***第一章 季節外れの金木犀***
水島健太の一日は、挽きたてのコーヒー豆の香ばしい匂いから始まる。しかし、その香りが彼の心を浮き立たせることは、もう久しくなかった。システムエンジニアとして在宅で働く彼の世界は、モニターの青い光が照らす六畳の書斎と、生活音が消えたリビング、そして時折、無心で空を眺めるためのベランダだけで完結していた。
一年前に妻の美咲を病で亡くして以来、健太の時間は停滞していた。部屋のあちこちに置かれた彼女の私物。本棚に並んだままの料理本、洗面台の隅に残されたハンドクリーム、クローゼットにかかったワンピース。それらはまるで、主の帰りを待つ忠実な僕のように、静かに佇んでいる。健太は、それらを片付ける勇気も、気力も持てずにいた。
変化は、蟬の声がアスファルトを溶かすような八月の初めに訪れた。隣の202号室は、半年ほど空き家だったはずだ。その日、健太がいつものようにマグカップを片手にベランダに出ると、隣のベランダに、見慣れない老人が一人、パイプ椅子に腰掛けていた。皺の深い顔、真っ白に整えられた髭。老人は何もせず、ただじっと、抜けるような夏の青空を見上げている。
それから毎日、老人は決まった時間にベランダに現れた。朝の十時と、陽が傾き始める午後の三時。まるで儀式のように、ただ空を見上げる。健太は、その静かな存在が気になり始めた。挨拶を交わすでもなく、ただ互いの生活圏の境界線で、それぞれの時間を過ごす。
ある雨の日だった。老人はベランダに、素焼きの小さな植木鉢を一つ置いた。健太の目には、その鉢には黒い土が盛られているだけで、何も植えられていないように見えた。しかし、その日からだった。健太の部屋に、ふわりと甘く、どこか懐かしい香りが漂い始めたのは。
最初は気のせいだと思った。換気扇からだろうか。いや、違う。その香りは、どうしようもなく健太の記憶を揺さぶる。それは、美咲がこよなく愛した、金木犀の香りだった。まだ真夏だというのに、どうして。健太は窓を開け、鼻をくんと鳴らした。香りは、間違いなく、隣のベランダの方から風に乗って運ばれてくるようだった。
***第二章 思い出を育てる男***
謎の香りは、健太の停滞した日常に、小さな波紋を広げた。その金木犀の香りは、老人がベランダにいる時間に、とりわけ強く感じられるのだった。老人は毎日、空っぽに見える植木鉢に、小さなジョウロで丁寧に水をやっている。その姿は真剣そのもので、まるで何よりも大切なものを慈しんでいるかのようだった。
健太の脳裏に、美咲の笑顔が蘇る。「この香り、好きだなあ。秋が来たって感じがする」。そう言って、庭の小さな金木犀の木を見上げていた妻。香りは、幸せだった頃の記憶の引き金だった。胸の奥が甘く痛み、同時に、どうしようもないほどの孤独感が彼を襲った。
「あの、すみません」
ある日の午後、健太はついに勇気を振り絞って、ベランダの隔て板越しに声をかけた。老人はゆっくりとこちらを振り向き、深い皺の刻まれた目元を優しく細めた。
「こんにちは」
「こんにちは。いつも…その鉢、大切にされてますね。何か、珍しい植物でも育てていらっしゃるんですか?」
健太の問いに、老人はしばらく黙って植木鉢を見つめた。そして、穏やかな声で、しかしはっきりと言った。
「思い出を、育てておるんじゃ」
「……思い出、ですか?」
聞き返した健太に、老人は悪戯っぽく片目をつぶって見せた。
「そう。水と、陽の光と、時々の優しい言葉をかければ、思い出はちゃんと育つ。そして、美しい香りを放つのだよ」
謎めいた言葉だった。健太はそれ以上何も聞けず、曖昧に会釈をして部屋に戻った。思い出を育てる? 馬鹿げている。だが、あの金木犀の香りはどう説明すればいいのか。健太は混乱した。老人は少し変わった人物なのだろう。そう結論づけようとしても、あの静かで確信に満ちた瞳が、脳裏から離れなかった。
その夜、健太は夢を見た。美咲と初めて出会った大学のキャンパス。秋風に揺れる金木犀の並木道。彼女の笑い声と、甘い花の香りが混じり合う。夢から覚めた健太の頬を、一筋の涙が伝っていた。部屋にはまだ、幻のような金木犀の香りが、淡く漂っている気がした。
***第三章 妻が残した日記***
週末、健太は衝動に駆られるように、美咲の遺品整理を始めた。もう前に進まなければ。そう自分に言い聞かせながらも、彼女の物に触れるたびに、指先から記憶が流れ込んでくるようで、何度も手が止まった。
クローゼットの奥、彼女が大切にしていたストールの箱の後ろから、小さな桐の箱が出てきた。蓋を開けると、中には革張りの古い日記帳と、いくつかの植物の種が入った小さな紙袋が収められていた。日記は、美咲のものだった。彼女が亡くなる半年ほど前から、つけ始めたものらしかった。健太は息を呑み、震える手で最初の一ページをめくった。
そこには、健太の知らない美咲の姿があった。病状の不安、彼への感謝、そして、隣の部屋に越してきた斉藤という老人との出会いが綴られていた。
『今日、隣に越してきた斉藤さんとお話しした。元植物学者で、とても物知りな方。私の育てているハーブの名前を、一目見ただけで全部言い当ててしまった』
ページをめくる手が速くなる。そして、健太は信じられない記述に突き当たった。
『斉藤さんは、特殊な植物の研究をしていたらしい。「記憶親和性植物」と呼んでいた。人の強い記憶や感情を、DNA情報のように種子に宿し、成長と共にその記憶を「香り」として放出する植物。まるでSF小説みたいだけど、先生の目は本気だった』
心臓が大きく脈打つ。まさか。
『私の身体、もう長くないみたい。健太を残していくのが、一番つらい。私が死んだら、彼はきっと、抜け殻みたいになってしまう。だから、斉藤さんにお願いした。私の「思い出」を、種に残してくださいって。健太が一番寂しい時に、香りでそばにいてあげられるように』
日記の最後の方のページは、涙の染みで少し滲んでいた。
『斉藤さんが、特別な金木犀の種を作ってくれた。健太と初めて会った、あの秋の日の思い出を込めて。私が死んだら、彼がベラン-ダでこの種を植えてくれる約束。健太、あなたがこの日記を読む頃、隣から懐かしい香りがしているかしら。それは、私からの手紙よ。あなたのそばに、ずっといるからね』
健太は日記を胸に抱きしめ、その場に崩れ落ちた。嗚咽が、静まり返った部屋に響き渡る。あの香りは、幻でも、偶然でもなかった。美咲の、愛情そのものだったのだ。空っぽに見えた植木鉢。思い出を育てるという老人の言葉。すべてのピースが、悲しいほど美しい一枚の絵となって繋がった。
***第四章 二つのベランダ***
涙が乾いた頃、健太は日記を手に、おぼつかない足取りで隣の部屋のドアを叩いた。ドアを開けたのは、あの老人――斉藤さんだった。健太の姿と、彼が手にしている日記を見ると、すべてを察したように静かに頷いた。
「…やはり、気づかれましたか」
斉藤さんは健太を部屋に招き入れ、ベランダへと促した。ガラス戸の向こう、あの素焼きの鉢が目に入る。近づいてよく見ると、黒い土の表面から、双葉の、本当に小さな緑色の芽が顔を出していた。
「これは…」
「奥様の思い出は、今、ようやく芽吹いたところです」
斉藤さんは、慈しむようにその芽に触れた。
「この植物は、宿された記憶の持ち主が、強く想われることで芽吹く。君が彼女を想い、その香りに心を揺さぶられたからこそ、この芽は生まれた。この香りは、思い出が成長する過程で放たれる、いわば記憶の息吹なのです」
斉藤さんは続けた。
「植物がいつか枯れるように、この香りも永遠ではないでしょう。しかし、君が彼女の思い出を大切にし、語りかけ、想い続ける限り、この芽はきっと、美しい花を咲かせる。思い出とは、ただ過去にしまい込むものではない。未来に向かって、育んでいくものなのですよ」
健太は、その小さな緑の芽をじっと見つめた。それは、もはや単なる植物ではなかった。美咲の生命であり、自分への愛の結晶だった。一年間、時を止めていたのは自分の方だった。美咲は、こんなにも温かい形で、前に進むための光を灯してくれていたのだ。
「ありがとうございます」
健太の口から、掠れた、しかし確かな感謝の言葉がこぼれた。涙はもう出なかった。代わりに、穏やかで、温かい何かが胸いっぱいに広がっていくのを感じた。
数日後、健太のベランダには、新しいプランターが一つ置かれていた。ホームセンターで買ってきた、真新しい土と、ラベンダーの苗。美咲が「あなたの心が疲れた時に」と、よくアロマを焚いてくれた、安らぎの香りだ。
隣のベランダから漂う、甘い金木犀の香り。そして、これから自分が育てていく、優しいラベンダーの香り。健太は、プランターの土にそっと指を触れた。ひんやりとした土の感触が、生きていることの確かさを教えてくれる。
風が吹き抜け、二つのベランダの香りを優しく混ぜ合わせる。健太は空を見上げた。あの日、斉藤さんが見上げていたのと同じ空だ。そこにはもう、どうしようもないほどの孤独はなかった。思い出と共に、明日を生きていく。彼はもう、一人ではなかった。
思い出が香るベランダ
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