スーパーマーケット・クエスト

スーパーマーケット・クエスト

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月曜日の憂鬱を洗い流すシャワーのように、金曜日の退勤チャイムは僕の心に降り注ぐ。佐山譲、三十歳、独身。システム開発会社で働く僕の日常は、限りなく灰色に近い白で塗り固められていた。変化のないコードの羅列、味のしないコンビニ弁当、そして誰もいない部屋に響くテレビの音。そんな僕に唯一許された冒険、それが近所のスーパー「スマイルマート」での買い物だった。

冒険といっても、やることは単純だ。いかに安く、質の良い食材を手に入れるか。それは一種のゲームであり、僕にとっての聖杯探求だった。

異変に気づいたのは、三ヶ月ほど前の火曜日のことだ。その日、僕はいつものように鮮魚コーナーを偵察していた。狙いはアジの開き。定価三百九十八円。夕方六時を回れば二十パーセント引きになるのが常だった。しかし、その日は違った。時計が六時十五分を指した瞬間、店員の高橋さんがおもむろに現れ、アジの開きではなく、隣のサバの味噌漬けに「半額」のシールを貼ったのだ。

偶然か? いや、違う。僕のデータによれば、火曜日の鮮魚コーナーで半額シールが出現するのは、閉店間際の八時半以降のはず。この前倒しには、何かトリガーがある。僕の眠っていた分析魂に火がついた。

それからというもの、僕のスマイルマート通いは、単なる節約から「法則の解読」へとシフトした。僕は密かにノートを取り始めた。日付、天候、時間、客の入り、店員のシフト、店内に流れるBGM。あらゆる要素を記録し、値引きの法則性を探った。

やがて、いくつかの「クエスト」が姿を現した。

【クエスト1:雨上がりの虹】
条件:平日の降水確率80%以上の予報が外れ、午後四時以降に晴れた場合。
報酬:ベーカリーコーナーの焼きたてパンが全品三十パーセント引きになる。

【クエスト2:店長の鼻歌】
条件:メガネの田中店長が『三百六十五歩のマーチ』を鼻歌で歌いながら青果コーナーを巡回した場合。
報酬:その日、レジで「いいお天気ですね」と声をかけると、バナナが一房無料になる。

まるで隠しコマンドだ。僕はこれらのクエストを次々とクリアし、節約という実利以上の、純粋な達成感に打ち震えた。退屈だった日常が、秘密のベールを一枚めくっただけで、こんなにもスリリングなものに変わるなんて。

もちろん、このゲームのプレイヤーは僕だけではなかった。

いつもベビーカーを押している若い主婦、僕は彼女を「クイーン」と呼んでいる。彼女は決して焦らない。惣菜コーナーの前で悠然と佇み、他の客が諦めて去った瞬間に現れる「タイムセール」の揚げ物を、女王のように独占する。そのタイミングの正確さは、もはや予知能力の域だ。

そして、無口な白髪の老人、「賢者」。彼は買い物かごすら持たない。店内をゆっくりと一周し、ピンポイントで一つの商品だけを手に取ってレジへ向かう。その商品は決まって、数分後に「本日限りのお買い得品!」としてPOPが貼り出されるものだった。彼は未来を読んでいるのか?

僕らは互いに言葉を交わさない。だが、確かに視線で、呼吸で、会話をしていた。特売の牛肉を前にした一瞬の牽制。最後の一個となった特売卵を譲り合う無言の騎士道精神。僕らは、スマイルマートというダンジョンを攻略する、見えざるパーティだったのだ。

そんなある日、常連たちの間で一つの伝説が囁かれ始めた。「幻のゴールデン・シール」の伝説だ。月に一度、たった一つの商品にだけ貼られるという黄金色のシール。それを手に入れた者は、スマイルマートの一ヶ月間お買い物無料パスが手に入るという。

誰もその出現条件を知らない。まさに、このゲームのラスボスだった。

僕は燃えた。クイーンも、賢者も、きっと同じ気持ちだろう。僕らの静かな情報戦が始まった。僕はノートの記録を洗い直し、クイーンはママ友ネットワークを駆使し、賢者はただ静かに店内を歩き、何かを読み取っているようだった。

そして、運命の金曜日。僕はついに法則を突き止めた。
「月と金星が最も接近する夜」「田中店長が赤いネクタイをしている」「BGMがビバルディの『四季』から『春』であること」「そして、レジの三番レーンが『調整中』の札を出していること」。
全ての条件が、今、この瞬間に揃っていた。

僕は息を飲んで店内を見渡す。ターゲットはどこだ。すると、乳製品コーナーの隅で、クイーンが僕に目配せをした。その視線の先、ヨーグルトの棚の奥に、微かな黄金の輝きが見えた。しかし、その前には賢者が立ちはだかっている。

三つ巴の睨み合い。先に動いたのは、賢者だった。彼はゆっくりと手を伸ばし…黄金のシールが貼られたヨーグルトの、隣の牛乳を手に取った。そして、僕とクイーンにだけ聞こえるような声で、かすかにつぶやいた。
「若者たちへの、餞別じゃ」

彼はそのままレジへと向かった。クイーンは僕を見て、優雅に微笑むと、ベビーカーをくるりと回して出口へ向かった。
「今日は、主人と外食の約束があるの。健闘を祈るわ、ナイト」

残されたのは僕一人。心臓が早鐘を打つ。僕は震える手で、黄金のシールが貼られた「濃厚ギリシャヨーグルト」を掴んだ。レジで震える声で精算を済ませ、店長から祝福と共に「お買い物無料パス」を受け取った時、僕はただの会社員ではなく、偉大な冒険を成し遂げた勇者のような気分だった。

月曜日の朝、僕はいつもより少しだけ早く家を出た。灰色の日常は変わらない。だが、僕の心は確かな色を帯びていた。スマイルマートの前を通りかかると、賢者が朝日を浴びながら店の前を掃除していた。彼は僕に気づくと、小さく片目をつぶって見せた。

日常は、見つけ出すのを待っている無数のクエストで満ちている。さあ、今日のクエストは何だろう。僕は胸を張り、新たな冒険が待つ会社へと向かった。足取りは、驚くほど軽かった。

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