***第一章 沈黙の部屋と万華鏡***
水野翔太は、死の匂いを嗅ぎ分けることに慣れてしまっていた。市役所の福祉課に配属されて三年。彼にとって孤独死は、もはや感情を揺さぶる悲劇ではなく、処理すべき案件の一つでしかなかった。
「高林雄介、七十八歳。死後約二週間と推定。近隣住民からの異臭の通報により発見」
上司の淡々とした報告を聞きながら、翔太は古い木造アパートの前に立っていた。初夏の生ぬるい風が、警察の黄色いテープを虚しく揺らす。ドアが開け放たれた部屋の奥から、消毒液の匂いに混じって、まだ微かに腐敗臭が漂ってくる。それが、一つの人生が終わった証だった。
手続きはいつも通りだ。身寄りの有無を確認し、いなければ市が葬儀と遺品整理を行う。翔太の仕事は、そのための財産調査だった。ゴム手袋をはめ、部屋に足を踏み入れる。六畳一間の、物が少ない殺風景な部屋。万年床になった布団、ひび割れた茶碗、古びたテレビ。典型的な、社会との繋がりを失った高齢者の最後の砦だ。翔太は機械的にタンスの引き出しを開け、通帳や印鑑を探した。
その時、彼の目に異様な光景が飛び込んできた。部屋の隅、埃をかぶった段ボール箱の中に、それらはあった。
数十本の、万華鏡。
一つ一つ、デザインが違う。寄せ木細工で作られた温かみのあるもの、ステンドグラスを思わせる色鮮やかなもの、金属のボディに精緻な彫刻が施されたもの。どれも素人の手慰みとは思えない、職人の魂が宿っているかのような逸品だった。場末のアパートの一室には、あまりに不釣り合いな美しさだった。
翔太は、思わず一本を手に取った。ずしりと重い。覗き口から光にかざすと、息を呑んだ。無数の色ガラスの破片が、幾何学的な紋様を描き出し、ゆっくりと形を変えていく。それは、静寂の中に咲く、永遠に同じ形のない花々のようだった。刹那的で、どこまでも儚く、そして吸い込まれるほどに美しい。
こんなものを作る男が、なぜ誰にも知られず、ここで一人死んでいったのか。
疑問は、通帳を見つけたことでさらに深まった。残高は、数千円。年金以外の収入はない。だが、そこには奇妙な記録があった。過去二年間にわたり、毎月三万円が、「カレイドスコープ」という名義で振り込まれているのだ。カレイドスコープ――万華鏡。これは一体、何を意味するのか。
翔太は眉を寄せた。これは単なる孤独死案件ではない。この沈黙の部屋には、まだ声にならない物語が隠されている。彼は、その日初めて、目の前の死を「案件番号」ではなく、一人の人間の謎として捉え始めていた。
***第二章 色褪せた肖像***
高林雄介という男の輪郭は、まるで霧の中の風景のように掴みどころがなかった。戸籍によれば、妻とは十年前に死別し、子供はいない。兄弟も既に亡く、まさに天涯孤独だった。翔太は業務の一環として、アパートの大家や近隣住民に聞き込みを始めた。
「高林さん?ああ、あの無口な爺さんね。挨拶しても会釈するくらいで、ほとんど話したことないよ」
「なんだか気難しそうな人でねえ。いつも俯いて歩いてたから」
返ってくるのは、そんな印象ばかりだった。社会から隔絶された、影の薄い老人。しかし、翔太の心には、あの万華鏡の鮮烈な光が焼き付いて離れなかった。あの美しさを生み出す指先と、人々の語る「気難しい老人」の姿が、どうしても結びつかない。
翔太は調査の範囲を広げた。古い記録を丹念に辿り、高林がかつて、精密機械の部品を作る小さな工場の職人だったことを突き止めた。しかし、その工場はバブル崩壊の煽りを受けて倒産。以来、彼は職を転々とし、次第に社会の隅へと追いやられていったようだった。
「高林の親父さんかい?」
ようやく見つけ出した元同僚だという老人は、懐かしそうに目を細めた。「腕はピカイチだった。不器用で口下手だったけど、仕事に対する誠実さは誰にも負けなかったよ。あいつが作った部品は、芸術品みたいに美しかったんだ」
芸術品。その言葉が、翔太の胸に響いた。
調査を進めるうち、翔太は自分の心境の変化に気づいていた。当初は義務感でしかなかったはずの仕事が、いつしか一人の人間の失われた人生を再構築する、パズルを解くような探求心に変わっていた。彼は休みの日にも、高林が住んでいた街を歩いた。彼が見ていたであろう公園の錆びたベンチに座り、彼が通ったであろう商店街の喧騒に耳を澄ませた。
高林雄介は、ただ社会から忘れられた敗残者ではなかった。彼には彼自身の世界があり、誇りがあった。そして、あの万華鏡は、言葉の代わりに彼が紡いだ、世界への唯一の語りかけだったのかもしれない。
翔太は、これまで自分が相手にしてきた申請者たちの顔を思い出していた。生活保護の窓口で、俯き、小さな声で助けを求める人々。自分は彼らの窮状を、ただ書類の上の数字として処理していなかったか。その背景にある、一人ひとりの人生の物語に、耳を傾けようとしていただろうか。
高林の沈黙の部屋は、翔太自身の心の在り様を映し出す鏡になり始めていた。覗き込むたびに、見えてくるのは自分の空虚さだった。
***第三章 見えない支援者***
「カレイドスコープ」の謎は、暗礁に乗り上げていた。その名義の口座をたどることは、個人情報保護の壁に阻まれて不可能だった。翔太が諦めかけたその時、ふとした偶然が突破口を開いた。高林の数少ない遺品の中にあった古い新聞の切り抜き。それは、地域の小さなギャラリーで開催された「手作りアート市」の記事だった。その片隅に、高林の名前と、彼の万華鏡を手に微笑む若い女性の写真が載っていた。
翔太はそのギャラリーに駆け込んだ。オーナーの女性は、高林のことを覚えていた。
「ああ、高林さん!二年ほど前でしたか。ご自分で作られたという万華鏡を、恥ずかしそうに持ってこられて。そのクオリティに驚いて、ぜひうちのイベントに出品してほしいとお願いしたんです」
しかし、高林の作品は一つも売れなかったという。彼の万華鏡は、値段も高く、その価値を理解する客は少なかった。
「彼はとてもがっかりした様子で……。私も申し訳なくて」
そこで、とオーナーは続けた。「イベントの様子をSNSにアップしたんです。そうしたら、しばらくして、ある若者たちから連絡があったんです。『あの万華-鏡を作った方と連絡を取りたい』と」
翔太の心臓が、大きく脈打った。
オーナーから教えられた連絡先をたどり、翔太は都心の小さなIT企業を訪ねた。そこで彼を待っていたのは、二十代後半と思しき、ごく普通の若者たちだった。代表だという青年、佐伯は、少し緊張した面持ちで口を開いた。
「僕たちは……高林さんの万華鏡のファンなんです」
佐伯の話は、翔太の想像を遥かに超えるものだった。
彼らはSNSで高林の万華鏡の写真を見て、その圧倒的な美しさに心を奪われた。すぐにでも手に入れたいと思ったが、同時に、作者が高齢で、作品が全く売れなかったという事実を知った。
「直接買いに行けばいい。でも、それじゃただの同情になってしまうかもしれない。高林さんのような誇り高い職人さんは、きっとそういう施しを嫌うんじゃないかと思ったんです」
そこで彼らは、ある計画を立てた。自分たちの素性を隠し、「カレイドスコープ」という架空の団体名義で高林に接触したのだ。「あなたの作品の価値を理解する海外のコレクターに販売する代理店です」と偽り、彼らが自分たちのポケットマネーで作品を買い取る形を取った。毎月三万円の振り込みは、その「販売代金」だった。高林のプライドを傷つけず、彼の創作意欲を支え、生活を助けるための、静かで優しい嘘だった。
「僕たちは、ただ、あの美しい万華鏡が、この世から消えてほしくなかった。それだけなんです」
翔太は、言葉を失った。全身が、雷に打たれたような衝撃に包まれていた。
なんだ、これは。
自分たち行政が、「生活困窮者」「要保護者」とレッテルを貼り、制度という画一的な物差しでしか人を測れないでいる間に。書類と手続きの迷路の中で、人々の尊厳が少しずつ削られていくのを、ただ傍観していた間に。
顔も知らない若者たちが、たった一人の老人のために、知恵と、時間と、なにより深い敬意を込めた優しさで、その心を救っていた。彼らは制度の外側で、行政には決して真似のできない、人間的な支援を実践していたのだ。
自分の仕事は、何だったのだろう。ルールを守ることか?予算を正しく執行することか?そのために、目の前の一人の人間の心を、見過ごしてはいなかったか?
翔太の足元が、ガラガラと音を立てて崩れていく。これまで信じてきた自分の仕事の価値観が、根底から覆された瞬間だった。
***第四章 彼方への光***
数日後、翔太は再び高林雄介のアパートの部屋に立っていた。遺品整理業者が入る前の、最後の静寂。彼は、段ボール箱から一本の万華鏡を、祈るように手に取った。
覗き込むと、そこには変わらず、無限の光の宇宙が広がっていた。小さなガラス片が寄り集まり、光を受けて輝き、離れてはまた新しい形を結ぶ。一つ一つは名もない破片なのに、集まれば、こんなにも美しい世界を創り出す。
それはまるで、社会の片隅で生きる人々のようだと、翔太は思った。高林も、彼を支えた若者たちも、そして自分も、この社会を構成する無数の小さな光の一つなのだ。
翔太は、若者たちに市の職員であることを明かさなかった。そして、高林が亡くなったことも、まだ伝えていない。彼らの静かな善意を、死亡届や相続といった無味乾燥な行政手続きの世界に引きずり込むのは、あまりにも野暮なことに思えたからだ。いつか彼らは、振り込みが戻ってくることで、静かに真実を知るだろう。それでいい。彼らの物語は、彼らのままに完結すべきなのだ。
翌日、市役所の窓口に、一人の老婆が恐る恐る入ってきた。着古したセーターに、不安げな瞳。以前の翔太なら、まず申請書類の束を差し出し、事務的な口調で説明を始めていただろう。
だが、今の彼は違った。
翔太はカウンターから立ち上がると、老婆の目線の高さまでゆっくりと屈み、これまで出したことのないような、穏やかな声で言った。
「こんにちは。大丈夫ですよ。まず、あなたの話を、聞かせてください」
老婆の強張っていた顔が、わずかに和らぐのが分かった。
制度は人を救えないかもしれない。システムは、人の心を温めることはできないかもしれない。だが、システムの側にいる人間が、血の通った心で人と向き合うことはできる。高林雄介と、名も知らぬ若者たちが、翔太にそのことを教えてくれた。
彼の心の中には、今もあの万華鏡の光が灯っている。それは、社会の冷たさやシステムの限界を照らし出す光であると同時に、それでもなお、人と人との間に生まれる善意という希望の光でもあった。
翔太の長い闘いは、まだ始まったばかりだ。しかし彼の瞳には、かつての空虚さの代わりに、彼方に続く道を確かに見据える、静かで強い光が宿っていた。
サイレント・プリズム
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