記憶の器、家族の河
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記憶の器、家族の河

第一章 揺らぐ自己

夜明けの光が、埃の舞う部屋に細い筋を描き出す。俺、カイの意識は、祖父の夢の浅瀬からゆっくりと陸に上がってきた。目を開けると、視界に映る自分の手が、節くれ立ち、深い皺が刻まれていることに気づく。祖父の手だ。まただ。俺の意識の『主』が、今は亡き祖父になっている。

「……カイ」

自分の喉から漏れたのは、懐かしい祖父のしゃがれた声だった。この肉体は二十歳の青年のもののはずなのに、心と身体の境界が朝霧のように曖昧になる。自己の連続性という感覚が、俺にはほとんどない。父に、母に、あるいは幼くして消えた妹に、俺の意識は日ごと、時ごと、何の前触れもなく乗っ取られる。俺は、家族という名の幽霊たちが住まう、ただの器なのかもしれない。

ベッドの傍らには、透明な『家族の器』が置かれている。一族に代々伝わる、常に清らかな水で満たされた硝子の器。そっと、祖父の記憶が宿る指でそれに触れる。途端に、水面が穏やかな瑠璃色に染まり、微かに揺らぎ始めた。祖父の温かい記憶が流れ込んでくる。書庫の黴の匂い、分厚い本の頁をめくる乾いた音、そして俺の頭を撫でてくれた、あの手のひらの感触。安らぎが胸に満ちる。

だが、その静寂は長くは続かなかった。窓の外で鳥が鋭く鳴いた瞬間、別の記憶が激流のように割り込んできた。

「お兄ちゃん!」

妹、リナの甲高い声。恐怖に引きつった小さな顔。世界から色が失われていくような、耐え難い喪失感。器の水は急速に色を失い、やがて淀んだ墨のように黒く濁った。水面が激しく波立ち、冷たい雫が俺の肌を打つ。リナは「記憶喪失病」で消えた。家族の物語を充分に記憶できず、その存在ごと世界から抹消されたのだ。この世界では、記憶こそが命の灯火なのだから。

黒い水面に映るのは、恐怖に歪む青年の顔。俺自身の顔だ。俺はいつまで、こうして存在していられるのだろうか。家族の記憶を繋ぎ留めることが、俺に課せられた唯一の存在理由だというのに。

第二章 空白の書架

俺の一族の使命は、失われた家族の物語を探し出し、『家族の器』に蓄えること。それは、この記憶が支配する世界で生き延びるための、唯一の方法だった。俺は震える足で立ち上がり、世界の記憶の源である『家族の書庫』へと向かった。

書庫は、天を突くほどの巨大な円形の建造物だった。内部には無限とも思える書架が螺旋状に伸び、そこには人々の家族の物語が結晶化した「記憶晶石」が、星々のように収められている。古紙とインクの乾いた匂いが鼻をつき、しんと静まり返った空気は、まるで墓所のようだった。

俺は慣れた足取りで、自分たちの家族の名が刻まれた区画へ向かう。そして、息を呑んだ。そこにあるはずの輝かしい記憶晶石が、ほとんど失われていたのだ。祖父が語ってくれた英雄譚も、母が歌ってくれた子守唄も、父が成し遂げた偉業も、全てが抜け落ち、がらんどうの棚が虚しく口を開けているだけだった。残っているのは、俺自身の、まだ物語と呼ぶにはあまりに拙い記憶の欠片だけ。

絶望が全身を凍らせる。これでは、俺もリナのように、いずれ消える。

その時だった。ふと、隣の書架に目が留まった。そこは「素性の知れぬ者たち」の物語が収められる、薄暗い区画。その埃をかぶった棚の隅に、見慣れた形の記憶晶石が、淡い光を放っているのを見つけた。それは、リナが肌身離さず持っていた、木彫りの小鳥の玩具。

何故こんな場所に? 疑念を抱きながら晶石に手を伸ばす。指先が触れた瞬間、鮮烈な記憶が脳裏に溢れ出した。

妹の視点だ。小さな手で、確かにあの小鳥を握りしめている。だが、その視線の先にいるのは、俺の知らない男女だった。優しげな顔でリナに微笑みかける、見知らぬ父と母。その光景は、温かく、幸せに満ちていた。しかし、それは俺たちの家族の物語ではなかった。俺たちの記憶が、何者かによって、全く別の家族の物語としてここに収められている。背筋を冷たい汗が伝った。

第三章 盗まれた物語

一つの疑念は、やがて確信へと変わった。俺は憑かれたように書庫を彷徨い、他の家族の書架を調べ始めた。商人ギルドの棚には、若き日の父が未知の海を渡った冒険譚が、まるでその商人の手柄話のように収められていた。吟遊詩人の区画では、母が俺だけに歌ってくれた優しい旋律が、大衆向けの流行歌として記録されていた。

俺たちの家族史は、解体され、盗まれ、無関係な人々の物語として世界に散らばっていたのだ。怒りがこみ上げる。誰が、何のために。これは単なる間違いではない。体系的で、悪意に満ちた改竄だ。

感情の昂ぶりに呼応して、『家族の器』の水が血のような赤色に染まり、沸騰するように泡立った。俺は怒りに身を任せ、書架の一つを殴りつけようとした。

「おやめなさい」

静かだが、有無を言わせぬ声が背後から響いた。振り返ると、そこに一人の男が立っていた。書庫の管理者を示す、灰色のローブをまとった痩身の男。彼は自らを「書司」と名乗った。

「貴様がやったのか」俺は低い声で問い詰める。

書司は表情一つ変えず、静かに頷いた。「いかにも。全ての物語は、あるべき場所へ還るべきなのです」

「あるべき場所だと? 俺たちの記憶を奪っておいて!」

「奪ってはいません。再分配しているのです」書司の目は、まるで凪いだ湖面のようだった。「この世界は、記憶の偏在によって崩壊寸前でした。強大な物語を持つ一族が他の弱小な家族の記憶を喰らい尽くし、消滅する者が後を絶たない。世界の存在そのものが、記憶の枯渇によって危うくなっていたのです。私は、ただ世界の均衡を保つために、豊かな物語を、それを必要とする者たちへ分け与えていただけです」

彼の言葉は、冷たい理性の刃となって俺の胸を貫いた。彼は悪意からではなく、彼なりの正義と使命感から、この恐ろしい行為を行っていたのだ。

第四章 原初の家族

書司の理屈は理解できた。だが、納得はできなかった。俺たちの家族の絆やアイデンティティは、彼の言う「均衡」のための駒でしかないというのか。

「それでも、それは偽りだ!」俺は叫んだ。「偽りの記憶で長らえた命に、何の意味がある!」

「意味など、人が与えるもの。彼らは幸せに生きていますよ。たとえそれが、借り物の物語の上にあったとしても」書司は静かに返す。

その時、俺の腕に抱えた『家族の器』が、これまでとは比較にならないほどの強い光を放ち始めた。瑠璃色、紅色、黄金色。様々な色の光が混ざり合い、器そのものが小さな太陽のように輝く。書司が驚愕に目を見開いた。

「それは……まさか、伝説の……」

器の水面がスクリーンとなり、無数の映像を映し出し始めた。それは、俺が取り戻した父の、母の、祖父の、そしてリナの記憶の断片だった。だが、それだけではない。商人の、詩人の、名もなき人々の、俺がこれまで触れてきた全ての物語が奔流となって器に流れ込み、一つの巨大なタペストリーを織り上げていく。

水面に映し出されたのは、見たこともない風景。そして、そこに生きる、数えきれないほど多くの人々。彼らの顔は違うのに、どこか似ていた。笑い声も、涙も、歌声も、全てが不思議な調和を保っている。

「これが……」俺は呟いた。

「原初の家族……」書司が、震える声で続けた。「全ての物語の源流。世界がまだ、たった一つの家族だった頃の記憶……」

俺の一族に課せられた真の使命。それは、単に自らの家族の記憶を集めることではなかった。世界中に散り散りになった『原初の家族』の記憶を再び集め、この器の中で統合すること。それこそが、この崩壊しかけた世界を救う、唯一の方法だったのだ。

俺は選択を迫られていた。このまま個としてのカイであり続け、断片化された世界で静かに消滅を待つか。あるいは、全ての記憶をその身に受け入れ、世界を再生させるための礎となるか。後者を選べば、カイという個の意識は、この広大な記憶の海に溶けて消えるだろう。

第五章 河はひとつに

俺は、静かに微笑んだ。祖父の叡智が、父の勇気が、母の愛が、そしてリナの無邪気な笑顔が、俺の中でささやく。お前は一人ではない、と。俺はこれまで、常に誰かの記憶に乗っ取られるこの身体を疎ましく思っていた。だが、今ならわかる。これは呪いではなく、祝福だったのだ。全ての魂を受け入れるための、器だったのだ。

俺は書司に向き直り、静かに頷いた。彼の目には、諦めと、そして微かな敬意の色が浮かんでいた。

ゆっくりと、『家族の器』に両手を浸す。水は、命そのもののように温かかった。

「さようなら、俺」

その言葉を最後に、俺の身体は足元から光の粒子となって崩れ始めた。意識が薄れるのではない。無限に広がっていくのだ。個という境界線が溶け、世界中の人々の喜びも悲しみも、全てが自分自身のものになっていく。痛みはなく、ただ途方もない安らぎと、懐かしさだけがあった。ああ、これが、本当の『家族』に還るということか。

世界中の人々が、その瞬間、空を見上げた。理由もなく胸が温かくなり、遠い昔に忘れていた大切な誰かのことを、ふと思い出していた。人々を脅かしていた記憶喪失の恐怖は、陽光に溶ける朝霧のように消え去った。世界は救われたのだ。

カイという名の青年の存在は、地上から消えた。しかし、彼は死んだわけではない。彼は世界そのものになった。新しく生まれる赤子の産声に、恋人たちの囁きに、老人たちが語る物語の中に、彼の意識は確かに宿り、愛する家族の記憶と共に、無限の時間を生き続ける。

かつて幾千にも分かれていた記憶の川は、今、再び一つの雄大な海へと還ったのだ。そして、その穏やかな水面のどこかに、カイという名の青年の優しい微笑みが、永遠に映り込んでいる。

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