第一章 透ける指先と物語の檻
水上湊(みなかみ みなと)は、自分の右手の指先がまた少し透けていることに気づき、そっと握りしめた。陽光が差す教室の窓辺。木漏れ日が埃を金色に照らす中、湊の指はまるで薄いガラス細工のように、向こう側の景色を曖昧に映していた。
ここは、全寮制の高等学校「私立言紡ぎの学舎(ことつむぎのまなびや)」。この学園では、国語や数学といった一般的な科目よりも、一つの能力が絶対的な価値を持っていた。それは、「物語を紡ぐ力」。
生徒たちは「語り部」と呼ばれ、週に一度開かれる「譚(ものがたり)の会」で自らが創作した物語を披露する。その物語が聴衆の心をどれだけ揺さぶったかによって評価が決まり、その評価こそが、僕たちの存在そのものの濃度を決定づけるのだ。優れた物語を紡ぐ生徒は、その輪郭も色彩も鮮やかに、確固たる存在感を放つ。一方で、駄作しか生み出せない者は、徐々に色が褪せ、輪郭がぼやけ、やがては誰の記憶にも残らず、この世界から「蒸発」してしまう。
湊は、その「蒸発」の恐怖に苛まれていた。入学当初はそこそこの評価を得ていたものの、次第にスランプに陥り、今ではクラスの中でも最も存在の薄い生徒の一人だった。指先が透けるのは、その最終段階が近いことを示す不吉な兆候だ。
放課後の大講堂で、今週の「譚の会」が開かれていた。重厚な緞帳が下りた舞台に、一人の女子生徒が静かに立つ。月島詩織(つきしま しおり)。この学園で最も濃密な存在感を放つ、孤高の天才。彼女が息を吸うと、ざわついていた講堂が水を打ったように静まり返る。
「…その少年は、星の欠片を売って生きていました」
詩織の紡ぐ物語は、いつもそうやって始まる。彼女の声は、古びた教会の鐘の音のように、聞く者の魂の深い場所に直接響き渡った。星の欠片を売る孤独な少年、彼が出会った言葉を話さない機械人形、そして、二人が探し求める「失われた夜空」。物語は誰も聞いたことのない独創的な世界を描きながら、聞く者すべての心に共通する切なさや憧憬を的確に抉り出す。
講堂が感嘆のため息で満たされる中、湊は自分の無力さに唇を噛んだ。詩織の物語は、まるで純粋な生命体のように脈打ち、輝いていた。それに比べて、自分の物語はなんと陳腐で、生気のない模造品だろう。
会が終わり、生徒たちがまばらに散っていく中、湊は自分の席から動けなかった。自分の指先を見る。透けた指の向こうで、詩織が舞台から降りてくるのが見えた。彼女の黒髪は夜の闇よりも濃く、その瞳は物語の世界そのものを映す湖のようだった。ふと、彼女の視線がこちらを向いた気がして、湊は慌てて手を隠した。この檻のような学園で、彼女は光そのものであり、湊にとってはあまりにも眩しい絶望の象徴だった。
第二章 君のいない物語
「また、誰かの模倣品か。水上、君の物語には、君自身がいない」
翌日の創作指導の時間。担当教師の冷たい声が、湊の胸に突き刺さった。提出した原稿には、流行りの冒険譚の骨格を借り、聞き心地の良い言葉を並べただけの、空っぽな物語が綴られていた。湊自身、それが分かっていた。だが、どうすれば「自分だけの物語」を紡げるのか、皆目見当もつかなかったのだ。
焦りだけが募り、体の輪郭はさらに曖昧になっていく。廊下を歩いていても、誰にもぶつかられない。まるで幽霊だ。食堂でトレイを持っていても、すぐ後ろの生徒が気づかずに列に割り込んでくる。誰にも認識されないことの恐怖が、じわじわと湊の心を蝕んでいた。
その日の午後、湊は逃げ込むようにして図書館の奥深くにある古書の書架へ向かった。革の匂いと古い紙の匂いが混じり合う、学園で唯一心が安らぐ場所。ここでなら、少しは自分の存在を確かめられる気がした。一番奥の、誰の背表紙も見向きもしないような棚の前で膝を抱えていると、不意に影が差した。
「あなた、ここで何をしているの?」
顔を上げると、月島詩織が立っていた。彼女は、誰も近づかないはずの禁書指定の棚から、分厚い本を抜き取ったところだった。その瞳は、湊の透けた指先を、そしてその奥にある恐怖を、全て見透かしているようだった。
「…別に」湊は消え入りそうな声で答える。
「あなたの物語、この間の会で聞いたわ。とても丁寧で、綺麗な構成だった」
予想外の言葉に、湊は目を見開く。詩織が自分の物語を覚えている?
「でも」彼女は続けた。「あの物語は、泣いていなかった。笑ってもいなかった。ただ、そこに文章として存在しているだけ。まるで、美しい造花のようだった」
その言葉は、教師の指摘よりもずっと鋭く、湊の核心を貫いた。
「なぜ、あなたは物語を紡ぐの?」詩織は静かに問いかける。「誰かに評価されるため? 消えないため?」
湊は答えられなかった。その両方であり、それ以外の理由など考えたこともなかったからだ。
「一度、全部忘れてみたらどうかしら」詩織は禁書を抱え直し、言った。「評価も、構成も、他の誰かの物語も。ただ、あなたの胸の中でずっと疼いている、たった一つの景色、たった一つの感情。それを、言葉にしてみて。それが、他人のための物語じゃない、あなたの物語の始まりよ」
そう言い残し、彼女は静かに去っていった。その場に残された湊は、詩織の言葉を何度も反芻した。胸の中でずっと疼いている、たった一つの感情。それは一体、何なのだろうか。湊は初めて、物語の評価ではなく、自分自身の内側へと意識を向け始めていた。
第三章 供物のための譚詩曲(バラッド)
次の「譚の会」まで、あと三日。湊の左手の指先までが透け始め、焦りは頂点に達していた。しかし、彼の心には、詩織の言葉が微かな灯火のように宿っていた。
評価のためではない、自分のための物語。
湊はペンを握った。そして、誰にも話したことのない、幼い頃の記憶を書き始めた。病弱で、一人きりで過ごすことの多かった子供時代。窓の外で遊ぶ友達の声を遠くに聞きながら、空想の世界だけが唯一の居場所だった、あのどうしようもない孤独感。そして、本の中の英雄に抱いた、焦がれるような憧れ。それは、格好悪くて、惨めで、誰にも評価されるはずのない、湊だけの真実だった。
書けば書くほど、忘れていた感情が蘇り、涙が原稿用紙に染みを作った。生まれて初めて、湊は物語を紡ぐことに没頭していた。これは、誰かに聞かせるためではない。自分自身が、あの頃の孤独だった自分に語りかけるための物語だった。
「譚の会」前夜。完成した原稿を手に、湊は深夜の学園を彷徨っていた。高揚感と不安が入り混じり、眠れなかったのだ。学園長室の前を通りかかった時、中から微かに話し声が漏れているのに気づいた。
「…月島詩織の『物語』は、いよいよ熟成の極みに達した。あれほどの『概念』は、過去に例がない」
学園長の声だ。
「はい。次の満月の夜に、『概念喰らい』様への最高の供物として捧げることができます」
それは、創作指導の教師の声だった。湊は息を飲んだ。
概念喰らい? 供物?
「他の生徒たちはどうですかな」
「順調です。質の低い物語しか紡げない『澱(おり)』は、予定通り希薄化し、廃棄処理が可能です。水上湊なども、もう時間の問題でしょう」
「うむ。我々の役目は、新鮮で独創的な『物語』という名の餌を育て、あの方に捧げ続けること。この学舎は、そのための農場なのだからな…」
湊は、その場に崩れ落ちそうになるのを必死で堪えた。全身の血が凍りつくような感覚。
なんだ。ここは、学園などではなかった。僕たちは、生徒などではなかった。
物語を紡ぐことは、生きるための術ではなかった。僕たちは、ただの餌。評価とは、その味の指標に過ぎなかったのだ。そして、最も美しく、最も力強い物語を紡ぐ詩織は…最高の供物として、正体不明の何かに捧げられる運命。
絶望が、湊の全身を叩きのめした。僕が必死に紡いできた物語は、僕たちが生きるための糧ではなく、僕たちを喰らう何かのための、ただの食事だったのだ。詩織がくれた希望の言葉も、彼女を死に近づけるための美しい譚詩曲(バラッド)でしかなかったのか。
自室に戻った湊は、書き上げたばかりの原稿を握りしめた。インクが滲み、彼自身の孤独と憧れが綴られた物語が、まるで悲鳴を上げているように見えた。
第四章 僕らが紡ぐ、最後の物語
「譚の会」の当日、大講堂は異様な熱気に包まれていた。誰も、この荘厳な儀式の裏に隠された、おぞましい真実を知らない。湊は自分の席で、幽鬼のように青ざめた顔で座っていた。もう、自分の指先がどれだけ透けていようと、どうでもよかった。
やがて、詩織が舞台に上がる。彼女はいつも通り、静かで、凛としていた。だが湊には、その姿が屠殺場へ引かれていく聖なる獣のように見えて、胸が張り裂けそうだった。詩織が息を吸い、物語を紡ぎ始めようとした、その時。
「待ってくれ!」
湊が叫んでいた。か細く、震える声だったが、静寂に満ちた講堂では雷鳴のように響き渡った。全ての視線が、存在の薄い湊に突き刺さる。教師が厳しい目で制止しようとするのを振り切り、湊は壇上へと駆け上がった。
「僕に…僕に先に、語らせてください」
詩織が驚いたように目を見開く。学園長が壇の袖から鋭い視線を送ってくる。だが、湊はもう何も怖くなかった。彼は、震える手で握りしめていた原稿を、破り捨てた。あんな物語はもういらない。
湊はマイクの前に立ち、講堂にいる全ての生徒たちの顔を見渡した。そして、息を吸い込む。
「…あるところに、物語を食べる怪物がいました」
湊は語り始めた。それは、この学園の物語。自分たちが「餌」として育てられているという、絶望的な真実の物語だった。僕たちが必死に紡いできた物語が、僕たちの命を喰らう糧となっていること。評価というシステムが、僕たちを選別し、出荷するための残酷な仕組みであること。そして、最も素晴らしい語り部が、最も豪華な生贄として捧げられる運命にあること。
それは告発であり、宣戦布告だった。生徒たちの間にどよめきが広がる。教師たちが血相を変えて舞台に駆け上がろうとする。
「彼は知ってしまったのです。美しい物語を紡げば紡ぐほど、愛する少女の命が削られていくことを。沈黙すれば、自分自身が消えてしまうことを」
湊の物語は、もはや創作ではなかった。彼の魂そのものの叫びだった。その切実な響きは、これまで誰も聞いたことのないほど力強く、生徒たちの心を激しく揺さぶった。
その時、隣に立っていた詩織が、そっとマイクに口を寄せた。
「…でも、その少女も知っていました。この檻の中で、偽りの物語を生きるくらいなら、たった一つの真実の物語と共に燃え尽きたい、と」
詩織の声が、湊の物語に重なる。二人の声が、二つの魂が共鳴し、一つの巨大な物語となって講堂を満たした。それは、支配への反逆の物語。自由への渇望の物語。
生徒たちが、一人、また一人と立ち上がる。彼らの瞳には、恐怖ではなく、怒りと決意の炎が宿っていた。僕たちは餌じゃない。人間だ。
教師たちが湊と詩織に掴みかかろうとする。しかし、その前に、大勢の生徒たちが盾となって立ちはだかった。彼らはもう、評価を恐れる無力な語り部ではなかった。自らの物語を生きる、主人公だった。
湊は、詩織の手を強く握った。彼女の指は温かく、確かな存在感を持っていた。
「行こう」
二人は、仲間たちと共に、大講堂の重い扉に向かって走り出した。その先に出口があるのか、それとも更なる絶望が待っているのか、誰にも分からない。
だが、湊はもう自分の指先を見てはいなかった。彼は、自分の物語を見つけた。そして、その物語を分かち合う仲間がいた。彼らが今まさに紡いでいるこの「反逆の物語」は、果たして「概念喰らい」にとって、最高の饗宴となるのか、それとも致死の毒となるのか。
答えはまだ、誰の物語にも書かれていなかった。