片耳のデュエット

片耳のデュエット

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月曜日の朝は、いつもより少しだけ世界の解像度が低い。僕、佐藤健太にとって、その感覚はコンクリートの地面に吸い込まれた小さなプラスチック片によって決定的なものになった。愛用のワイヤレスイヤホン、その右耳側だけが、忽然と姿を消したのだ。

ポケットを探り、カバンの中をひっくり返し、来た道を数メートル戻ってみる。しかし、アスファルトの上に転がっているのは、乾いた落ち葉と誰かの無責任なガムだけ。右耳から流れ込むはずだった、お気に入りのインディーズバンドのギターリフは沈黙し、代わりに車の走行音やカラスの鳴き声といった、無機質な現実の音だけが鼓膜を揺らした。

世界が、半分だけミュートされたみたいだった。

学校に着いても、授業の内容は右耳から左耳へ、いや、そもそも入ってこなかった。残された左耳だけのイヤホンで音楽を聴いてみるが、それはまるでモノクロ映画を無理やり見せられているような物足りなさで、余計に喪失感を煽るだけだった。いつもは音楽というフィルターを通して少しだけドラマチックに見えていた退屈な日常が、剥き出しのまま、色褪せて目の前に横たわっている。

昼休み、僕は最後の望みをかけて昇降口の掲示板に向かった。落とし物の知らせが貼られる、あのコルクボードだ。期待せずに隅から隅まで目を走らせると、不意に一枚の小さなメモが目に飛び込んできた。

『ワイヤレスイヤホン(左耳)を拾いました。持ち主は心当たりを添えて、3年2組の鈴木まで』

「左耳……?」

僕が落としたのは右耳だ。違う。けれど、その拙いながらも丁寧な手書きの文字が、なぜか妙に心に引っかかった。僕と同じように、世界の半分を失くした誰かがいる。その事実に、ほんの少しだけ、見えない共感を覚えた。ひょっとしたら、この貼り紙を見た僕の「右耳」の拾い主が、何かアクションを起こすかもしれない。そんな淡い、蜘蛛の糸のような期待を抱いて、僕はそのメモをスマホで撮影した。

放課後、結局なんの手がかりも得られないまま、僕はほとんど無意識に3年生の教室が並ぶ廊下を歩いていた。ダメ元だ。そう自分に言い聞かせ、3年2組のプレートがかかった教室のドアをそっと開ける。

「あの、すみません。鈴木さん、いらっしゃいますか?」

教室の窓際、一番後ろの席で本を読んでいた女子生徒が、ゆっくりと顔を上げた。夕暮れの光を背に受けて、その表情は少し見えにくい。色素の薄い髪がさらりと揺れた。

「私だけど。……もしかして、イヤホンの?」
「あ、はい。掲示板、見ました」

彼女――鈴木さんは、僕の顔と、僕が恐る恐る差し出したスマホの画面を交互に見て、ふっと息を吐くように笑った。

「そっか。あなたも、落としたんだ。……右耳?」

その言葉は、まるで合言葉のようだった。僕は驚いて顔を上げる。彼女は机の上に、ぽつんと置かれたイヤホンの充電ケースを見せてくれた。そこには、左耳のイヤホンだけが寂しそうに収まっていた。僕のケースと、全く同じ光景だった。

彼女の名前は鈴木詩織さん。僕と同じメーカーの、同じ色のイヤホンを愛用していて、そして僕と同じように、片方だけを失くしていた。僕らは互いの境遇に妙な親近感を覚え、「片耳同盟」と冗談めかして名付けた共同戦線を張ることになった。

それから数日、僕らは一緒にイヤホンを探した。僕が落とした通学路、彼女が落としたらしい中庭のベンチ周辺。これまで一人で音楽の世界に閉じこもっていた僕が、誰かと会話をしながら歩く放課後は、新鮮で、少しだけ照れくさかった。

「どんな曲、聴くの?」
詩織さんが尋ねる。僕は少し口ごもりながら、好きなバンドの名前を挙げた。すると彼女は「あ、そのバンド、新しいアルバム良かったよね」と目を輝かせた。僕らは互いの好きな音楽や、どうでもいい日常の出来事を話した。イヤホンがない耳は、彼女の声を聞くためにあったのかもしれない。不思議なことに、世界の解像度は日に日に上がっていくようだった。灰色だったアスファルトが、夕日を浴びて金色に輝いて見えた。

結局、僕らのイヤホンは見つからなかった。捜索活動も五日目を迎え、諦めの空気が漂い始めた帰り道。並んで歩く僕らの影が、夕日で長く、不完全に伸びていた。

「見つからないね」
「……そうですね」

沈黙が落ちる。もう、この奇妙で心地良い放課後も終わりかもしれない。そう思った時、詩織さんが立ち止まり、僕に向き直った。

「ねえ、佐藤くん」
「はい」
「半分こ、しない?」

彼女はそう言うと、自分のカバンからイヤホンのケースを取り出し、左耳のイヤホンを僕の掌にそっと乗せた。僕は意味が分からず、彼女の顔と手のひらの上の白いイヤホンを交互に見る。

「私も、右耳が欲しいな」

詩織さんは、悪戯っぽく笑った。僕は一瞬の間を置いて、その言葉の意味を理解した。そして、自分のケースから、たった一つ残された右耳のイヤホンを取り出し、彼女に差し出した。

僕らは公園のベンチに腰掛け、それぞれ片方の耳に、元は他人のだったイヤホンを装着した。詩織さんがスマホを操作し、僕に合図を送る。

「せーの」

同時に再生ボタンを押す。僕の右耳に、彼女の好きなピアノの旋律が流れ込み、彼女の左耳には、僕が愛したバンドのイントロが響いたはずだ。ちぐはぐなはずなのに、なぜだろう。失われた世界の半分が、パズルのピースがはまるように埋まっていく感覚がした。

僕らは顔を見合わせて、思わず笑ってしまった。

「なんだか、すごいステレオだね」
「ですね」

なくしたものは見つからなかった。僕らのイヤホンは、もう二度とペアになることはないだろう。でも、掌の中には確かな温もりが残っていた。不完全な僕らは、不完全なまま隣にいて、互いの欠けた部分を補い合うように、一つの音楽を聴いている。

日常は何も変わらない。明日もまた、平凡な一日がやってくるだろう。だけど、僕の右耳から流れるこの優しいピアノの音色が、世界をほんの少しだけ、特別なものに変えてくれることを、僕はもう知っていた。

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