午前七時三十二分の境界線

午前七時三十二分の境界線

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いつからだろうか。世界の彩度が、一段階下がってしまったように感じ始めたのは。

柏木健太の朝は、灰色から始まる。アスファルトの灰色、ビルのコンクリートの灰色、そして満員電車に乗り込む人々の無表情な顔、顔、顔。それら全てが混ざり合い、一つの巨大な灰色の塊となって健太の一日を押し潰していく。

午前七時三十二分、JR中央線、下り。定位置は七号車のドア横。これがもう三年は変わらない、健太の日常の座標だ。今日もまた、スマホの画面に視線を落とす人々の群れに体を埋め、ガラス窓に映る生気のない自分の顔から目を逸らした。

電車が地下トンネルへと滑り込む。車内が暗闇に包まれ、次の瞬間、いつもの白い蛍光灯が灯る。――はずだった。

パッ、と車内が温かいオレンジ色の光に満たされた。まるで夕暮れ時の光だ。健太は思わず顔を上げた。しかし、周囲の乗客は誰一人として反応しない。誰もがスマホの青白い光に顔を照らされたまま、微動だにしない。

気のせいか。疲れているのかもしれない。

そう思った矢先、電車はトンネルを抜けた。しかし、窓の外に広がっていたのは、見慣れたビル街ではなかった。

空には、二つの月が浮かんでいた。一つは白く、もう一つは翡翠色に輝いている。眼下には、巨大なキノコのような建物が林立し、その合間を、提灯をぶら下げた小舟のような乗り物がゆらゆらと飛んでいた。

「……は?」

声にならない声が漏れた。健太は目をこすり、もう一度窓の外を見た。風景は変わらない。巨大な歯車がいくつも絡み合い、ギシギシと音を立てながら世界そのものを動かしているかのような、壮大で、しかしどこか長閑な光景。

健太は弾かれたように周囲を見回した。イヤホンで音楽を聴く女子高生、新聞を読む老人、居眠りをするサラリーマン。誰も、本当に誰も、この異常事態に気づいていない。彼らの目に映る窓の外は、いつもの退屈な線路脇の風景なのだろうか。

――ピンポーン。

『まもなく、黄昏市場前、たそがれいちばまえ。お出口は、左側です』

凛とした、しかし聞いたことのない女性の声でアナウンスが流れる。
健太の心臓が早鐘を打つ。恐怖と、それを上回るほどの強烈な好奇心。ドアが開くと、ホームには獣の耳を生やした商人が露店を広げ、光る果物や、小瓶の中で小さな竜巻が渦巻いている不思議な品物を並べていた。駅の看板は、見たこともない渦巻き模様の文字で書かれている。

降りるべきか。いや、降りたら二度と戻れないかもしれない。でも、このまま何事もなかったかのように、あの灰色の日常に戻るのか?

迷っているうちに、無情にも発車のベルが鳴り響く。ドアが閉まりかけるその瞬間、一人の少女が息を切らして電車に滑り込んできた。セーラー服姿の、高校生くらいの少女だった。

彼女は、健太と全く同じ顔をしていた。驚きと混乱に目を見開き、信じられないといった様子で窓の外と車内を交互に見比べている。やがて、その視線が同じように呆然と立ち尽くす健太を捉えた。

少女は駆け寄ってくると、小さな声で尋ねた。
「あの……あなたも、見えてるんですか? この景色」

健太は、乾いた喉でようやく頷いた。孤独な観測者でなくなった安堵が、全身を駆け巡る。
「ああ。君もか」

少女は「ミナ」と名乗った。彼女もまた、今日初めてこの不思議な電車に乗り合わせたのだという。

二人が言葉を交わすうちにも、電車は空飛ぶクジラの群れの下をくぐり、逆さまに流れ落ちる虹色の滝の横を走り抜けていく。退屈だった通勤時間は、生涯忘れられない冒険の時間へと姿を変えていた。

そして、終点のアナウンスが流れる。
『終点、境界駅。この電車の旅は、ここで終わりです』

ドアの向こうは、真っ白な光に満ちていた。ホームも、線路も、何もない。ただ、その空間にポツンと、古い木製の改札が一つだけ置かれていた。改札の横には、古びた制帽を被った駅員の老人が静かに立っている。

老人は、降り立った健太とミナに微笑みかけた。
「ようこそ、境界駅へ。この改札を抜ければ、君たちの日常は少しだけ変わる。引き返せば、全てを忘れて元の日常に戻る。さあ、どうするね?」

健太は、灰色の日常を思い出した。ため息と無力感で塗り固められた、あの日々を。そして、今この瞬間の、胸が張り裂けそうなほどの高揚感を思った。隣を見ると、ミナも決意に満ちた目でこちらを見ていた。

健太は息を吸い込み、駅員に向かって言った。
「俺、このつまらない日常に、ちょっと飽きてたんです」

二人は頷き合うと、手を取り合って、光の改札へと歩みを進めた。

眩い光に意識が遠のく。

次に健太が目を開けた時、彼は会社の自席に座っていた。窓の外はいつものビル街。壁の時計は、午前八時五十五分を指している。
「……夢、か」
こぼれたため息は、灰色の味がした。やはり世界は何も変わらない。

そう思った時、視界の端に違和感を覚えた。
デスクの上に、見慣れない木彫りの小さなフクロウがちょこんと置かれている。それは間違いなく、『黄昏市場』の露店で見たものだった。

その時、フロアの入り口がにわかに騒がしくなった。
「本日からお世話になります、新しい派遣社員の湊(みなと)さんです」
課長の声に顔を上げると、そこに立っていたのは、あのセーラー服の少女、ミナだった。スーツ姿の彼女は、健太に気づくと、いたずらっぽく片目をつぶって微笑んだ。彼女の胸元には、あの光る果実そっくりのブローチが、確かな存在感を放って輝いている。

健太は、思わず噴き出した。
灰色の世界に、鮮やかな色が差し込んだ気がした。日常は続く。だが、昨日までとは全く違う、秘密と冒険の匂いをはらんだ、ワクワクする日常が、今、始まったのだ。

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