俺がアパート『月見荘』に引っ越してきたのは、先月のことだ。築三十年は経っていそうな木造二階建て。決め手は、都心にしては破格の家賃だった。そして、その破格の理由を、俺は入居初日に知ることになる。
「こちら、ゴミ出しのルールブックです」
大家の橘さんは、皺だらけの笑顔で、分厚い冊子を俺に手渡した。ゴミ出しに、ルールブック? 辞書ほどの厚みがあるそれに唖然としていると、橘さんは人差し指を立てて言った。
「このアパートでは、ゴミ出しが一番大事なんです。ルールを一つでも破ると、ゴミは回収されません。それどころか、ちょっとした不運に見舞われるかもしれませんからねぇ」
冗談めかして笑う大家の目は、少しも笑っていなかった。
そのルールは、常軌を逸していた。
燃えるゴミは月曜と木曜の午前六時から六時半の間。指定の半透明の袋を使い、中身が三割以上見えるように配置すること。袋の口は、必ず蝶々結びで。
ペットボトルはラベルを剝がし、キャップとリングを外し、中を洗剤で洗浄後、完全に乾燥させてから出すこと。水滴が一つでも残っていればアウト。
極めつけは、『思い出のゴミ』という謎のカテゴリだった。第三金曜日の夜明け前、太陽が昇る直前の三分間だけ、指定の瑠璃色の袋に入れて出すことができる、とある。ただし、「心から不要になった思い出」に限る、という注意書き付きだ。
「馬鹿馬鹿しい」
最初はそう思っていた。だが、俺は根が小心者だ。不運に見舞われる、という言葉が妙に引っかかり、馬鹿正直にルールを守ることにした。午前五時半にアラームをセットし、眠い目をこすりながらゴミを出す日々。
変化に気づいたのは、一週間後のことだ。
ルール通りにゴミを出した翌日、通勤途中に買った缶コーヒーが「当たり」だった。まあ、偶然だろう。その次のゴミ出しの日、企画会議で出したアイデアが、満場一致で採用された。これも、まぐれかもしれない。
疑念が確信に変わったのは、二週間目の月曜日だった。
前夜、友人と深酒をしてしまい、盛大に寝坊した。慌ててゴミ袋を掴み、指定時間を七分も過ぎてから集積所に放り投げた。袋の口は固結び。最悪のルール違反だ。
その日、俺は散々だった。大事な取引先に送るメールを別のアドレスに誤送信し、駅の階段で盛大にずっこけ、お気に入りのスーツを破いた。昼飯に食べたカツ丼は、なぜか肉がやけに硬かった。
「まさか……」
背筋に冷たいものが走った。あのゴミ出しルールは、単なる決まり事じゃない。これは、何かの『システム』だ。
俺は他の住人を観察し始めた。二階の窓際でいつもハーブを育てている女性は、ゴミ出しが完璧だった。彼女はいつも穏やかで、ベランダには美しい花が咲き乱れている。一方、俺の隣の部屋の男は、ゴミ出しが雑だった。彼の部屋の前には、回収されなかったゴミ袋がいつも一つ二つ残されており、彼の顔には常に疲労と不満の色が浮かんでいた。
このアパートは、ゴミ出しによって『運』を管理しているのだ。
そして、第三金曜日がやってきた。
俺の部屋には、段ボール箱が一つあった。中身は、三年前に別れた彼女との思い出の品々だ。写真、手紙、二人で買ったマグカップ。もう未練はない。ないはずだった。でも、心のどこかで引きずっているのも事実だった。
「心から不要になった思い出」。このゴミは、出せるのか?
夜明け前の薄闇の中、俺は瑠璃色のゴミ袋を手に、集積所の前に立っていた。心臓が早鐘を打つ。これを捨てれば、俺の運気はさらに上向くかもしれない。でも、本当にいいのか? 俺の過去の一部を、ゴミとして処分してしまって。
「――迷っているうちは、捨てられませんよ」
背後から、穏やかな声がした。橘さんだった。いつもの皺だらけの笑顔で、俺の隣に立つ。
「ゴミっていうのはね、人生のキャッシュみたいなもんなんです。溜め込みすぎると、動きが鈍くなる。時々、整理してやらないと。デフラグって言うんですかね、今どきの言葉で」
デフラグ。言い得て妙だ。俺の人生は、不要なデータでパンパンなのかもしれない。
俺は覚悟を決めた。段ボール箱の中身を、一つずつ瑠璃色の袋に移していく。写真、手紙、そしてマグカップ。最後の一つを入れた時、不思議と心は凪いでいた。ありがとう、さようなら。俺は袋の口を、ルールブック通り、丁寧に蝶々結びにした。
太陽が地平線の向こうから顔を覗かせた、その瞬間。
俺が出した瑠璃色のゴミ袋が、ふわりと淡い光を放ったかと思うと、まるで陽炎のように揺らめき、すぅっと透明になって消えてしまった。
「え……?」
呆然とする俺の肩を、橘さんがぽんと叩いた。
「はい、デフラグ完了。空き容量ができましたね」
その日の午後、会社のデスクで仕事をしていると、人事部長が俺の元へやってきた。
「佐々木くん、ちょっといいか。実は、来月から新しく立ち上げるプロジェクトチームがあってね。君に、そのリーダーを任せたいんだ」
断る理由など、どこにもなかった。
窓の外を見上げると、空は突き抜けるように青い。俺の日常は、あの午前六時の儀式によって、確実に書き換えられていく。次のゴミ出しは月曜日だ。今度はどんな幸運が待っているだろう。俺はカレンダーに赤丸をつけながら、口元が緩むのを止められなかった。月見荘での退屈な日常は、今や、最高にワクワクする冒険の舞台となっていた。
午前六時のデフラグメンテーション
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