佐藤優奈の日常は、限りなく灰色に近かった。平坦な道、同じビル、変化のないデスクワーク。まるで誰かが決めたレールの上を、ただ正確に走るだけの電車みたいだと思っていた。
その朝、異変は冷蔵庫の扉から始まった。
「今日のラッキーカラーは青」
見慣れない、丸っこい文字で書かれた付箋。昨夜、こんなものを貼った記憶はない。ルームシェアをしているわけでもなし、昨夜訪ねてきた友人もいない。首を傾げながらも、優奈はそれを剥がしてゴミ箱に捨て、いつも通りクローゼットからベージュのブラウスを手に取った。
しかし、その日は妙に「青」が目についた。プレゼンで褒めてくれた部長のネクタイも、ランチで入ったカフェの看板も、帰り道に買った新刊小説の表紙も、すべてが鮮やかな青だった。偶然だ、と自分に言い聞かせた。
翌朝。冷蔵庫には、また付箋が貼られていた。
「いつもより十分早く家を出ること」
ぞくり、と背筋に何かが走った。昨日の今日だ。優奈は迷った末、時計の針に急かされるように、言われた通り十分早くアパートを飛び出した。駅のホームに着くと、電光掲示板に「人身事故による運転見合わせ」の赤い文字が流れていた。いつも乗るはずだった電車は、まだ薄暗い線路の途中で立ち往生しているらしかった。
それからだ。優奈の灰色の日常が、まるで宝探しゲームのように色づき始めたのは。
「西の本棚、奥から三番目の文庫本をチェック」
半信半疑で手に取ると、ページの間に挟んだまま忘れていた一万円札が出てきた。
「ベランダの植木鉢、一番右。土の下」
恐る恐る掘り返してみると、ビニール袋に包まれた小さな指輪が現れた。二年前に失くして、泣く泣く諦めた祖母の形見だった。
優奈は、この謎の同居人を「予言者さん」と呼ぶことにした。毎朝、冷蔵庫の扉を開けるのが楽しみで仕方がなかった。今日はどんなサプライズが待っているだろう。退屈だった通勤電車も、今は謎を解くためのヒントを探すフィールドに変わった。世界は、こんなにもキラキラしていたのか。
そして、一週間が経った金曜日の朝。メモの文面は、いつもと少し違っていた。
「今夜七時、駅前の広場へ。赤い傘を持って」
ついに、予言者さんに会えるのかもしれない。優奈の心臓は、期待と不安で大きく跳ねた。空は一点の曇りもない快晴だったが、彼女は言われた通り、クローゼットの奥から赤い傘を引っ張り出した。
夕方七時。駅前の広場は、帰路を急ぐ人々でごった返していた。その人波の中で、赤い傘を差して立つ優奈は、少しばかり奇妙な存在に見えただろう。心細さから傘の柄を握りしめていると、ふと、自分以外にも赤い傘を持つ人がいることに気がついた。一人、二人……ざっと見渡すだけで五人もいる。皆、戸惑ったようにきょろきょろと辺りを見回していた。
「あの……もしかして」
声をかけてきたのは、爽やかな笑顔の青年だった。彼の手にも、真新しい赤い傘が握られている。
「あなたも、『未来コンシェルジュ』のモニター当選者ですか?」
「みらいこんしぇるじゅ……?」
優奈が鸚鵡返しに尋ねると、青年は自分のスマートフォンを見せてくれた。画面には『次世代AIによるライフハックアプリ βテストへようこそ!』という文字が踊っている。
青年の説明によれば、これは、ユーザーの生活パターンやSNS、室内の環境データをAIが分析し、超小型ドローンが最適なアドバイスをメモで届けてくれる、という最新アプリのモニター企画なのだという。「冷蔵庫が一番目につく場所だとAIが判断したんでしょうね」と彼は笑った。失くした指輪も、以前優奈がSNSに「部屋のどこかにあるはず」と投稿したのをAIが記憶していたらしい。
拍子抜けするほど、あっけない種明かしだった。予言者さんの正体は、手のひらに収まるほどの最新テクノロジー。なんだか少しだけ、がっかりした。
でも、と優奈は思う。
この一週間、世界が輝いて見えたのは事実だ。退屈な日常に隠された宝物を、私は確かに見つけたのだ。
「ま、いっか」
優奈は小さく呟いて、赤い傘をくるりと回した。隣で青年も、つられたように傘を回す。
灰色の日常は、案外、自分の心持ち一つでいくらでもカラフルになるのかもしれない。予言者さんがいなくても、明日の朝、私は冷蔵庫に自分で付箋を貼ってみようか。
「今日のラッキーアイテムは、笑顔!」なんてね。
広場の喧騒の中、二人の笑い声が軽やかに弾けた。空には、一番星が瞬き始めていた。
午前七時の予言者
文字サイズ: