光冠の教室

光冠の教室

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第一章 無冠の観察者

僕の通う私立星稜学園では、誰もが頭上にささやかな王冠を戴いている。

それは「光冠(こうかん)」と呼ばれ、その人の学力、運動能力、コミュニケーション能力、ひいては社会的価値そのものが結晶化した光の輪だ。エリートたちの光冠は純金のように輝き、複雑な文様を浮かび上がらせる。一方、落ちこぼれのそれは、頼りなく揺らめくブリキ細工のようだ。生徒たちは互いの光冠の煌めきを値踏みし、見えない序列を形成し、その中で息をしていた。

そんな学園において、蒼井湊(あおいみなと)――つまり僕は、異端だった。

僕には、その光冠がなかった。そして、他人の光冠を見ることもできなかった。僕の目には、誰もがただの高校生として映る。だから、クラスメイトが誰かの前で卑屈になったり、逆に尊大に振る舞ったりする理由が、感覚として理解できなかった。彼らが「光」と呼ぶものの正体を知らない僕は、当然のようにヒエラルキーの最底辺に位置付けられ、透明人間のように扱われている。

僕は孤独だったが、不幸ではなかった。光が見えない代わりに、僕には他のものが見えたからだ。緊張で強張る肩、嘘をつく瞬間に微かに震える唇、隠しきれない喜びで綻ぶ目尻。人々が光冠という名のラベルに気を取られている間に、僕はその奥にある生身の人間の機微をスケッチブックに描き留める。それが僕の世界との唯一の関わり方だった。

放課後の美術室。西日が差し込み、空気中の埃を金色に染め上げている。僕はイーゼルに向かい、中庭を歩く生徒たちの群像を描いていた。光冠を持たない僕の絵には、当然、光の輪は描かれない。ただ、一人ひとりの姿勢や表情、距離感だけで、彼らの間の力学を表現しようと試みていた。

「すごい……」

不意に、背後から澄んだ声が聞こえた。振り向くと、そこに立っていたのは陽向咲(ひなたさき)だった。

彼女は、僕がその存在を知っている数少ない人物の一人だ。噂によれば、学園で最も強く、最も美しい『太陽の光冠』を持つとされる、まさに頂点に君臨する少女。僕には見えないが、彼女の周りだけ空気がきらきらと輝いているように錯覚するほどの存在感があった。

彼女は僕のスケッチブックを、食い入るように見つめていた。僕が描いた、光のない世界を。

「君の絵には、光冠が描かれていないのね」

「……見えないから」僕はぶっきらぼうに答えた。どうせ、無冠の僕を嘲笑いに来たのだろう。

だが、彼女の反応は予想外のものだった。彼女はうっとりとした表情で、僕の絵の中の、名もなき生徒の一人を指差した。

「でも、この子の寂しそうな背中が見える。この子の、少し意地悪な笑い方が聞こえる。すごいわ」

彼女は顔を上げ、僕の目を真っ直ぐに見つめた。その瞳は、夕陽を吸い込んで琥珀色に濡れていた。

「あなたには、本当の色が見えているのね」

その言葉は、僕が今まで誰からも言われたことのない、魔法のような響きを持っていた。僕がただの欠陥品ではないと、初めて肯定された気がした。陽向咲の謎めいた微笑みは、僕の灰色の世界に、初めて投げ込まれた一滴の鮮やかな色彩だった。

第二章 揺らぐプリズム

あの日を境に、僕と咲の奇妙な交流が始まった。

彼女は放課後になると、決まって美術室に顔を出すようになった。学園の女王が、無冠の僕と一緒にいる。その事実は瞬く間に広まり、僕を見る周囲の目は、憐憫から好奇と嫉妬が入り混じった複雑なものへと変わっていった。しかし、そんなことはどうでもよかった。

咲は、僕が描く世界を愛してくれた。僕のスケッチブックをめくりながら、彼女は自分が背負う光冠の重さを、ぽつりぽつりと語り始めた。

「私の光冠はね、いつも完璧を求められるの」

絵の具を溶く水の音だけが響く静かな部屋で、彼女は言った。

「テストで満点を取れば、さらに輝きが増す。スポーツで優勝すれば、もっと強く光る。でも、少しでも失敗すると、すぐに曇って、揺らぐのよ。周りの人たちの期待と失望が、そのまま光の色になる。まるで、自分の心が自分のものではないみたい」

彼女の言葉は、僕が想像もしなかった頂点からの景色だった。誰もが羨む『太陽の光冠』は、彼女にとって輝かしい王冠であると同時に、決して外すことのできない重い枷なのだ。

「君といると、安心する」咲は僕の隣に座り、窓の外を眺めながら呟いた。「君の前では、私はただの陽向咲でいられるから。光冠なんて関係ない、ただの私を、君は見てくれるから」

僕は、彼女を描きたいと強く思った。人々が崇める『太陽の光冠』ではなく、その光の下で息を潜める、一人の少女としての陽向咲を。

だが、僕の鉛筆は、彼女の本当の姿を捉えきれずにいた。

そんなある日、僕は一人の男子生徒に呼び止められた。影山律(かげやまりつ)。煤けたような色の制服を着た、目の鋭い少年だ。彼もまた、僕と同じ「無冠」だと噂されていたが、彼の場合は少し事情が違った。かつては相当な輝きを持つ光冠を持っていたが、ある事件をきっかけにそれを完全に失ったのだという。

「陽向に関わるな」影山は低い声で警告した。「あの光を信じるな。あれは、綺麗に見えるだけの、魂を喰らう寄生虫だ」

「寄生虫……?」

「お前のような『ブランク』は、格好の餌食だ」

彼はそれだけ言うと、僕に背を向けて去っていった。ブランク、という言葉が妙に耳に残った。

咲が語る光の重圧。影山の不気味な警告。僕の中で、この学園のシステムそのものに対する疑念が、じわりとインクの染みのように広がっていくのを感じていた。僕たちが見ているこの世界は、本当に正しいのだろうか。光冠の輝きとは、一体何なのだろうか。

第三章 蝕まれる光

学園最大のイベント『戴冠式』が間近に迫っていた。一年で最も優れた光冠を持つ生徒が選ばれ、全校生徒の前で表彰される栄誉の式典。今年の最有力候補は、もちろん陽向咲だった。周囲の期待は最高潮に達し、彼女に向けられる視線は、もはや崇拝の域に達していた。

しかし、戴冠式の数日前から、咲の様子は明らかにおかしくなった。美術室に現れる彼女は日に日に憔悴し、その顔には深い隈が刻まれていた。噂では、彼女の『太陽の光冠』が、原因不明の揺らぎを見せ始めたという。まるで、風前の灯火のように。

「怖いんだ、湊くん」彼女は震える声で告白した。「みんなの期待に応えられないのが怖い。光が消えてしまうのが……私が、私でなくなってしまうのが、怖い」

僕は何も言えず、ただ彼女の冷たい手を握ることしかできなかった。

そして、運命の戴冠式当日。講堂に集まった全校生徒の視線が、壇上に立つ咲に注がれる。だが、そこに立っていたのは、僕たちが知っている輝かしい彼女ではなかった。彼女の頭上にあるはずの光冠は、見る影もなく色褪せ、今にも砕け散りそうなほど弱々しく点滅していた。囁きが波のように広がり、やがてそれは非難と失望の騒めきへと変わった。

咲は壇上で崩れ落ち、顔を覆った。その瞬間だった。

「茶番は終わりだ!」

影山が壇上に駆け上がり、マイクを奪って叫んだ。

「お前たちは何も知らない! この光冠が何でできているのかを! あれはな、俺たちの感情や生命エネルギーそのものなんだよ!」

講堂は水を打ったように静まり返った。

「この学園は、俺たちの魂を吸い上げて、輝きに変えているだけだ! そして、そのエネルギーをどこかへ転送している! 陽向は、過剰な期待という名のエネルギーを注がれすぎて、魂が焼き切れる寸前なんだよ!」

衝撃的な事実に、誰もが言葉を失う。

影山は、狂気を帯びた目で僕を指差した。

「そして、そこにいる蒼井湊! お前は無冠なんかじゃない! お前こそが、この狂ったシステムの最大のイレギュラー、『無冠(ゼロ・クラウン)』だ! お前の能力は、あらゆる光――あらゆる感情エネルギーを吸収し、無に還すことだ!」

その言葉は、雷鳴となって僕の頭を撃ち抜いた。

僕が光冠を見えなかったのは、僕の存在 자체가光を打ち消していたから? 咲が僕のそばで安らいでいたのは、僕が彼女の魂を蝕む光の重圧を、無意識のうちに吸い取っていたから?

僕が特別だと思っていた僕だけの世界は、ただ他者のエネルギーを奪うことで成り立っていたというのか。僕の孤独は、僕が他者を害する存在だったからなのか。

足元から世界が崩れ落ちていく。僕が信じていた僕自身の存在意義が、根底から覆された瞬間だった。

第四章 君が描く色

混乱が支配する講堂で、僕は立ち尽くしていた。僕は、化け物だったのか。咲を苦しみから解放しているつもりが、実は彼女の輝きを奪っていただけなのかもしれない。絶望が僕を飲み込もうとした、その時。

「……違う」

か細い、しかし凛とした声が響いた。壇上で顔を上げていたのは、咲だった。彼女はゆっくりと立ち上がり、僕を真っ直ぐに見つめていた。

「湊くんは、私の光を奪ったりしない。彼は……私のありのままを、見てくれただけ。重すぎる光の鎧を、脱がせてくれただけよ」

彼女の言葉が、僕の心の迷いを打ち払った。

そうだ。僕のこの力は、破壊するためだけにあるんじゃない。使い方次第で、誰かを守ることもできるはずだ。

僕は、覚悟を決めた。ゆっくりと壇上へ歩み寄り、ひざまずく咲の前に立つ。全校生徒が、固唾を飲んで僕たちを見守っている。

僕は彼女にそっと手を伸ばした。触れるか触れないかの距離で、僕の意識を集中させる。僕の能力を、初めて意図的に使う。

咲の弱々しい光冠を消し去るのではない。強すぎる光を捻じ曲げるのでもない。ただ、調律するんだ。彼女が本当に望む、彼女自身の色に。

僕の手のひらから、見えない力が流れ込んでいく。すると、咲の色褪せた光冠は、まるで夜明けの空のように、淡く、しかし温かい虹色の光を放ち始めた。それは誰の光よりも小さく、決して強くはなかったが、今まで見たどんな光よりも、穏やかで、優しく、そして美しかった。

それは、陽向咲という一人の少女の、魂そのものの色だった。

僕はマイクを手に取り、静まり返った講堂に向かって語りかけた。

「光は、誰かに評価されるためにあるんじゃない。誰かと比べるためにあるものでもない。自分のために、そして、自分が大切にしたい誰かのために……心の中に、そっと灯すものなんだ」

僕の言葉が、波紋のように広がっていく。生徒たちの頭上の光冠が、一つ、また一つと、それぞれの固有の色に変わり始めた。金や銀の画一的な輝きではなく、赤、青、緑、紫……無数の色が、講堂を万華鏡のように彩っていく。

学園のシステムが完全に崩壊したわけではない。だが、僕たちの価値観は、この日、確かに変わったのだ。

卒業の日。がらんとした美術室で、僕は一枚の絵を完成させた。

描かれているのは、陽向咲の肖像画。そこに光冠は描かれていない。ただ、窓から差し込む優しい光の中で、彼女が柔らかく微笑んでいるだけだ。

「ありがとう、湊くん」隣で見ていた咲が言った。「私の、本当の色を描いてくれて」

僕たちは、光のない、ただの夕暮れの教室で、静かに未来を語り合った。

世界はまだ、簡単には変わらないだろう。社会はこれからも、僕たちに見えない光冠を被せようとするかもしれない。

それでも、僕たちはもう知っている。本当の価値は、誰かに与えられる輝きの中にはない。自分だけの色を見つけ、それを大切に想う心の中にこそあるのだと。僕たちは、これから自分たちの色で、この世界を描いていく。

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