午前八時の結界

午前八時の結界

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俺、佐藤健太がこの古びたマンション「月光荘」に越してきて一番驚いたのは、ゴミ出しのルールが軍隊の作戦行動マニュアル並みに厳格なことだった。

「燃えるゴミは月・木、朝八時厳守。指定袋はきっちり固結び。カラス対策ネットは隙間なく被せること」
入居初日、管理人の鈴木さん――背中を丸め、常にジャージ姿の好々爺然とした老人だ――から渡された「生活のしおり」には、そんな文言が朱書きで記されていた。プラスチック、缶、ビン、古紙に至っては、分、秒単位での指定すらありそうな勢いだ。

「たかがゴミ出しで、大げさな」
社会人三年目、念願の一人暮らしに浮かれていた俺は、正直なめていた。最初の燃えるゴミの日、寝坊して八時三分に集積所へ駆け込むと、すでにそこに鈴木さんが立っていた。腕を組み、仁王のように。

「佐藤さん、三分遅刻だ。それにこの結び方では、奴らの侵入を許してしまう」
「はあ、奴らって……カラスですか?」
「カラス、などという生易しいものではない」
鈴木さんは俺の手からゴミ袋をひったくると、慣れた手つきでキュッと結び直し、所定の位置に置いた。その一連の動きは、老人のそれとは思えないほど洗練されていた。

そんな攻防が数週間続いたある水曜の夜。俺は部署の飲み会で泥酔し、帰宅するなりベッドに倒れ込んだ。翌朝、けたたましいアラーム音で跳ね起きると、時刻はすでに七時五十五分。木曜日、燃えるゴミの日だ。

「やべっ!」
時間がない。俺はろくに分別もせず、生ゴミとペットボトルを一つの袋にごちゃ混ぜに突っ込むと、玄関を飛び出した。エレベーターを待つ時間も惜しく、階段を駆け下りる。

集積所に滑り込んだのは、八時ちょうど。セーフ。鈴木さんの姿はない。俺は乱暴にゴミ袋を放り投げ、仕事へ向かおうとした。その時だった。

「待ちなさい」

背後から突き刺さるような声。鈴木さんだ。いつの間に。
「佐藤さん。君は、自分が何をしたか分かっているのか」
その声は、いつもの好々爺然としたものではなく、凍てつくように冷たかった。
「いや、時間には間に合ったじゃないですか」
「問題は時間だけではない。その『中身』だ。君は、禁忌を破った」
鈴木さんは俺が投げたゴミ袋を指差した。その目は、まるで罪人を見るかのように鋭い。
「ルールは、ただの決まり事ではない。この町を守るための『結界』そのものなんだ。正しい手順こそが、儀式のすべてだというのに……」

訳が分からなかった。結界? 儀式? このじいさん、何を言ってるんだ。俺は呆れた顔で鈴木さんを一瞥し、足早にその場を去った。

その日の夜、異変は起きた。
真夜中、ガタガタという不気味な物音で目が覚めた。窓の外が、ぼんやりと青白く光っている。好奇心に駆られ、カーテンの隙間からそっと覗き込んだ俺は、息を呑んだ。

ゴミ集積所が、光の源だった。そして、俺が今朝投げ捨てたゴミ袋が不気味に脈動し、その裂け目から、黒い霧のようなものがずるりと這い出てきている。霧は不定形な影となり、蠢き、集積所の外へ染み出そうとしていた。

恐怖で体が固まる。あれは、なんだ。
その時、影の前にスッと人影が立った。鈴木さんだ。だが、その姿はいつもと全く違っていた。丸まっていた背筋はピンと伸び、手には掃除用のデッキブラシを槍のように構えている。

「『澱み』め。禁を破った不浄物から漏れ出るとは、小賢しい」
鈴木さんがデッキブラシを振るうと、その先端が鋭い銀色の光を放った。影は甲高い悲鳴のようなものを上げ、光に焼かれて霧散していく。鈴木さんは少しも怯むことなく、的確に、そして流麗に、漏れ出る影を次々と「掃き清めて」いった。それはもはや、掃除ではなく、熟練の剣士による演舞だった。

夜明け前、すべての影を掃討し終えた鈴木さんは、ふぅ、と一つ息をつくと、デッキブラシを元の位置に戻し、またいつもの腰の曲がった老人へと戻っていった。

翌朝。俺は七時半には集積所の前に立っていた。完璧に分別され、固く結ばれたゴミ袋を手に。やがて現れた鈴木さんに、俺は深々と頭を下げた。

「昨日は……すみませんでした」
鈴木さんは少し驚いた顔をしたが、やがて全てを察したように、ふっと笑った。
「見ていたかね」
「はい……あの、あれは一体……」
「この土地は、古来より異界と現世の境界が曖昧でね。『澱み』と呼ばれる良くないものが溜まりやすい。このゴミ出しの儀式は、日々の暮らしから出る清浄な『気』を集め、澱みを封じるための結界なのさ。ルールの一つ一つが、結界を維持するための術式になっている」
つまり、俺のズボラが、世界の危機を招きかけたということか。

「俺……手伝います」
俺の言葉に、鈴木さんは目を細めた。
「そうかい。なら、まずは明日の缶・ビン・ペットボトルの予習からだな。ラベルは剥がす。キャップは外す。中は綺麗に濯ぐ。いいかね、これは世界で最も重要なミッションなんだ」

その日以来、俺の日常は一変した。
ゴミ出しは、もはや面倒な家事ではない。この町の、いや、この世界の平穏を守るための神聖な儀式だ。俺は「生活のしおり」を熟読し、完璧な分別と時間厳守を己に課した。

月曜の朝。俺は誇らしげに燃えるゴミの袋を掲げ、朝日の中を歩く。隣には、少しだけ嬉しそうな顔をした師匠、鈴木さんがいる。大丈夫。今日の結界も、俺たちが完璧に維持してみせる。さあ、ミッション開始だ。

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