忘れられた守り人

忘れられた守り人

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第一章 掌中のぬくもり

書斎の空気は、古い紙の匂いと微かなインクの香りで満ちていた。陽向(ひなた)は両の手のひらをそっと合わせ、息を詰める。意識を集中させると、指の隙間から柔らかな光が漏れ始めた。それは、娘の咲(さき)が初めて自分の足で立った、あの午後の記憶。よろめきながら二、三歩進み、彼の胸に飛び込んできた時の、小さな体の重みとミルクの匂い。

光は次第に強度を増し、やがて彼の掌中に、淡い琥珀色に輝く小石となって収まった。掌に乗るサイズの『光る時間の石』。その中では、幼い咲が何度も繰り返し、満面の笑みで彼の方へ歩いてくる。

「これで、よし…」

安堵の息を漏らした陽向は、そっと石をビロードの布に包み、引き出しの奥に仕舞った。これで、八つ目だ。コレクションが増えるたびに、心の空虚な部分が少しだけ満たされるような気がした。

リビングに戻ると、妻の美月(みつき)が不思議そうな顔で彼を迎えた。

「あなた、さっきまでどこにいたの?咲が熱を出して大変だったのに」

「え?」

陽向は言葉を失った。つい三時間ほど前まで、高熱にうなされる咲の額を濡れたタオルで拭いていたはずだ。その苦しむ姿に耐えきれず、幸せな記憶に逃避するために、彼は石を創ったのだ。

「咲は?熱は…」

「熱?何言ってるの、あの子は昨日からずっと元気よ。ほら」

美月が指さす先で、咲が積み木で遊びながら屈託なく笑っていた。その姿に安堵する一方で、陽向の心臓は冷たい手で掴まれたように軋んだ。

彼が石を創るために費やした三時間。そして、咲が熱を出していたはずの半日間。それらの時間は、家族の共有する歴史から、綺麗に削り取られて消滅していた。家族は誰も、その時間の喪失に気づかない。ただ、陽向だけが、その空白の重さを知っていた。

第二章 綻びる織物

世界は静かな病に侵されていた。テレビのニュースキャスターが、沈痛な面持ちで語る。

『本日も各地で、原因不明の“時間乖離(かいり)現象”が報告されています。これは、家族の『絆の糸』が分断されることで発生すると見られており…』

ソファに座る陽向には、その『絆の糸』が見えた。彼と、美月と、咲。三人の『個人の時間の糸』が寄り集まり、一本の太く、温かい光を放つ帯となっている。それが、家族の絆の糸だ。しかし、陽向は知っていた。自分たちの糸もまた、その輝きを少しずつ失い、所々が透け始めていることを。

不安が胸をよぎるたび、彼は書斎に籠り、石を創った。美月と初めてデートした日の夕焼け。咲が初めて「パパ」と呼んでくれた時の、舌足らずな声。過去の幸せは、現在の不安を和らげる甘い麻薬だった。だが、その代償は確実に支払われる。

「ねえ、あなた。今週末、動物園に行く約束だったわよね?」

ある日の食卓で、美月が言った。

陽向の心臓が跳ねる。彼には、そんな約束をした記憶がなかった。おそらく、彼が昨夜、結婚記念日の記憶を石に変えたときに、その約束を交わした週末の時間が丸ごと消え去ってしまったのだろう。

「…すまない、忘れていた」

嘘をつくと、美月の瞳に微かな失望の色が浮かんだ。その表情が、陽向の胸を鋭く刺した。過去の輝きに手を伸ばすたびに、現在の温もりが指の間から零れ落ちていく。まるで、自らの手で家族の絆を綻ばせているかのようだった。

第三章 時の織り手の警告

雨の降る午後だった。公園のベンチに独り座り、薄れゆく自分たちの絆の糸を虚ろに見つめていると、不意に隣に誰かが腰を下ろした。古びたマントを羽織った、皺深い老婆だった。

「美しい糸じゃのう。じゃが、ずいぶんと細くなってしもうた」

老婆の声は、乾いた葉が擦れ合うような音をしていた。陽向は驚いて顔を上げた。この老婆には、糸が見えるのか。

「あなたは…?」

「わらわは、時の流れを紡ぎ、見守る者。お前さんのような、時間を喰らう者を時折見かける」

老婆は陽向の目をじっと見据えた。その瞳は、悠久の時を見てきたかのように深く、全てを見透かしているようだった。

「お前の創るその光る石。あれは過去の残響じゃ。美しいが、猛毒でもある。創るたびに、お前さんの周りに『時間の澱(よどみ)』が溜まっていく。それが、絆の糸を内側から蝕むのじゃ」

時間の澱。その言葉に、陽向は背筋が凍るのを感じた。やはり、この現象の原因は自分自身にあったのか。家族を愛するがゆえの行為が、家族をバラバラにする元凶だったというのか。

「やめなくては…」

「やめるか。やめれば、澱はそれ以上生まれまい。じゃが…」

老婆は意味深に言葉を切り、空を指さした。「お前さんには、まだ見えておらんようじゃな。この世界を覆おうとしておる、本当の厄災が」

第四章 影の正体と未来の亀裂

老婆が陽向の額にそっと指を触れる。その瞬間、彼の視界がぐにゃりと歪んだ。

見えたのは、彼が石を創るたびに背後に生まれていた、黒い霧のような影だった。それが『時間の澱』。消滅した現在が遺した怨嗟のようにも見えるその影は、確かに陽向たちの家族の絆の糸にまとわりつき、その輝きを吸い取っていた。絶望が陽向を打ちのめす。

「もう、やめます。石は二度と創らない」

彼が固く決意した、その時。老婆が見せた光景は一変した。

未来の世界。空には巨大な亀裂が走り、まるでガラスが砕け散るかのように、世界中の、無数の家族の絆の糸が、一斉に断ち切られていく。家の中で父親が子供の姿を認識できなくなり、食卓を囲む妻が夫のいる空間をすり抜ける。時間軸がバラバラになった家族たちが、互いを認識できずに泣き叫ぶ地獄絵図。

『大分断』。

老婆が囁いたその言葉が、雷鳴のように陽向の頭蓋に響いた。

「なん…だ、これは…」

「避けられぬ時間の災害じゃ。やがて来る未来。糸の脆くなった現代の家族には、到底耐えられぬ衝撃よ」

老婆は続けた。

「お前さんが石を創るのをやめれば、澱は消え、お前さんたちの糸は少しは持ち直すじゃろう。じゃが、その時には、もう何の備えもなく、この『大分断』を迎えることになる」

第五章 愛という名の緩衝材

陽向は混乱した。澱は絆を蝕む毒。しかし、それを生み出すのをやめれば、もっと大きな破滅が訪れる。一体、どうすればいいのか。

「よく見るがよい」

老婆に促され、陽向は再び未来のビジョンに目を凝らした。そして、気づいた。無数の糸が断ち切られていく中で、いくつかの糸が、かろうじてその繋がりを保っている。それらの糸には、ある共通点があった。糸の周囲を、まるで守るかのように、濃い黒い霧――『時間の澱』が取り巻いていたのだ。

「…まさか」

「そうじゃ。お前さんが生み出した『時間の澱』は、絆を少しずつ弱らせる毒じゃが、同時に、来るべき『大分断』の巨大な衝撃を和らげる、唯一の『時間の緩衝材』でもあるのじゃよ」

真実は、あまりにも残酷だった。

家族との現在の触れ合いを犠牲にしてまで集めてきた、過去の幸せの記憶。それは単なる自己満足の逃避ではなかった。無意識のうちに、未来の家族を、そして世界を救うための、唯一の防波堤を築いていたのだ。

愛する家族との「今」を削り取ることだけが、家族の「未来」を守る手段。

陽向は、自分が歩んできた孤独な道のりの意味を、その時初めて悟った。そして、これから自分が成すべき、最後の仕事も。彼の胸に、悲しいほどの静けさと、鋼のような覚悟が満ちていった。

第六章 名もなき光

空が、赤黒く染まっていた。『大分断』の兆候だった。世界の時間が軋みを上げ、空間の至る所に細かな亀裂が走り始めていた。

陽向は、眠っている美月と咲の寝室にそっと入った。愛する二人の穏やかな寝顔。この笑顔を、この温もりを守るためなら、どんな代償も厭わない。彼は、二人の頬に最後の口づけを落とした。その唇の感触が、彼がこの世界に存在した最後の証だった。

書斎に戻り、引き出しの奥から、彼がこれまで創り上げてきた全ての『光る時間の石』を取り出す。琥珀色の石、月長石のような石、朝焼けの色を映した石。その一つ一つが、かけがえのない家族の幸せの結晶だった。

そして、彼は自らの胸に手を当て、最後の記憶を引きずり出す。

咲が生まれた、あの瞬間。

初めて腕に抱いた時の、か細い産声と、信じられないほどの生命の重み。

彼の人生で最も輝かしく、最も尊い記憶。

「さようなら…美月、咲」

陽向は、全ての石と最後の記憶を、天に掲げた。それらは眩い光の奔流となって解き放たれ、膨大な量の『時間の澱』へと変換された。黒い霧は天蓋のように世界を覆い尽くし、空に走った巨大な亀裂がもたらす衝撃を、その身で受け止め、霧散させていく。

時間災害は、防がれた。

しかし、そのための緩衝材を生み出した陽向という存在の因果は、世界の全てから消え去った。彼の時間は、完全に消滅した。

数年後の、穏やかな春の日。

公園のベンチで、美月と、少し大きくなった咲がアイスクリームを食べている。彼女たちの家族の絆の糸は、力強く輝いていた。ただ、その糸の中央には、かつて誰かがいたかのような、ほんのわずかな、けれど温かい光を放つ空白があった。

「ママ」

咲が空を見上げて言った。

「なんだか時々ね、すごく温かい光に、ずっと守られてる気がするの」

美月は娘の言葉に優しく微笑み、空を見上げた。なぜか、涙が一筋、頬を伝った。

「そうね。きっと誰かが、私たちをずっと見守ってくれているのよ。名前も知らない、優しい誰かが」

彼女たちは知らない。

自分たちを救った守り人の名前を。その人が、世界で最も自分たちを愛していたことを。

空にはただ、名もなき光の残響が、いつまでも二人を祝福するように瞬いていた。

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