***第一章 灰色の約束***
その夜、東京の空はインクをぶちまけたように淀み、湿ったアスファルトが街灯の光を鈍く反射していた。俺、水野蓮のスマートフォンが震えたのは、うんざりするような残業を終え、終電間際のホームに滑り込んできた電車の金属音に耳を塞いでいた時だ。ディスプレイに表示された名前は、相田陽介。俺の人生における、唯一無二の悪友であり、そして、どうしようもないほどの才能を持った親友だった。
『蓮、悪い。急な話なんだが』
メッセージは簡潔だった。
『俺の人生、最高の傑作が完成した。お前にだけ、最初に見せたい。今夜、あのアトリエで待ってる。もし俺がいなくても、絶対に中に入って、絵を見てくれ。約束だ』
「傑作、ね……」
思わず乾いた笑いが漏れた。陽介の言う「傑作」は、ここ数年、何度も耳にしてきた言葉だ。その度に期待し、そして裏切られてきた。万年床と絵の具の匂いが染みついたあのアトリエで、彼はいつも夢だけを語っていた。
だが、今夜の文面には、いつもの軽薄さとは違う、どこか切羽詰まったような、それでいて荘厳な響きさえ感じられた。まるで遺言のようなその言葉に、俺の胸は妙にざわついた。「約束だ」という念押しが、冷たい指先のように心臓に触れた。
電車を乗り継ぎ、陽介がアトリエとして借りている古い倉庫街に着いた時には、もう日付けが変わっていた。潮の香りが混じる冷たい風が頬を撫でる。目的の倉庫が見えた瞬間、俺は息を呑んだ。
赤い、赤いのだ。夜の闇を焦がすような、巨大な炎が、陽介のアトリエから立ち昇っていた。サイレンのけたたましい音が鼓膜を突き破り、野次馬のざわめきが現実感を奪っていく。焦げ付く匂いが鼻腔を刺し、熱風が俺の髪を煽った。
「陽介!」
叫び声は、炎の轟音にかき消された。消防隊員が俺を制止する。目の前で、俺たちの思い出が詰まった場所が、音を立てて崩れ落ちていく。陽介の、あの馬鹿みたいに明るい笑顔が、灰色の煙と共に空へと溶けていくようだった。
結局、その夜、陽介は見つからなかった。警察は、現場の状況から生存は絶望的だと告げた。俺は、陽介が遺した最後の「約束」を果たせなかった。傑作を見るどころか、親友の最期にさえ、立ち会うことができなかったのだ。約束の場所は、ただの燃え殻と絶望だけが残る、灰色の墓標と化した。
***第二章 残響のスケッチブック***
陽介が消えてから、世界は色を失った。俺は会社を休み、抜け殻のように日々を過ごした。窓の外の景色は移ろい、人々は忙しなく行き交う。だが俺の時間だけが、あの火事の夜で停止していた。合理主義者を気取っていたはずの俺が、こんなにも脆い人間だったと思い知らされた。
陽介の親族に代わり、俺が遺品整理をすることになった。陽介が住んでいた安アパートのドアを開けると、テレピン油と彼の残り香が混じった、懐かしい匂いが俺を迎えた。部屋は、彼の人生そのもののように雑然としていた。描きかけのキャンバス、散らかった画材、読みかけの本。そのすべてが、陽介がもうここにはいないという事実を、容赦なく突きつけてくる。
彼の不在を埋めるように、俺は思い出の残骸を漁った。公園の砂場で泥だらけになった子供時代。屋上で夜通し語り合った、互いの途方もない夢。些細なことで殴り合いの喧嘩をして、次の日には笑い合った高校時代。陽介はいつも、俺の退屈な日常に、鮮やかな色彩をもたらしてくれる存在だった。
クローゼットの奥から、古い段ボール箱を見つけた。中には、陽介が学生時代から使っていたスケッチブックが何冊も詰まっていた。ページをめくると、息が止まった。そこに描かれていたのは、ほとんどが俺の姿だったからだ。授業中に居眠りする俺、ラーメンをすする俺、真剣な顔で本を読む俺。陽介の視線が、温かい鉛筆のタッチでそこに定着していた。
最後のスケッチブックの、最後のページ。そこに、一枚の小さなメモが挟まっていた。走り書きされた、不可解な図形と数字の羅列。それは、子供の頃に俺と陽介だけが使っていた、他愛もない暗号だった。
心臓が大きく脈打った。震える指で記憶の糸をたぐり寄せ、一つ一つの記号を文字に変換していく。解読できたメッセージは、俺の思考を再び燃え上がらせた。
『傑作は、ここにある』
そして、その下には、見慣れない住所が記されていた。横浜の、港に近い地区の住所だった。これは、なんだ? 陽介が火事の前に残した、本当のメッセージなのか? それとも、ただの悪戯か。
だが、俺の中に、小さな希望の火種が生まれた。陽介は、ただ死んだわけじゃないのかもしれない。彼が俺に伝えたかった「傑作」は、まだどこかに存在するのかもしれない。俺は、その僅かな可能性に、すべてを賭けることにした。
***第三章 白紙の絶望***
翌日、俺は記されていた住所へと向かった。横浜の港、錆びついたクレーンが並ぶ、寂れた倉庫街の一角。潮風が、古い建物の隙間をヒューヒューと音を立てて吹き抜けていく。指定された倉庫は、ひときeyseと静まり返っていた。重い鉄の扉には鍵がかかっていなかった。軋む音を立てて扉を開けると、中は薄暗く、埃っぽい空気が淀んでいた。
がらんとした空間の中央に、それはあった。イーゼルに立てかけられた、巨大な一枚のキャンバス。これが、陽介が命と引き換えにでも見せたがったという「傑作」なのか。
俺は、ゆっくりとそれに近づいた。逸る鼓動を抑え、固唾を飲んで、その全貌を確かめる。そして、絶句した。
キャンバスは、真っ白だった。
何一つ、描かれていなかった。ただひたすらに白い、無垢なキャンバスが、俺を嘲笑うかのようにそこにあるだけだった。騙されたのか? これが陽介の最後の冗談だとでもいうのか? 怒りと失望が、腹の底からこみ上げてきた。
「がっかりしたか、蓮?」
その声に、全身の血が凍りついた。聞き間違えるはずがない。ゆっくりと振り返ると、倉庫の入り口の逆光の中に、人影が立っていた。痩せてはいるが、間違いない。死んだはずの、相田陽介がそこにいた。
「……陽介?」
「よお」
彼は、バツが悪そうに頭を掻いた。俺は、目の前の現実が理解できなかった。幽霊か? 幻覚か?
「どういう、ことだよ……」
絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。陽介は、観念したように息を吐き、すべてを語り始めた。彼は、才能に絶望し、生活のために手を出した仕事で失敗し、多額の借金を背負っていたこと。追い詰められた末に、自分の死を偽装して、すべてから逃げようと計画していたこと。あのアトリエの火事は、借金取りの仕業だったが、彼は偶然その場にいなかったため助かった。そして、その偶然を好機と捉え、計画通りに失踪したのだと。
俺は、彼の言葉を呆然と聞いていた。友情も、思い出も、俺の悲しみも、すべてが彼の逃亡劇のための小道具だったというのか。
「ふざけるな!」
怒りが、絶望を突き破って爆発した。俺は陽介の胸ぐらを掴み、壁に叩きつけた。
「お前が死んだと思って、俺がどれだけ……! なんだよ、傑作って! この真っ白なキャンバスがそうなのか!? 俺たちの友情は、お前にとって、その程度のものだったのかよ!」
涙が溢れて、視界が滲んだ。裏切られたという思いが、心をずたずたに引き裂いた。陽介は、抵抗もせず、ただ悲しい目で俺を見つめていた。そして、静かに言った。
「違う。蓮。お前に見せたかった『傑作』は、絵じゃないんだ」
***第四章 夜明け色のカンバス***
陽介は、俺の手をそっと外し、真っ白なキャンバスの方へ歩み寄った。そして、その巨大なキャンバスを裏返した。
息を呑んだ。キャンバスの裏側には、びっしりと、隙間なく文字が書き連ねられていた。それは、陽介の震えるような筆跡で書かれた、俺への手紙だった。
『蓮へ。これを読んでいるということは、お前は俺の馬鹿げた暗号を解いて、ここまで来てくれたんだな。ありがとう。そして、ごめん』
俺は、憑かれたようにその手紙を読み進めた。そこには、俺の知らない陽介の苦悩が、赤裸々に綴られていた。スランプに陥り、一枚も絵が描けなくなったこと。焦りから借金を重ね、闇金にまで手を出してしまったこと。何度も死を考えたが、その度に、俺の顔が浮かんで踏みとどまったこと。
『俺にはもう、何もない。才能も、金も、未来も。でも、たった一つだけ、誇れるものがある。それが、お前との友情だ。俺の人生の、たった一つの、本物の傑作なんだ』
涙が、キャンバスの裏に書かれたインクを滲ませた。陽介にとっての「傑作」とは、どんな名画でもなく、俺との友情そのものだったのだ。
『この真っ白なキャンバスは、俺の今の姿だ。空っぽで、何もない。でも、お前さえいてくれたら、俺はもう一度、ここから何かを描き始められるかもしれない。お前という親友がいれば、俺はまだ、やり直せる』
手紙の最後は、そう結ばれていた。
俺は、陽介の方を振り返った。彼は、まるで判決を待つ被告人のように、俯いて立っていた。俺が彼を許さない限り、彼の時間は永遠に止まったままだ。
俺は、ゆっくりと息を吸った。合理性だとか、常識だとか、そんなものはどうでもよかった。目の前にいるのは、道に迷い、傷つき、それでも必死に手を伸ばしている、たった一人の親友だ。
「……馬鹿野郎」
俺の声は、まだ少し震えていた。
「一人で抱え込みやがって。俺が何のためにいるんだよ」
陽介が、ハッと顔を上げた。彼の瞳が、驚きと、そして微かな希望に揺れていた。
俺は、真っ白なキャンバスの前に立ち、その無垢な表面を指でなぞった。
「なあ、陽介。この真っ白なキャンバス、何色から始める?」
その言葉に、陽介の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。それは、彼がずっと堪えてきた、孤独と絶望の涙だった。そして、彼の口元に、本当に久しぶりに見る、心の底からの笑顔が浮かんだ。
「そうだな……」
彼は涙を拭い、俺の隣に並んで、窓の外を見つめた。倉庫の小さな窓から、水平線の向こうが白み始めているのが見えた。長い夜が、終わりを告げようとしていた。
「まずは、夜明けの色かな」
俺たちの前には、まだ解決すべき問題が山積みだ。彼の借金も、失踪の事実も、消えてなくなりはしない。だが、不思議と怖くはなかった。真っ白なキャンバスは、絶望の象徴などではなかった。それは、無限の可能性を秘めた、俺たちの未来そのものだった。
夜明けの光が差し込む倉庫の中で、俺たちは二人、これから描かれるであろう、希望に満ちた「傑作」の始まりを、静かに見つめていた。
夜明け色のカンバス
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