佐藤健太は、繰り返される朝にうんざりしていた。
目覚まし時計が鳴る6時半。トーストとインスタントコーヒーの味気ない朝食。7時15分にアパートのドアを開け、駅へと向かう足音。そして、ホームの2番線、前から3両目のドア、左から二番目の位置で待つ、7時32分発の上り電車。
すべてが完璧なルーティン。まるで誰かが書いた脚本を、毎日忠実に演じているかのようだった。車窓から流れる景色も、乗り合わせる人々の顔ぶれも、昨日と寸分たがわない。吊り革を握るくたびれたサラリーマン。スマホのゲームに没頭する学生。咳を一つして、文庫本に視線を落とす、向かいの席の女。
「また、この一日が始まるのか」
ため息は、電車の走行音に吸い込まれて消えた。
その日、健太はほんの些細な、しかし決定的な違和感に気づいた。
きっかけは、向かいの席の女が読んでいた文庫本だった。昨日、彼女はたしかに右のページを読んでいた。だが今日も、彼女の親指は同じ右ページ、同じ行の上で微動だにしていない。記憶違いか? いや、そんなはずはない。健太は妙な胸騒ぎを覚えた。
翌日、彼は意識して車内を観察した。
女の文庫本は、やはり同じページが開かれている。吊り革のサラリーマンは、昨日と全く同じタイミングでため息をついた。学生のスマホ画面に見えるゲームのスコアも、昨日と一桁たりとも違わない。
ぞくり、と背筋に冷たいものが走った。
これは、ただの偶然ではない。この車両、いや、この電車全体が、巨大な舞台装置の上で同じ演目を繰り返しているのではないか?
「まさか……」
健太は、試してみることにした。いつもは降りない隣の駅で、衝動的に電車を降りた。ドアが閉まり、見慣れた車両が走り去っていく。ホームには健太一人。シーンと静まり返った駅は、まるで精巧に作られたセットのようだった。
次の電車を待とうと電光掲示板を見上げた、その時。
ぐにゃり、と視界が歪んだ。次の瞬間、健太は自分の身体が急速に巻き戻されていくような、強烈な浮遊感に襲われた。
「うわっ!」
気づけば彼は、いつもの電車の、いつもの場所に立っていた。目の前には、閉まったはずのドア。車内には、見慣れた乗客たち。まるで、隣の駅で降りたことなど、初めからなかったかのように。
混乱と恐怖が、健太の心を支配した。彼は、このループから抜け出そうともがいた。大声で叫んでみたり、隣の乗客の肩を揺さぶってみたりもした。しかし、誰も彼に反応しない。彼らはただ、それぞれの「役割」を演じ続けるだけだった。
万策尽きた健太が、その場にへたり込もうとした時だった。
「――お気づきになりましたか」
声がした。見ると、いつも文庫本を読んでいた女が、本を閉じ、まっすぐに健太を見つめていた。その瞳は、これまで見たことのない、深く、知的な光を宿していた。
「え……?」
女が立ち上がると、車内のすべての乗客がピタリと動きを止めた。彼らは人形のように静止し、その無機質な視線を一斉に健太へと向ける。
「あなたのように、世界の『バグ』に気づく方はごく稀です。ほとんどの人は、与えられた日常を疑うことなく、永遠にリプレイし続けます」
「一体、どういうことなんだ……?」
「ここは、選別の場所。停滞した日常から抜け出し、自らの意志で『次』の物語を求める魂を探すための、箱舟です」
女は、にこりと微笑んだ。それは、舞台女優が最高の笑みを見せるような、完璧な微笑みだった。
「佐藤健太さん。あなたは、このリプレイされる日常の観客でいることに飽いてしまった。違いますか?」
電車のドアが、ぷしゅー、と音を立てて開いた。
しかし、そこはいつもの駅のホームではなかった。目の前に広がっていたのは、地平線の彼方まで続く、真っ白な空間。何もなく、しかし、すべてが始まりそうな、無限の可能性を秘めた場所だった。
「さあ、選択の時です。ここまでの記憶をリセットし、明日もまた同じ7時32分の電車に乗るか。それとも、そのドアの向こうへ進み、あなただけの物語を始めるか」
健太は、ゴクリと唾を飲んだ。退屈だった日常。うんざりしていた繰り返しの日々。それが、今、目の前で終わりを告げようとしている。恐怖はもうなかった。胸を満たしていたのは、これから始まる冒険への、どうしようもないほどの高揚感だった。
「面白い」
健太は笑い、真っ白な空間へと、力強く一歩を踏み出した。
「そっちの世界、見せてもらおうじゃないか」
彼の「本当の日常」が、今、始まった。
午前7時32分のリプレイ
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