が伝わってくるだけだった。
「誰か、いるんですか」
自分の声が、思ったよりか細く、空っぽの廊下に吸い込まれていく。返事はなかった。
諦めきれない健太は、スマートフォンを取り出し、録音アプリを起動した。その夜、いつものように始まった音楽を、彼は息を殺して録音した。再生してみると、ノイズ混じりではあるが、あの切ないメロディが確かに記録されている。彼は音楽検索アプリで調べてみたが、「該当する楽曲はありません」という無機質なメッセージが返ってくるだけだった。
未知の曲。誰にも知られていない、ただこの壁を震わせるためだけに存在する音楽。
健太は、その音楽に自分だけの名前をつけた。『壁のノクターン』。それは、彼の孤独と、見知らぬ誰かの孤独が、壁一枚を隔てて共鳴する、秘密の合言葉のようだった。
彼は変わった。無気力に日々をやり過ごすだけだった男が、夜ごと奏でられる謎の音楽の、世界でただ一人の聴衆になった。壁の向こうの誰かを想像することで、彼の灰色の世界は、ほんの少しだけ深みを増し始めた。それは、他者への関心という、彼が長い間忘れていた感情の芽生えだったのかもしれない。
***第三章 空室のレクイエム***
季節が冬へと向かう頃、健太のささやかな日常を揺るMる、決定的な出来事が訪れた。一枚の封書が、彼の郵便受けに投函されていたのだ。差出人は、この『月光荘』の大家だった。
その手紙には、老朽化によるアパートの取り壊しと、半年以内の退去を求める旨が、事務的ながらも丁寧な言葉で記されていた。健太は呆然と立ち尽くした。この古びたアパートに愛着があったわけではない。むしろ、いつかは出ていくつもりだった。だが、今ではない。
真っ先に頭に浮かんだのは、金銭的な問題でも、新しい部屋を探す手間でもなかった。『壁のノクターン』が、もう聞けなくなってしまう。
その喪失感は、健太自身が驚くほど、深く鋭く胸に突き刺さった。顔も知らない、存在するかどうかも定かではない隣人が奏でる音楽が、いつの間にか彼の精神的な支柱になっていたのだ。
数日後、大家である小林さんが、菓子折りを持って挨拶にやってきた。腰の曲がった、穏やかな目をした老婆だ。立ち退きの件を詫びる彼女に、健太は、ずっと胸に秘めていた疑問を口にせずにはいられなかった。
「あの……小林さん。おかしなことを聞くようですが、隣の二〇三号室について、何かご存じないでしょうか」
彼の真剣な眼差しに、小林さんは少し驚いたように瞬きをした。
「二〇三号室、ですか。あそこはもう、ずっと空き部屋ですよ」
「毎晩、ピアノの音が聞こえるんです。壁から」
その言葉に、小林さんの表情が凍りついた。穏やかだった彼女の目が見開かれ、深い悲しみの色をたたえる。彼女はゆっくりと視線を落とし、震える声で語り始めた。
「……ああ、やっぱり、聞こえていましたか」
それは、健太の想像を遥かに超えた、あまりにも切ない物語の始まりだった。
「あそこには昔、私の娘が住んでいました。美咲、という名の……。あの子は、ピアニストになるのが夢でね。でも、身体が弱くて、二十五の若さで、この部屋で……」
大家の娘、美咲さん。彼女は病と闘いながら、来る日も来る日も作曲に打ち込んでいたという。そして、亡くなる数ヶ月前、彼女は電子工学を学んでいた友人に頼んで、奇妙な装置を作らせた。
「時限式の、小さな再生装置です。自分が最後に作った曲のデータを、その機械に遺して……壁の中に、埋め込んだんです」
「壁の中に?」健太は息を飲んだ。
「ええ。『誰にも迷惑はかけたくない。でも、私がここに生きていた証を、この部屋にだけは残したい。私が一番好きだったこの部屋の壁に、私の音楽を覚えていてほしい』って……。そう、言っていました」
それは幽霊などではなかった。若くして夢を絶たれた女性が、自らの生きた証を、その存在のすべてを、愛した部屋の壁に託した、魂の残響だったのだ。毎晩十一時に再生されるようにセットされた、彼女の未完のレクイエム。誰に聞かせるでもなく、ただ、そこに在り続けるためだけの音楽。
健太は言葉を失った。自分が聴いていたのは、見知らぬ誰かの孤独の結晶だった。壁一枚を隔てていたのは、生身の人間ではなかったが、確かにそこに存在した、強い想いだった。彼は自分の孤独を、彼女の永遠の孤独に重ね合わせ、どうしようもないほどの愛しさと痛みに胸を締め付けられた。
***第四章 新しい部屋のソナタ***
取り壊しの日が、刻一刻と近づいていた。健太は、毎晩の儀式を、これまで以上に大切に、慈しむように行った。部屋の明かりを消し、壁際に座る。十一時。壁が震え、あのメロディが流れ出す。
もはやそれは、不気味な謎でも、単なる音楽でもなかった。美咲という、会ったこともない女性との、静かで親密な対話だった。彼女の喜び、悲しみ、そして叶わなかった夢。そのすべてが、拙い音の一つ一つに込められているように感じられた。健太は最後の夜、そっと壁に手のひらを当てた。ひんやりとした壁紙の向こうに、確かに温かい魂の気配を感じた。ありがとう、と彼は心の中で呟いた。君の音楽は、ちゃんとここに届いていたよ、と。
引っ越しの当日。がらんどうになった部屋は、やけに広く感じた。健太は荷物を運び出すと、最後に大家の小林さんの元へ挨拶に向かった。
「大変お世話になりました」
「こちらこそ。健太さん、いいお部屋は見つかりましたか」
「はい。おかげさまで」
別れの挨拶を済ませ、立ち去ろうとした健太は、ふと足を止めて振り返った。
「小林さん。娘さんの音楽、毎晩聴いていました。とても……素敵な曲でした。あの音楽のおかげで、僕は、この部屋で孤独ではありませんでした」
その言葉に、小林さんの目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。彼女は何度も頷きながら、しわくちゃの手で健太の手を握りしめた。
「ありがとう……ああ、ありがとう。あの子の音楽に、聴衆がいたんですね。あの子、きっと、喜んでいます……」
娘の孤独な音楽が、誰かの孤独を癒していた。その事実は、母親にとって何よりの慰めだったのだろう。健太は、自分の言葉が、見知らぬ誰かの心を救えたのかもしれないという事実に、胸が熱くなるのを感じた。
新しいアパートは、以前の部屋より少しだけ広く、窓から明るい光が差し込んでいた。健太は荷物を解くと、真っ先に窓を開け放った。車の走る音、近所の公園から聞こえる子供たちの笑い声、隣の部屋からかすかに漏れるテレビの音。かつてはノイズでしかなかったそれらの生活音が、今はすべて、誰かがそこで生きている確かな証として、彼の耳に優しく響いた。
彼はパソコンデスクに向かう。新しい仕事の依頼が来ている。真っ白なデザイン画面の隅に、彼は小さなピアノのイラストをそっと配置した。
もう、『壁のノクターン』が聞こえることはない。しかし、健太の世界は、もはや灰色ではなかった。壁の向こう側で息づく、無数の人生に思いを馳せることを覚えた彼の日常は、静かでありながらも、豊かな音色に満ちていた。孤独は、すぐ隣にある別の孤独と、いつだって繋がることができるのだ。彼はそのことを、もう知っていた。
壁のノクターン
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