系譜の残響、空白の意志
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系譜の残響、空白の意志

第一章 同期の肌触り

俺、カイの手は、もう俺のものではなかった。指先は節くれだち、薄い皮膚の下には青黒い血管が網の目のように浮かんでいる。爪は白く濁り、掌には九十年以上の歳月が刻んだ深い皺が迷路を描いていた。祖母リリアとの「時間軸同期」。彼女の時間が、俺の肉体を支配していた。

「カイや、窓の外を見てごらん。今日もいい天気だねぇ」

耳に届くのは、俺自身の口から紡がれる、掠れた老婆の声。窓枠に凭れる身体は軋み、腰の奥に鈍い痛みが走る。庭先に咲く深紅の薔薇の香りが、遠い昔の恋の記憶を呼び覚まし、胸が微かに甘く痛んだ。これが祖母の世界。俺は彼女の目を通して世界を見、彼女の心で感じる。この能力は、俺と家族を繋ぐ、奇妙で、そして絶対的な絆だった。

同期を解くと、時間の奔流が逆巻くような激しいめまいに襲われる。数秒後、鏡に映っていたのは、皺だらけの老人ではなく、二十歳の青年である俺自身の姿だった。滑らかな肌、黒々とした髪、まだ何者でもない自分。だが、身体の芯には老婆の疲労感が鉛のように沈殿している。

「お兄ちゃん!」

背後から小さな身体が飛びついてきた。幼い妹のミアだ。彼女の柔らかな髪が首筋をくすぐり、ミルクのような甘い匂いが鼻腔を満たす。この世界の法則では、家族の記憶こそが存在の礎。ミアの無邪気な「お兄ちゃん」という呼び声が、俺の存在をこの場に強く繋ぎ止めていた。俺はミアを抱き上げ、彼女の明るい笑い声に耳を傾けながら、この記憶の繋がりという揺るぎない理に、一瞬の安らぎを感じていた。

第二章 空白の石板

我が家には、代々受け継がれてきた一枚の石板がある。黒曜石のように滑らかで、ひんやりとした手触りのそれには、一族の「家系図」が刻まれていると教えられてきた。しかし、そこに記されているのは、遥か昔の始祖の名と、今を生きる俺たち家族の名だけ。その間にあるはずの幾多の世代は、まるで存在しなかったかのように、完全な空白だった。

ある雨の午後、俺は書斎でその石板を前にしていた。指で空白の部分をなぞる。そこは他の部分と何ら変わらない、冷たく硬質な石の感触があるだけだ。

「祖母様、どうして僕らの家系図は、真ん中が抜けているんですか?」

以前、祖母リリアに尋ねたことがある。彼女は編み物の手を止め、窓の外の灰色の空を見つめながら、静かに答えた。

「あれが、あるべき姿なのだよ。系譜とは、記憶されている者たちの連なり。忘れられた者は、初めから存在しないのと同じだからね」

その言葉は、この世界の法則そのものだった。だが、俺にはそれが腑に落ちなかった。忘れられた? なぜ、一世代まるごと? それはあまりに不自然な忘却だ。まるで、鋭利な刃物で故意に抉り取られた傷跡のように、その空白は不気味な静けさを湛えていた。

家の古文書をどれだけ紐解いても、その空白の時代に関する記述は一切見つからない。歴史から、人々の記憶から、完全に抹消されている。まるで世界そのものが、彼らの存在を許さなかったとでも言うように。石板の冷たさが、じわりと指先から不安を染み渡らせてくるようだった。

第三章 影の囁き

その夜、俺は悪夢にうなされた。能力が暴走し、家族たちの意識が奔流となって俺の中に流れ込んでくる。祖母の郷愁、父の重圧、母の優しさ、そしてミアの無垢な好奇心。それらが混濁し、俺という個の輪郭が溶けていく。息が詰まるような感覚の中、突如、全く異質な意識の断片が割り込んできた。

それは、誰のものでもない意識だった。家族の誰とも違う、冷たく燃えるような怒り。記憶という檻に対する、絶望的なまでの抵抗。そして、孤独な「個」であろうとする、悲しいほどの渇望。

「――誰だ!」

俺は叫び、跳ね起きた。全身に冷たい汗が噴き出している。心臓が警鐘のように鳴り響いていた。

衝動に駆られ、俺は書斎へと走り、あの石板に手を伸ばした。混乱した意識を鎮めるため、無意識に妹のミアとの同期を試みる。世界がぐにゃりと歪み、視界が低くなる。書斎の重厚な家具が、まるで巨人たちの砦のように見えた。幼子の純粋で曇りのない瞳を通して、俺は再び石板を見た。

その瞬間、俺は息を呑んだ。

ミアの視界に映る石板の空白部分に、陽炎のような黒い影が無数に揺らめいていたのだ。それは人の形をしていた。男、女、老人、子供。彼らは声なく叫び、手を伸ばし、何かを訴えかけているように見えた。耳の奥で、風が木々の葉を揺らすような、意味をなさない囁きが聞こえる。同期を解くと、影も囁きも幻のように消え失せた。しかし、あの残像は、確かに俺の網膜に焼き付いていた。あれは、忘れられた者たちの魂の残滓なのだろうか。

第四章 忘れられた反逆者

真実を知らねばならない。その思いが、俺を無謀な試みへと駆り立てた。これまで誰も、いや、俺自身でさえ危険すぎると避けてきたこと。それは、誰とも同期せず、純粋な「カイ」という個の意識だけで、石板の深淵に触れることだった。それは自らの存在を支える記憶の繋がりを断ち、希薄な虚空に身を投じるに等しい行為だった。

覚悟を決め、石板に両手を置く。冷気が腕を伝い、心臓まで凍らせるようだ。意識を集中させると、俺の身体が徐々に輪郭を失っていく感覚に襲われる。家族の記憶から切り離され、自分が何者であるかすら曖昧になっていく。恐怖に心が折れかけたその時、石板が脈動を始めた。

ゴオッ、と地鳴りのような音が響き、俺の意識は漆黒の渦に引きずり込まれた。

目の前に広がったのは、過去の残響。俺は「空白の世代」と呼ばれた人々の中にいた。彼らは笑い、語り合い、愛し合っていた。しかし、彼らの瞳には共通の光が宿っていた。それは、血と記憶の呪縛から解き放たれ、「個人」として独立した存在になりたいという、燃えるような意志の光だった。

「我々は記憶の奴隷ではない!」「我々の存在は、我々自身が証明する!」

彼らは、この世界の根幹を成す法則に反旗を翻したのだ。自らの子に、親の記憶を継承させる儀式を拒み、家族という系譜から自らを切り離そうとした。

だが、世界はそれを許さなかった。彼らの反逆は、世界の理を崩壊させる致命的なウイルスと見なされた。空が裂け、光なき光が降り注ぐ。それは「世界の意志」とでも呼ぶべき、絶対的な抹消の力だった。彼らの身体が塵となり、彼らに関する全ての記憶が、生きとし生ける者たちの脳裏から強制的に消し去られていく。悲鳴さえも、記録されることなく虚空に溶けていった。

消滅の寸前、一人の男が天を仰ぎ、最後の意志を叫んだ。

「我らが肉体と記憶は消え去ろう。だが、この意志だけは…! いつか、記憶の鎖の外で、新たなる芽となって芽吹く!」

その意志の最後の欠片が、時空を超えて一筋の光となり、俺の魂に流れ込む。理解した。俺のこの不可解な能力は、彼らが未来に託した、最後の反逆の種子だったのだ。

第五章 選択の刻

現実へと引き戻された俺は、床に崩れ落ち、激しく喘いだ。全身が凍てつき、心は真実の重みに押し潰されそうだった。彼らは反逆者であり、異端者だった。だが、彼らの願いは、ただ純粋に「自分」として生きたいという、魂の叫びだった。

俺はその意志を継ぐべきなのか。

継ぐということは、俺自身もまた、家族の記憶から自らを切り離すということだ。愛する祖母や、無邪気なミアの心の中から、「カイ」という存在を永遠に消し去ること。それは、彼らの世界で俺が「死ぬ」ことと同義だった。考えただけで、胸が張り裂けそうだった。

かと言って、このまま世界の法則に従い続けるのか? 真実を知ってしまった今、この記憶の檻を、安住の地として受け入れることなどできはしない。

「カイ」

いつの間にか、祖母リリアが背後に立っていた。彼女の顔には、深い悲しみを湛えた、しかし全てを理解したような穏やかな表情が浮かんでいた。俺の混乱も、苦悩も、彼女にはお見通しだったのだろう。

「お前は、お前の生きたいように生きなさい」

その声は、優しく、そして力強かった。

「たとえ…この私が、お前の名を忘れてしまうことになったとしても。お前が生きていたという温もりだけは、この魂が覚えていよう」

皺の刻まれた手が、そっと俺の肩に置かれる。その温かさが、俺の凍りついた心を溶かしていく。祖母の目には、世界の理を超えた、ただ一人の孫への深い愛が宿っていた。

第六章 記憶の彼方へ

俺の決意は、定まった。

最後の同期を始める。まずは祖母リリアと。彼女の九十年の人生の温もりと叡智に感謝を告げる。次に父と母。未熟な息子を愛し、支えてくれた記憶を抱きしめる。そして、最後にミア。彼女の屈託のない笑顔と、小さな手の温もりを、この魂に刻みつける。一人一人の記憶の中の「カイ」に、静かな別れを告げた。彼らの愛情が、これから虚無へと旅立つ俺の、唯一の道標だった。

全ての同期を終え、俺は再び石板の前に立った。もう誰の力も借りない。ただ「個」としてのカイが、そこにいる。空白の世代が遺した、自由への意志を完全に受け入れる。自らの存在を、この記憶の系譜から、今、解き放つのだ。

「さようなら、僕の愛する家族」

そう呟いた瞬間、俺の指先から身体が透き通り始めた。足元から霧のように存在が薄れていく。居間で遊んでいたミアが、ふとこちらを向き、不安げに首を傾げた。

「…おにい、ちゃん…?」

その言葉が紡がれるのと、彼女の記憶から俺の顔が消え去るのは、ほぼ同時だった。彼女の瞳から、俺という存在を映す光がすうっと消える。父も、母も、祖母も、皆、一瞬だけ何かを訝しむ表情を浮かべたが、すぐに日常へと戻っていった。彼らの世界から、カイという存在は完全に消去された。

孤独と、それ以上の解放感に包まれながら、俺は最後に微笑んだ。

俺の姿が完全に消え失せた、その刹那。

ピシリ、と硬質な音が響いた。何千年もの間、いかなる変化も拒んできた家系図の石板に、初めて、一本の細い亀裂が走っていた。

それは、記憶に縛られない新たな存在が、この世界に生まれ落ちた産声。世界の絶対的な法則に、ほんの少しだけ風穴が開いた証だった。俺はもうどこにもいない。誰にも記憶されていない。だが、俺の選択が、この閉ざされた世界を、新たな次元へと導く、静かな始まりになるだろう。

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