***第一章 椿の文***
神田の裏通り、古びた長屋の一角に、榊原清十郎(さかきばら せいじゅうろう)は小さな墨の匂いを漂わせて暮らしていた。かつては小藩の馬廻り役として禄を食んでいたが、ある事情で刀を置き、今では「代筆屋」の看板を掲げて日々の糧を得ている。武士であった過去は、鞘に納めたまま錆びつかせた刀のように、彼の心の奥底で静かに眠っていた。
その日、店の戸口に立ったのは、年の頃十三か四ほどの、垢じみた小袖をまとった少女だった。日に焼け、細い手足にはそこかしこに擦り傷がある。およそ、清十郎の客となるような身なりの者ではなかった。
「あの……ここ、文を書いてくださるお店でがすか?」
舌足らずな、江戸訛りの強い言葉だった。清十郎が頷くと、少女は懐から大事そうに握りしめていた銅銭を数枚、震える手で差し出した。
「恋文を、お願いしたいのでがす」
清十郎は少し驚いたが、仕事は仕事だ。筆と硯を用意し、少女に向き直った。「では、お相手のお名前と、伝えたい言葉をどうぞ」
少女は「お凛」と名乗った。そして、うつむき加減に、ぽつりぽつりと言葉を紡ぎ始めた。清十郎は、その言葉を聞いて耳を疑った。
「『冬の寒さに耐え、ただ一輪、凛と咲く白椿の花。その姿に、あなた様の気高き魂の影を重ねております。もし叶うなら、春の陽光が差す縁側で、あなた様と言葉を交わすひとときを賜りたく……』」
まるで高貴な姫君が詠んだ和歌の一節のような、洗練された言葉の数々。目の前の少女の粗末な身なりと、その口から発せられる珠玉の言の葉との間には、天と地ほどの隔たりがあった。清十郎は筆を止め、お凛の顔をまじまじと見つめた。
「……お凛殿。その言葉は、どこで覚えた?」
問いかけると、お凛はびくりと肩を震わせ、小さな顔を俯かせた。「……心に、浮かんでくるのでがす。ただ、そう……思うたままを」
嘘だ、と清十郎は直感した。だが、少女の大きな瞳は、ただひたすらに純粋な光を宿している。その瞳に嘘の色は見いだせない。清十郎はそれ以上問うことをやめ、言われるがままに、美しい恋文を上質な和紙に書き上げた。墨の香りが、少女の不可解な謎を包み込むように、静かに立ち上っていた。これが、清十郎の日常を静かに、しかし根底から揺るがすことになる、奇妙な依頼の始まりだった。
***第二章 影の詠み人***
それから、お凛は七日に一度、決まって清十郎のもとを訪れるようになった。季節が冬から春へと移ろうにつれて、彼女が紡ぐ言葉もまた、雪解け水のように瑞々しさを増していった。文の相手は、伊吹隼人(いぶき はやと)という名の、前途有望な旗本の嫡男らしかった。
お凛が持ってくる銅銭では、上等な紙と墨の代金にもならない。だが清十郎は、不思議とそれを断る気にはなれなかった。彼女が語る言葉の美しさは、清十郎の乾いた心に染み渡る清水のようだった。剣の道を捨て、筆で生きることにどこか引け目を感じていた彼にとって、その言葉を文字に起こす作業は、一種の救いですらあった。
ある日、隼人からの返書を、お凛が嬉しそうに清十郎に見せた。達筆で綴られた文面には、文の主である「お凛」の知性と感性に対する深い感嘆と、募る想いが記されていた。
『君が紡ぐ言葉は、まるで夜空にまたたく星々。その一つ一つが、私の心を照らし導いてくれる。姿は見えずとも、君の魂の気高さに、私は焦がれている』
それを読んだ清十郎の胸を、ちくりと小さな棘が刺した。隼人が恋い焦がれているのは、目の前のお凛ではない。この美しい言葉を紡ぎ出す、誰か「影の詠み人」だ。自分は、この純粋な少女を利用し、偽りの恋物語を演出しているのではないか。そんな罪悪感が、書を認める彼の筆先を鈍らせた。
「お凛殿、本当のことを教えてはくれぬか。これらの言葉は、一体誰が……」
清十郎が問い詰めると、お凛はいつもと同じように悲しげに微笑み、首を横に振るだけだった。「本当に、心に浮かぶのでがす。あの方を想うと、綺麗な言葉が、泉のように湧いてくるのでがす」
彼女の瞳は嘘をついていない。だが、真実を語ってもいない。清十郎は、深い霧の中に迷い込んだような心地がした。春の柔らかな日差しが店先に差し込んでいるというのに、彼の心には晴れぬ靄がかかったままだった。
***第三章 双つの魂***
桜が満開を迎え、そして散り始めた頃、お凛の足がぱったりと途絶えた。一月、二月と過ぎ、夏の蝉時雨が江戸の町を包む頃になっても、彼女は現れなかった。清十郎は、あの身分違いの恋が何らかの形で終わりを告げたのだろうと、半ば安堵し、半ば寂しく思いながら日々を過ごしていた。
そんな蒸し暑い夏の夕暮れ、店の戸口に痩せこけた影がよろめくように現れた。お凛だった。かつての快活さは見る影もなく、頬はこけ、目は落ち窪み、その身は今にも崩れ落ちそうだった。
「せ、清十郎様……お願い……が……」
息も絶え絶えの彼女を店の中に招き入れ、水を飲ませると、お凛は懐からくしゃくしゃになった銅銭を取り出し、震える声で言った。
「最後の……文を……」
その言葉に、清十郎はすべてを察した。彼は静かに筆を執ると、お凛に語りかけるよう促した。お凛は、ぜいぜいと苦しげな呼吸を繰り返しながら、絞り出すように真実を語り始めた。その告白は、清十郎の想像を遥かに超える、あまりにも切ない物語だった。
「私には……双子の姉がおりました。『お絹』と……申します」
お凛とお絹は、同じ日に生まれた双子の姉妹だった。しかし、姉のお絹は生まれつき体が弱く、生まれてから一度も己の足で立ったことがなく、長屋の万年床が彼女の全世界だった。文字の読み書きもできないお凛とは対照的に、お絹は病床で読み耽った書物から言葉を学び、類稀なる文才をその内に秘めていた。
「姉様は、窓から見える空の色や、風の音、鳥の声を聞くだけで……美しい詩を詠むことができました。私は、そんな姉様が誇らしかった……」
ある日、お凛は、稽古帰りの伊吹隼人の凛々しい姿を見かける。一目で恋に落ちた。その話を姉にすると、お絹は「そのお方に、文を差し上げなさい。私が言葉を考えるから」と言ったのだという。
お凛が口にしていた美しい言葉は、すべて病床の姉・お絹が紡いだものだった。お凛は、外の世界を知らない姉に、恋という名の窓を見せてあげたかった。隼人からの返書を読み聞かせると、お絹は自分のことのように顔を赤らめ、喜んだ。お凛は、姉のその笑顔を見るのが何よりの幸せだった。二人の少女は、一つの恋を、二人で分かち合っていたのだ。
「姉様は……十日前に、息を引き取りました。この文は、姉様が最後に遺した……言葉なのでがす」
清十郎は、愕然としていた。自分が見ていたのは、物語のほんの一片に過ぎなかった。彼の前で無邪気に振る舞っていた少女は、たった一人の姉のために、その身を捧げていたのだ。隼人が恋をしたのは、お凛の姿を借りた、お絹の魂だった。
罪悪感も、疑念も、すべてが氷解し、代わりに熱いものが込み上げてくる。清十郎の目から、一筋の涙が頬を伝い、硯に落ちて墨と混じり合った。彼は嗚咽をこらえ、震える手で筆を握り直した。これは、二つの魂が織りなした、あまりにも純粋で悲しい恋の、最後の証なのだ。
***第四章 墨痕に宿る心***
清十郎は、お凛の小さな体を背負い、夕闇に染まる武家屋敷の門を叩いた。伊吹隼人は、突然の来訪に驚きながらも、二人を客間に通した。
清十郎は、隼人の前に深々と頭を下げ、事の次第をすべて話した。お凛の告白、お絹の存在、そしてこれが最後の文であることを。隼人は、言葉もなく立ち尽くしていた。彼の視線は、清十郎の背で浅い息を繰り返すお凛と、卓上に置かれた一通の文との間を、ただ行き来するだけだった。
清十郎が、お絹が最後に遺したという文を読み上げる。
『お会いすること叶わぬまま、お別れの文となります。あなた様を想い過ごした日々は、病床に差し込む月の光のように、私の闇を優しく照らしてくれました。どうか、私のことはお忘れになり、あなた様の道を、光の中を、まっすぐにお進みください。影ながら、あなた様の未来が幸多からんことを、心よりお祈り申し上げております』
静寂が、部屋を支配した。やがて隼人は、ゆっくりと文を手に取り、そっと胸に抱いた。
「……そうか。私は、お会いしたこともない方に、恋をしていたのか」
彼の声は震えていた。しかし、その顔に浮かんでいたのは、絶望ではなく、ある種の悟りに似た静かな悲しみだった。
「私は、確かに、この文に込められた心に恋をした。そのお心は、この世から消えはしない。この文がある限り、永遠にここに在り続ける。……生涯、大切にいたそう」
その言葉を聞いた瞬間、清十郎の背中ですうっとお凛の体の力が抜けた。隼人の方を見て、安心したように、かすかに微笑んだように見えた。それが、彼女の最期の表情だった。姉の想いが届いたことを見届け、彼女は静かに、姉のもとへと旅立っていった。
数年の月日が流れた。
神田の裏通りでは、榊原清十郎が今も代筆屋を営んでいる。彼の店の軒先には、季節を問わず、いつも一輪の椿が活けられている。それは、彼が今も心に宿す、あの気高い姉妹への手向けだった。
あの一件以来、清十郎は変わった。かつて彼を苛んでいた、剣を捨てたことへの悔恨や、過去の過ちへの自責の念は、綺麗に消え去っていた。彼は悟ったのだ。人を斬る剣だけが武士の道ではない。人の心を繋ぎ、想いを未来へと届ける筆にもまた、剣に勝るとも劣らない、尊い魂が宿るのだと。
春の柔らかな光が差し込む店内で、清十郎は新たな依頼人のために、静かに筆を走らせていた。彼の墨痕には、以前にはなかった温かみと、深い慈愛が満ちていた。彼の心の中では、今もお絹が紡いだ美しい言葉と、お凛の純粋な笑顔が、色褪せることなく生き続けている。
誰かの想いを墨にのせ、紙に宿す。それこそが、我が道。
清十郎は、筆先に心を込めながら、穏やかに微笑んだ。その微笑みは、まるで冬を越えて咲いた、一輪の椿のように静かで、そして力強かった。
墨染めの椿(すみぞめのつばき)
文字サイズ: