***第一章 罅(ひび)の入った日常***
古びたアパートの郵便受けに、その手紙は静かに横たわっていた。差出人の名はない。鈍いクリーム色の封筒には、ただ俺、相沢涼介の名だけが、見慣れない硬質な筆跡で記されていた。
俺は、人との間に意識的に薄い膜を張って生きてきた。大学でもサークルには属さず、講義が終われば真っ直ぐに帰宅する。そんな俺にも、たった一人だけ、その膜をやすやすと突き破ってくる男がいた。新田陽翔だ。太陽みたいに笑い、誰にでも気さくに話しかける陽翔は、俺とは正反対の人間だった。そんな彼がなぜ俺に構うのか、不思議でならなかったが、その屈託のなさが心地よく、いつしか俺たちは親友と呼ばれるようになっていた。陽翔といるときだけ、世界は少しだけ色鮮やかに見えた。
部屋に戻り、ペーパーナイフで封を切る。中から滑り落ちたのは、一枚の写真と、短い文章が印刷された紙片だった。
『新田陽翔を信じるな』
心臓が嫌な音を立てて跳ねた。視線を写真に移す。そこに写っていたのは、満面の笑みを浮かべる陽翔と、俺の知らない青年だった。二人は海を背景に肩を組み、まるで兄弟のように親密に見える。だが、奇妙な違和感があった。写真の中の陽翔は、俺が知っている彼よりも少しだけ幼く、そして纏う空気がどこか違う。まるで、陽翔であって陽翔でないような、奇妙な感覚。
「……なんだ、これ」
ここのところ、陽翔の様子が少しおかしかったのは確かだ。時折、会話の途中で遠くを見つめたり、「昨日は何をしていた?」という俺の何気ない問いに、一瞬言葉を詰まらせたり。些細なことだと自分に言い聞かせてきたが、この手紙が、心の隅に溜まっていた澱を一気に掻き混ぜた。
趣味のカメラを手に取る。ファインダーを覗けば、世界は四角く切り取られ、余計なものが削ぎ落とされる。それが好きだった。だから俺の撮る写真はいつも風景ばかりだ。予測不能な感情を持つ人間をフレームに収めるのは、どうにも苦手だった。
だが今、俺の頭の中は、陽翔という予測不能な存在で埋め尽くされていた。ファインダーを覗いても、彼の笑顔と、あの謎めいたメッセージがちらついて離れない。俺たちの友情という完璧に見えた風景に、音もなく一本の罅が入った瞬間だった。
***第二章 影を追って***
疑念は、湿った土に染み込む水のように、ゆっくりと、しかし確実に俺の心を侵食していった。大学のキャンパスで陽翔の姿を見つけると、無意識に彼の隣にいる人間を確認してしまう。彼が誰かと楽しげに話しているだけで、胸の奥がざわついた。あの写真の青年を探している自分がいた。
「なあ、陽翔。お前、何か隠してることないか?」
ある日の帰り道、耐えきれずにそう切り出した。夕暮れの光が彼の横顔をオレンジ色に染めている。陽翔は一瞬だけ目を見開き、それから困ったように笑った。
「なんだよ急に。隠し事なんてないさ」
その笑顔が、薄っぺらい仮面のように見えた。嘘をついている。そう直感した。俺たちの間に、重く気まずい沈黙が落ちる。陽翔が何かを言いかけたが、結局、最後まで口にすることはなかった。
真実が知りたい。その一心で、俺は最低な行為に手を染めることにした。陽翔を尾行することにしたのだ。罪悪感で吐き気がしたが、そうせずにはいられなかった。
数日後、陽翔は大学を出ると、いつもとは逆方向のバスに乗り込んだ。俺は少し離れた席から、彼の背中を見つめる。やがて彼が降り立ったのは、古びた総合病院の前だった。病気なのか? それとも誰かの見舞いか? どちらにせよ、なぜそれを俺に隠す必要がある? 謎は深まるばかりだった。
俺はもう一度、彼を問い詰めるべきか迷った。だが、もし彼が重い病を患っていたとしたら、俺の疑念は彼を深く傷つけるだろう。友情が完全に壊れてしまうかもしれない恐怖が、俺の足に鉛の枷をはめた。
俺はただ、陽翔との間に生まれた見えない溝の縁に立ち、暗い向こう側を覗き込むことしかできなかった。陽翔の影は、日に日に濃く、長く伸びていくように見えた。
***第三章 ファインダー越しの告白***
決心したのは、それから一週間後の土曜日だった。陽翔は「少し実家に用事ができた」とだけ言い残し、駅へと向かった。俺はカメラバッグを肩にかけ、その後を追った。電車に揺られること一時間、彼が降り立ったのは、潮の香りが漂う海辺の小さな町だった。
陽翔は慣れた足取りで、高台にある小さな墓地へと向かっていく。俺は墓石の陰に身を潜め、息を殺した。陽翔は一つの墓石の前に立つと、持ってきた花を供え、静かに手を合わせた。そこに、初老の女性が近づいてくる。
「陽翔くん、いつもありがとうね」
「いえ……。あいつ、海が好きでしたから」
途切れ途切れに聞こえてくる会話。あの写真の青年は、この墓に眠っているのか? 女性は誰なんだ? 俺が混乱していると、女性は寂しげに微笑んで言った。
「海斗も、あなたみたいな友達がいたら、きっと幸せだったでしょうに……」
カイト――。その名前が、雷のように俺の脳を撃ち抜いた。
その夜、アパートのドアを叩く音がした。ドアを開けると、憔ेंで憔悴しきった陽翔が立っていた。
「涼介……。話があるんだ」
部屋に入った陽翔は、テーブルの向こう側に座り、長い沈黙の後、ぽつりぽつりと語り始めた。その告白は、俺の全ての予想を根底から覆すものだった。
「あの手紙……俺が出したんだ」
「……は?」
「ごめん、涼介。お前に、本当のことを知ってほしくて。でも、自分からはどうしても言えなくて……こんな卑怯な方法しか思いつかなかった」
陽翔には、双子の弟がいた。海斗という名の。俺が写真で見た、陽翔と瓜二つの青年。しかし、性格は正反対。内向的で、友達も少なく、いつも一人で本を読んでいるような子だったらしい。まるで、俺みたいに。
海斗は一年前に、長く患っていた病でこの世を去った。陽翔は、弟が亡くなる直前に漏らした言葉が忘れられなかった。
「兄ちゃんみたいに、友達が欲しかったな。涼介みたいな……」
そう、海斗は、俺と同じ大学に通っていたのだ。一度だけ、図書館で見かけた俺のことを、陽翔に話していたらしい。「すごく静かなやつがいる。なんだか気になる」と。
陽翔は、その弟の言葉を胸に抱えたまま、大学で俺と出会った。俺の物静かな佇まいに、海斗の面影を見た。俺と親友になることで、陽翔は亡き弟との時間をやり直しているような、叶わなかった願いを成就させているような、そんな歪んだ慰めを得ていたのだ。
「最初は、それでよかった。でも、だんだん苦しくなった。俺は、涼介を涼介として見ていないんじゃないか。海斗の身代わりにしているだけじゃないのかって……。お前といるのが、どんどん罪悪感で辛くなったんだ」
だから、俺を遠ざけようとした。そして、この歪んだ関係を一度終わらせるために、自らあの手紙を送った。海斗が昔撮った、陽翔と海斗が写っている写真を添えて。「陽翔を信じるな」というメッセージは、「海斗の幻影を追いかけている今の俺を信じるな」という、悲痛な叫びだったのだ。
俺は言葉を失っていた。怒りよりも先に込み上げてきたのは、陽翔が一人で抱え込んできた途方もない孤独と悲しみへの、深い共感だった。
***第四章 二つの影、一つの光***
俺は無言で立ち上がると、部屋の隅に置いてあったカメラバッグを手に取った。そして、陽翔の前に戻ると、静かにカメラを構えた。いつも風景にしか向けることのなかったレンズを、初めて、目の前の親友に向けた。
ファインダーを覗くと、涙でぐしゃぐしゃになった陽翔の顔が、フレームいっぱいに広がった。それは、俺が今まで見たどんな景色よりも、複雑で、痛々しくて、そしてどうしようもなく美しい被写体だった。
「陽翔」
俺は、ゆっくりと、はっきりと告げた。
「俺は、海斗じゃない。お前の友達の、相沢涼介だ」
その言葉が届いた瞬間、陽翔の瞳から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。それは絶望の涙ではなく、長い苦しみから解放された、安堵の涙に見えた。
カチッ。
乾いたシャッター音が、静かな部屋に響き渡った。ピントが合ったのは、泣きながら、それでも微かに笑おうとしている、陽翔の偽りのない顔だった。俺たちの友情は一度壊れ、そして今、この瞬間に、もっと強く、もっと本物の形で再生したのだ。
数日後、俺たちは二人で、あの海辺の町を訪れた。陽翔に案内され、海斗の墓の前に立つ。潮風が、俺たちの頬を優しく撫でていく。俺は、先日撮った陽翔の写真を、そっと墓石の前に置いた。
「はじめまして、海斗くん。俺が涼介です。君のお兄さんとは、最高の友達だよ」
陽翔は何も言わず、ただ俺の肩を強く叩いた。
帰り道、俺たちは防波堤に腰を下ろし、沈みゆく夕日を眺めていた。橙色の光が海面を照らし、俺たちの影を長く、長く砂浜に伸ばしている。風が吹くと、二つの影は揺らめき、時に一つに重なり、また離れていく。
それはまるで、陽翔と俺、そして今は亡き海斗の魂が寄り添っているようにも見えた。失われた過去と、現在と、そしてこれから続いていく未来。その全てを、夕焼けの光が静かに包み込んでいた。俺は隣にいる親友の横顔をそっと盗み見ると、もう一度カメラを構えた。ファインダーの中の陽翔は、本当に穏やかな顔で、遠い水平線を見つめていた。
残像のファインダー
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