メメント・ファミリア

メメント・ファミリア

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第一章 完全な記憶のひび割れ

父が死んで、三度目の夏が来た。蝉の声がアスファルトの熱を吸い上げて、記憶の底にある風景を陽炎のように揺らめかせる。俺、神崎涼介は、父の書斎で遺品整理の続きをしていた。埃っぽい空気の中に、古書の匂いと、微かに父の愛用していたパイプ煙草の香りが混じっている。母も妹も、この部屋に入るのをどこか躊躇っているようだった。父という大きな存在が残した静寂は、まだ我々家族を支配していた。

段ボール箱に古いアルバムや万年筆を詰めていたその時、書棚の奥に隠された小さな木箱を見つけた。鍵はかかっていない。軋む蓋を開けると、中には銀色のヘッドセットと、指の爪ほどの大きさのデータチップが、まるで標本のように整然と並べられていた。ヘッドセットは、一昔前のVRゴーグルのような形状だが、もっと無骨で実験機材のような雰囲気を醸し出している。

「なんだ、これ……」

好奇心に駆られ、俺はヘッドセットを手に取った。側面には小さなスロットがある。試しに『1998.08.15』とラベルが貼られたチップを一枚差し込み、電源らしきボタンを押した。

瞬間、世界がホワイトアウトした。

次に目を開けた時、俺は書斎ではなく、見慣れたはずの場所に立っていた。いや、浮遊していた。目の前には、十歳の俺がいる。隣には、若き日の父と母、そしてまだ幼い妹の美咲。ここは、家族で毎年訪れていた海だ。夕日が水平線を茜色に染め、波音が心地よく響いている。俺は、完璧に記憶している。この日、父が大きなスイカを浜辺に埋めて、みんなでスイカ割りをしたのだ。最高の夏の思い出の一つだった。

だが、何かがおかしい。これはただの思い出の追体験ではない。俺は、まるで幽霊のように、家族の姿を第三者視点で見ている。そして、最も奇妙なのは、映像の中の「俺」の感情だ。記憶の中の俺は、ただただ楽しくて、幸福感に満ちていたはずだった。しかし、目の前の少年は、笑いながらも、時折不安そうに父の顔色を窺っている。父がスイカを叩き割った瞬間、記憶では大歓声が上がったはずなのに、映像の中の父の目は笑っていなかった。それは、何かを確かめるような、冷徹ささえ感じさせる眼差しだった。

背筋に冷たいものが走る。ヘッドセットを乱暴に外すと、そこは再び、埃っぽい父の書斎だった。窓の外では、蝉が狂ったように鳴いている。掌には、先ほどまで見ていた光景の熱が、まだ生々しく残っているようだった。俺が大切に磨き上げてきた家族の記憶という宝石に、今、初めて見る微細な、しかし確実なひび割れが入った瞬間だった。

第二章 ずれゆく家族の肖像

その日を境に、俺の世界は静かに歪み始めた。夜ごと父の書斎に忍び込み、チップを再生する日々が続いた。美咲の七五三、俺の中学の卒業式、家族揃ってのクリスマス。ヘッドセットを装着するたびに、俺は完璧だと信じていた思い出の舞台裏に引きずり込まれた。

映像の中の家族は、記憶の中の彼らとは別人に見えた。母はいつもどこか上の空で、その微笑みは完璧に計算された角度を保っているようだった。美咲は、快活な少女を演じているかのように、不自然なほど明るく振る舞っていた。そして父は、常に観察者だった。優しい父親の仮面の下で、彼は我々の一挙手一投足を、感情の機微さえも記録しているかのようだった。

俺自身の記憶との乖離が、じわじわと精神を蝕んでいく。ある日の夕食後、俺は意を決して妹の美咲に切り出した。

「美咲、覚えてるか? 俺が十歳の時の夏休み、海に行ったこと」

「え? ああ、スイカ割りした時でしょ? もちろん覚えてるよ。お父さんが豪快に割っちゃって、みんなで大笑いしたよね」

美咲は屈託なく笑う。その笑顔は、俺の記憶の中の笑顔そのものだった。

「……あの時、父さん、本当に笑ってたか?」

俺の問いに、美咲の動きがぴたりと止まった。彼女は一瞬、戸惑うように視線を泳がせ、それから無理に作ったような笑顔で言った。

「何言ってるの、お兄ちゃん。当たり前じゃない。すごく楽しそうだったよ。最近、疲れてるんじゃない?」

その瞳の奥に、俺は見逃さなかった。一瞬だけよぎった怯えと、何かを隠そうとする硬い意志を。

母にも尋ねてみたが、父の死後、少し物忘れがちになった母は、曖昧に微笑むだけだった。「そうだったかしらねぇ。お父さんはいつも優しい人だったわ」。その言葉は、まるでプログラムされた返答のように空虚に響いた。

家族という、疑うことのなかった一枚岩の肖像画が、少しずつ、異なるパーツの寄せ集めであることが露呈していく。俺たちが共有しているはずの過去は、それぞれが違う版画を渡されたかのように、細部が食い違っていた。俺が感じ始めた違和感は、妄想などではなかった。この家には、俺の知らない巨大な秘密が眠っている。その確信だけが、狂気に落ちそうな俺をかろうじて繋ぎとめていた。

第三章 偽りの揺りかご

答えは、父が残した別の場所に隠されていた。書斎の机の一番下の引き出し。それは鍵がかかっていて開かなかったが、俺は半ば自棄になってバールでこじ開けた。中には、分厚い革張りの日記が一冊だけ、静かに収まっていた。父の几帳面な文字が、インクの濃淡も生々しく並んでいる。俺は震える手でページをめくった。

そこに書かれていたのは、小説家である俺の想像力を遥かに超える、残酷で、そしてあまりにも切ない真実だった。

『——彼らは、私の罪であり、希望だ』

日記は、そう始まっていた。父は、神崎宗一郎は、脳科学者だった。彼は、トラウマ記憶を幸福な記憶に上書きする研究に没頭していた。その研究の被験者こそが、涼介、美咲、そして母…いや、あの女性だった。

俺たちは、血の繋がった家族ではなかった。

俺は、交通事故で両親を失った孤児。美咲は、火事で家族を亡くした少女。そして母は、夫と子供を同時に失い、心を閉ざした女性。俺たちは全員、それぞれの地獄の中で生きる希望を失っていた。そんな俺たちを、当時、研究機関に勤めていた父が引き取ったのだ。

父自身もまた、最愛の妻子を事故で亡くしていた。彼は、絶望の淵で、自らの研究を実用化するという狂気に近い使命感に駆られた。彼は自らが開発した「記憶共有システム」——あのヘッドセットとチップの正体——を使い、俺たち三人の脳に、理想的な「神崎家」の記憶を植え付けた。彼がかつて経験したかった、経験するはずだった、完璧な家族の設計図を。

しかし、システムは未完成だった。記憶の定着率は個人差が大きく、細部が欠落したり、被験者の無意識が元の記憶の断片と結びついて、微妙な差異(バージョン違い)を生み出してしまった。俺が感じていた違和感の正体は、それだった。父が映像を記録していたのは、記憶の定着具合を観察し、メンテナンスするためだったのだ。父の冷たい眼差しは、観察者の目だった。

日記の最後のページは、涙の染みで滲んでいた。

『私は偽りの神を演じてしまった。彼らに偽りの過去を与え、偽りの揺りかごで眠らせてきた。だが、共に過ごした二十数年は、私にとって紛れもない本物だった。涼介、美咲、すまない。そして、ありがとう。君たちは、私の本当の家族だった』

俺は日記を閉じた。涙は出なかった。あまりの衝撃に、感情が追いつかなかった。蝉の声が、遠くで聞こえる。俺がよすがにしてきた「家族」という大地が、足元から音を立てて崩れ落ちていく。俺たちは、一人の男が創り出した、悲しい幻想の住人に過ぎなかったのだ。

第四章 始まりの記録

その夜、俺は母と美咲をリビングに集め、すべてを話した。父の日記と、あのヘッドセットを見せて。

母は最初、何も理解できないという顔で俺を見ていたが、日記の父の文字を目にした途端、堰を切ったように泣き崩れた。それは、忘却の海の底に沈められていた、本当の悲しみの発露だった。美咲は、静かに俯いていた。やがて、ぽつりと言った。

「…知ってた。ううん、気づいてた、ずっと前から」

彼女は、時折見る悪夢や、どうしても思い出せない幼少期の記憶の空白から、自分たちの過去が作られたものであることに薄々感づいていたのだという。だが、この温かい「家族」が壊れるのが怖くて、知らないふりをし続けていたのだ。

沈黙が部屋を支配した。窓の外は藍色に染まり、一番星が瞬き始めている。俺たちの足元には、偽りの記憶の瓦礫が散らばっている。血の繋がりも、共有された本当の過去もない。では、俺たちは一体、何者なのだろうか。

絶望が胸を締め付けたその時、俺は父の日記の最後の一文を思い出していた。『君たちは、私の本当の家族だった』。

偽りの記憶を植え付けたのは、許されざる行為かもしれない。だが、父は俺たちを実験動物として見ていたわけではなかった。彼は、孤独な魂を寄せ集め、不器用なやり方で、もう一度「家族」という温もりを創り出そうとしたのだ。

そして、その偽りの土台の上で、俺たちは確かに二十数年という時間を共に生きてきた。喧嘩もしたし、一緒に笑いもした。美咲が熱を出した夜に母と二人で看病したこと、俺が小説家になると言って父に反対され、それでも応援してくれたこと。それらは、植え付けられた記憶ではない。俺たちが、この体で、この心で、共に築き上げてきた紛れもない「真実」の時間だった。

「…過去は、作られたものだったのかもしれない」

俺は、静かに口を開いた。泣きじゃくる母の肩を抱き、震える美咲の手を握る。

「でも、これから作る時間は、俺たちのものだ。血が繋がってなくたって、本当の過去がなくたって、いいじゃないか。俺は、母さんと美咲と、これからも家族でいたい」

俺の言葉に、二人は顔を上げた。その瞳には、涙に濡れた、しかし確かな光が宿っていた。

翌日、俺たちは三人で、父の書斎にあったヘッドセットとチップを木箱に戻した。壊すことも、捨てることもしなかった。

「これは、俺たちの始まりの記録だ」

そう言って、俺は木箱の蓋を閉じた。

その夏、俺たちは初めて、三人だけの旅行に出かけた。行き先は、あの思い出の海。夕日が沈む浜辺で、俺たちはスイカ割りはしなかった。ただ、静かに波の音を聞き、移りゆく空の色を眺めていた。作られた過去ではなく、今、この瞬間の、自分たちだけの風景を心に刻むために。

俺たちの家族の物語は、大きな嘘から始まった。だが、これから紡がれる物語は、どこまでも真実だ。不格好で、不完全で、それでも愛おしい、俺たちだけの家族の物語が、今、静かに始まろうとしていた。

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