腐臭と硝煙の匂いが混じり合った泥濘の中で、リアムは息を潜めていた。塹壕の壁に背を預け、冷たい雨水が襟足を伝う感覚だけが、自分がまだ生きていることを証明しているようだった。砲弾が遠くで炸裂し、大地が鈍く震える。それはもはや、この世界の心臓の鼓動にすら思えた。
リアムは汚れた軍服の胸ポケットにそっと手を入れた。指先に触れる、硬質で冷たい金属の感触。小さなブリキのオルゴール。出征前夜、恋人のエマが「お守りよ」と言って手渡してくれたものだ。「この曲が終わる頃には、きっと帰ってきてね」。そう言って微笑んだ彼女の顔が、瞼の裏に焼き付いている。リアムにとって、このオルゴールは単なる約束の品ではなかった。それは失われた平穏な世界の欠片であり、彼が人間であり続けるための最後の楔だった。
「おい、新入り。感傷に浸ってる暇があったら、銃の手入れでもしろ」
背後から、古参兵ザックの荒々しい声が飛んできた。ザックは顔に深い傷跡を持つ、鋼のような男だった。人を殺すことに何の躊躇いも見せず、リアムの持つ僅かな人間性を「甘さ」だと断じては、嘲笑う。それでも、リアムはこの男の中に、分厚い氷の下で凍りついた優しさのようなものを感じずにはいられなかった。
ある日、リアムはザックと共に斥候任務を命じられた。敵陣との中間地点に横たわる、廃墟と化した教会を探るのだ。降りしきる雨の中、二人は身を屈めながら、瓦礫が散乱する無人地帯を進んだ。巨大な十字架が半ばから折れた教会は、まるで神の骸のように静まり返っていた。
内部に足を踏み入れると、ひやりとした空気が肌を刺した。かつて信徒たちの祈りで満たされたであろう空間は、死の沈黙に支配されている。割れたステンドグラスから差し込む灰色の光が、埃の中で乱反射し、幻想的な光景を作り出していた。その美しさにリアムが一瞬心を奪われた、その時だった。
祭壇の陰から、誰かが動く気配がした。ザックとリアムは瞬時に銃を構える。そこに立っていたのは、リアムと同じくらいの年頃の、まだ幼さの残る敵兵だった。恐怖に見開かれた瞳が、まっすぐにリアムを捉えている。少年兵もまた、震える手で銃を構えていたが、その引き金に指をかけることを躊躇しているのが見て取れた。
時間が停止したかのような静寂。雨音と、互いの荒い呼吸だけが響く。リアムの指も、引き金の上で凍りついていた。目の前の敵は、ただの記号ではなかった。自分と同じように故郷があり、守りたい誰かがいる、一人の人間なのだ。殺せない。殺したくない。その想いが、全身を縛り付けていた。
その瞬間、少年兵の軍服のポケットから、何かが滑り落ちた。カラン、と乾いた音を立てて床に転がったのは、小さなブリキの箱。リアムが胸に抱いているものと、全く同じ形のオルゴールだった。ただし、それは無残にへこみ、壊れていた。
少年兵の目が、一瞬だけ床のオルゴールに向けられる。その表情に浮かんだのは、絶望と哀切。リアムは悟った。彼もまた、自分と同じなのだと。同じ想いを、同じ願いを、この鉄の塊に託していたのだと。
だが、その共感は一発の銃声によって無慈悲に引き裂かれた。
背後からザックが放った弾丸が、少年兵の胸を貫いた。少年は信じられないというように目を見開き、ゆっくりと膝から崩れ落ちた。その手は、何かを求めるようにリアムの方へとおぼつかなく伸ばされ、やがて力なく床に落ちた。
「何をためらってる!殺られるところだったんだぞ!」
ザックが叫ぶ。だが、その声はリアムの耳には届いていなかった。リアムはただ、絶命した少年兵と、その傍らに転がる壊れたオルゴールを呆然と見つめていた。混乱の中、リアムはよろめき、自分の胸のオルゴールも手から滑り落ちた。硬い石の床に叩きつけられ、鈍い音を立てて蓋が歪む。希望の旋律は、もはや奏でられることはないだろう。
塹壕に戻ったリアムは、抜け殻のようになっていた。ザックが何を話しかけても、ただ虚ろな目で宙を見つめるだけだった。彼は、自分の手で壊してしまったのだ。敵兵の命だけでなく、自分が守りたかった最後の人間性すらも。
その夜、リアムは一人、毛布にくるまって震えていた。手の中には、歪んでしまった自分のオルゴールがある。彼は静かに起き上がると、懐からもう一つの箱を取り出した。あの教会から、誰にも気づかれずに持ち帰った、敵兵の壊れたオルゴールだった。
リアムは、二つの壊れたオルゴールを月明かりの下に並べた。一つはエマとの約束。もう一つは、名も知らぬ敵兵の願い。どちらも同じように傷つき、沈黙している。
彼は小さなナイフを取り出すと、震える指先で、慎重に分解を始めた。自分のオルゴールから無事な歯車を、敵兵のオルゴールから傷のない櫛歯を。まるで繊細な外科手術のように、二つの残骸から使える部品を寄せ集めていく。それは贖罪のようでもあり、祈りのようでもあった。
鉄錆の匂いが指先に染み付く。リアムはもはや、ただエマのためだけにオルゴールを直しているのではなかった。これは、この理不尽な世界で失われた、全ての声なき声のための旋律なのだ。生き残れる保証はない。明日、自分が死体の山に加わらないという確信もない。
それでも、彼は作り続ける。瓦礫の中で、たった一つの歌を再生するために。やがて戦場に響くであろうその鉄錆のノクターンが、誰に届くのかは分からない。だが、その指先に宿る静かで強い光だけが、暗闇の中で確かに瞬いていた。
鉄錆のノクターン
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