「またこの時間か」。佐藤健太は、蛍光灯がまばらに灯るオフィスで独りごちた。時計の短針はとっくに10を指している。資料の山に埋もれたデスクは、まるで現代の塹壕だ。うんざりするようなルーティンを終え、重い足取りで会社を出る。夜風が火照った顔に心地よかった。
いつもの帰り道。角を曲がると、そこには例の自動販売機がぼんやりと光を放っている。お世辞にも新しいとは言えない、少し錆の浮いた代物だ。健太はポケットから小銭を探り、百三十円を投入した。缶コーヒーのボタンを押す。ガコン、という無骨な音とともに、いつもの黒い缶が取り出し口に落ちてきた。
缶を取り、お釣りの十円玉を掴もうとした、その時だった。
視界の隅で、何かがチカ、チカと点滅しているのに気づいた。
返却レバーのすぐ下。普段は何もないはずの場所に、米粒ほどの小さな青いランプが灯っている。まるで深海の生き物のような、静かで、しかし確かな光。その下には、爪の先ほどの大きさの、黒い四角いボタンが埋め込まれていた。ボタンには、擦れて消えかかった文字でこう刻まれているようだった。
『もう一度』
なんだ、これ。いたずらか? 健太は首を傾げた。疲労と寝不足で幻覚でも見ているのかもしれない。だが、青い光は現実のものとして、彼の網膜に焼き付いている。
帰って寝るべきだ。そう頭では分かっている。けれど、指先が勝手に動いた。毎日同じことの繰り返し。代わり映えのしない日常。その退屈さが、ほんの少しの好奇心に火をつけた。
「えい」
小さな呟きと共に、健太は黒いボタンを押し込んだ。
カチリ、と軽い手応え。
すると、自動販売機の内部から、先ほどの缶コーヒーとは明らかに違う、硬質な音が響いた。
ガチャン!
取り出し口を覗き込むと、そこには缶ではなく、艶消しの黒いカプセルが一つ、転がっていた。ガチャガチャのカプセルによく似ているが、どこにも継ぎ目が見当たらない。
健太は訝しげにそれを拾い上げた。振ってみると、中でカラカラと乾いた音がする。どうやって開けるんだ? 途方に暮れてカプセルを眺めていると、手のひらの体温に反応したのか、カプセルの側面がスライドし、中から折り畳まれた小さな紙片が現れた。
広げてみると、そこには奇妙な活字が並んでいた。
【最初の指令】
明朝、午前七時。駅前広場の噴水のそばで、鳩に餌を与えること。
条件:餌はキャラメルポップコーンであること。
「は?」
思わず声が出た。なんだこれは。手の込んだドッキリか? キャラメルポップコーン指定というあたりが、妙に腹立たしい。馬鹿馬鹿しい。健太は紙片を丸めて捨てようとした。だが、できなかった。その指令の無意味さが、逆に彼の心を捉えて離さなかったのだ。もし、これを実行したら? 何かが変わるかもしれない。ほんの少しだけ、明日がいつもと違う一日になるかもしれない。
翌朝。健太は、コンビニで買ったキャラメルポップコーンの袋を片手に、駅前広場に立っていた。もちろん、三十分の早起きを強いられた。眠い目をこすりながら噴水の縁に腰掛け、ポップコーンを数粒、地面に撒く。平和の象徴であるはずの鳩たちが、我先にと獰猛な勢いでそれに群がった。
「君かね」
不意に背後から声をかけられ、健太は飛び上がった。振り返ると、ツイードのジャケットを着こなした、白髪の老人がにこやかに立っていた。
「ポップコーンとは、なかなか粋なチョイスだ。君が今日の『プレイヤー』かね?」
「プレイヤー…?」
「いかにも」と老人は頷いた。「君が昨夜押したボタンは、『街角アドベンチャー』への参加証だ。おめでとう。君は、この退屈な街を舞台にした壮大なゲームの参加者に選ばれた」
健太は呆気にとられて老人を見つめる。ゲーム? 街が舞台?
「信じられない、という顔だね。だが、事実は小説より奇なり、と言うだろう? さあ、これが次のヒントだ」
老人はそう言って、一枚の銀色のコインを健太の手に握らせた。コインには、一つのマークが刻印されている。それは、口を開けたライオンの顔だった。
「次なる指令は、『百獣の王が見つめる先』に隠されている。幸運を祈るよ、若き冒険者」
老人はそう言い残すと、人混みの中へすっと消えていった。
健太の手には、甘い香りのするポップコーンの袋と、ひんやりと重いライオンのコインが残された。
百獣の王。ライオン。この街のどこにそんなものが?
考えを巡らせた瞬間、健太ははっとした。駅前のデパートの入り口に、石造りのライオン像が二体、鎮座しているのを思い出したのだ。
いつもの通勤路。毎日、何気なく通り過ぎていた風景。それが今、巨大なゲームボードに姿を変えた。
健太はゴミ箱にポップコーンの袋を捨てると、確かな足取りでデパートへと向かった。心臓が高鳴る。退屈だった灰色の日常が、鮮やかな色彩を帯びて輝き始めた。
「さて、次の冒険はどこだ?」
彼の呟きは、朝の喧騒に溶けていった。世界は、まだ彼に隠された秘密をたくさん持っている。
コイン一枚の冒険
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