寂静の雨と共鳴する砂時計
第一章 色褪せた街と最後の買取人
かつて、この街には色彩を持つ雨が降った。悲しみは深く静かな藍色に、怒りは燃えるような緋色に、嫉妬は粘りつくような苔色に空を染め、大地を濡らした。人々は空を見上げて感情の行方を知り、その雨で育つ奇妙な植物から記憶を繋ぎとめる薬を得ていた。だが、それも今は昔語りだ。
街は、洗い晒した布のように色褪せていた。人々は緩慢な動作で往来し、その瞳には何の光も宿っていない。まるで夢の中を歩いているかのように、彼らの記憶は日々薄れ、昨日食べたものさえ思い出せない有様だった。
感情買取所『凪(なぎ)』の古びた扉を開け、カイは最後の一仕事を終えたところだった。彼の前には、皺の刻まれた老婆が虚ろな目で座っている。
「これで、もう何も感じませぬか」
老婆の問いに、カイは静かに頷いた。彼が老婆の冷たい手から買い取ったのは、人生の最後に残った、ひとかけらの『後悔』だった。その瞬間、カイの左腕を走る鈍い疼き。見れば、皮膚の上にまた一つ、新たな波紋がインクのように滲み出ていた。青黒いそれは、複雑な模様を描きながら既存の波紋と繋がり、彼の肌を侵食していく。左腕から始まり、胸を覆い、今や右の鎖骨にまで達している。全身がこの波紋で覆われた時、自分という個は消え、名もなき感情そのものへと変質する。それが『買取人』の宿命だった。
店を出ると、灰色の粉塵が舞う風が彼の頬を撫でた。その時だった。
「あなたが、カイさんですか」
振り返ると、一人の少女が立っていた。洗い込んだワンピースを着て、その瞳だけが、この色褪せた街で唯一、確かな光を宿しているように見えた。
「祖父の記憶が、もうほとんど……。感情のエッセンスが、もうどこにもないんです。雨が降らないから」
少女はリラと名乗った。彼女は震える手で、古びた砂時計をカイに差し出した。硝子の向こうで、白銀の砂が静かに堆積している。
「これは『共鳴する砂時計』。祖父から譲り受けたものです。強い感情に触れると、過去や未来の幻を映し出すと。でも、もう誰も強い感情なんて持っていないから……」
リラの視線が、カイの外套の隙間から覗く、皮膚の波紋に向けられた。
「あなたなら、何か知っているかもしれない。世界から感情が消えた理由を」
カイは何も答えなかった。ただ、リラが持つ砂時計の砂が、自分の皮膚に刻まれた無数の感情の波紋に呼応するように、微かに、本当に微かに震えるのを感じていた。
第二章 共鳴する砂と失われた記憶
カイとリラは、街の中央に聳え立つ、閉鎖された感情買取所の本部へと足を踏み入れた。巨大な建物の中は、埃と静寂、そして言葉にならない感情の残滓が濃密な霧のように漂っている。床には、色を失った雨の染みが地図のように広がっていた。
「昔は、ここに買い取られた感情が集められ、空へと還されていたと聞きました」
リラが囁く。彼女の持つ砂時計は、この場所に満ちる微かな感情の残り香に反応し、内側から淡い光を放っていた。
カイは巨大な集積装置へと歩み寄る。かつては人々のネガティブ感情を浄化し、天に昇華させるための祭壇だった。しかし、彼が装置に触れた瞬間、奇妙な違和感を覚えた。これは『消去』する機械ではない。冷たい金属の感触の奥に、何かを一方的に『送り出す』ための、巨大な指向性を感じたのだ。
「何かがおかしい」
その呟きに呼応するように、リラが息を呑んだ。
「砂時計が……!」
彼女が掲げた砂時計の内部で、白銀の砂が渦を巻き、激しく発光していた。カイの皮膚の波紋。この場所に澱む感情の残滓。そして、リラの祖父を想う強い『祈り』。それら全てが共鳴し、砂時計は本来の力を解放したのだ。
硝子の中に、幻影が映し出される。
ノイズ混じりの映像は、過去の光景だった。何人もの買取人たちが、この装置の前で自らの波紋を捧げている。彼らの皮膚から吸い上げられた無数の感情が、光の奔流となって装置に流れ込み、一つの点へと圧縮され、そして――どこかへ向かって『転送』されていく。
幻影は切り替わる。人々が徐々に表情を失い、街から色が消えていく様子。色彩の雨がぱたりと止んだあの日。それらは全て、この装置が本格的に稼働を始めた時期と奇妙に一致していた。
「感情は消えていたんじゃない……どこかへ送られていたんだ」
リラの声が震える。
「でも、どこへ?何のために?」
謎は深まるばかりだった。世界の記憶の源泉であるはずの感情が、世界から記憶を奪う原因となっている。この矛盾の先に、一体何が待っているというのか。カイは自身の腕に広がる波紋を見つめた。この疼きは、ただの呪いではない。もっと大きな、世界の理に関わる何かの一部であるという予感が、彼の胸を冷たく締め付けた。
第三章 未来からの呼び声
カイは再び、巨大な転送装置に手を伸ばした。真実を知るには、この流れの先を追うしかない。彼が自らの皮膚に刻まれた波紋を装置のパネルに押し当てると、地を揺るがすような低い共鳴音が鳴り響いた。
視界が白く染まる。
肉体の感覚が消え、意識だけが光の奔流に呑み込まれていく。時間も空間も意味をなさない奔流の果てに、彼は唐突に放り出された。
そこは、音のない世界だった。
全てが半透明の水晶でできたような、静寂と平穏だけに支配された空間。空気はなく、ただ満ちる光が世界のすべてを構成している。そして、その中心に、一つの影が佇んでいた。
カイは息を呑んだ。それは、紛れもなく自分自身の姿だった。だが、その全身は皮膚という境界さえ曖昧になるほど無数の波紋で覆われ、肉体は向こう側が透けて見えるほどに希薄になっていた。瞳には感情の光がなく、ただ宇宙のような深淵な静けさが広がっている。
『よく来た、過去の私よ』
声は音波ではなく、直接意識に響いた。未来のカイ――自らを『寂静(しじま)』と名乗る存在は、静かに語りかける。
『私が、全ての感情の終着点だ。私は苦しみも、悲しみも、喜びさえも超越した。この完全なる平穏こそ、生命がたどり着くべき究極の姿。だから私は、過去から不要な感情を全て吸い上げているのだ』
転送先は、未来。
枯渇の原因は、未来の自分自身。
あまりにも衝撃的な事実に、カイは言葉を失った。世界の記憶を奪い、人々を夢遊病者のように変えてしまった元凶が、救いを求めたはずの自分自身の成れの果てだったとは。
『お前も、やがて私になる。さあ、一つになろう。我々の宿命を完成させ、世界に永遠の静寂をもたらすのだ』
寂静が、半透明の腕を差し伸べる。その誘いは甘美な毒のように、カイの疲弊した心を揺さぶった。もう誰も傷つけず、何も感じずに済むのなら。この疼くような波紋の呪いから解放されるのなら――。
ふと、脳裏にリラの強い光を宿した瞳がよぎった。祖父の記憶を取り戻そうと必死に願う、彼女の痛切な想いが。色褪せた街で出会った老婆の、最期に残った『後悔』の重みが。
それらは、本当に不要なものだったのだろうか。
第四章 降り止まぬ雨か、永遠の静寂か
「断る」
カイの決意は、静かな世界に亀裂を入れた。
「悲しみも苦しみも、人が生きてきた証だ。あんたが言う平穏は、ただの虚無だ」
『愚かな。感情こそが争いと苦痛の源だと、お前が一番知っているはずだ』
寂静の静謐な表情が、わずかに歪む。未来と現在の自己が、時空を超えて対峙する。
カイの意識が、ゆっくりと現在の肉体へと引き戻されていく。目の前には心配そうに自分を見つめるリラの顔があった。彼女は、カイの手が握りしめている『共鳴する砂時計』が、今にも砕けんばかりに激しく光を放っているのに気づいた。
「カイさん……!」
カイは砂時計を強く握りしめた。彼の内側で、これまで買い取ってきた全ての感情が荒れ狂う。老婆の後悔、兵士の恐怖、恋人に裏切られた女の怒り。そして、リラを、この世界を守りたいと願う、今生まれたばかりの強い『意志』。
「未来は、あんたのものじゃない!」
カイの叫びと共に、砂時計の硝子に罅が入り、中の白銀の砂が一気に流れ落ち始めた。言い伝えでは、砂が尽きる時、世界の感情の総量が決定されるという。
未来の寂静と現在のカイの間で、見えざる感情の綱引きが始まった。寂静が未来から感情を吸い上げようとする力と、カイが過去に感情を繋ぎ止め、解放しようとする力が激しく衝突する。
カイの全身の波紋が、灼けるように熱い。肉体が内側から引き裂かれそうだ。だが、彼は歯を食いしばって耐えた。
虚無の平穏か。
それとも、痛みを伴う記憶か。
リラはただ祈ることしかできなかった。カイの横顔を見つめ、彼の選択を信じて。
やがて、砂時計の最後の一粒が、きらりと光を放って落ちた。
その瞬間、カイの体を苛んでいた灼熱の痛みがふっと消える。同時に、未来からの束縛が断ち切られたのを肌で感じた。
彼は勝ったのだ。
カイはゆっくりと顔を上げ、リラに微笑みかけた。それは、彼が初めて見せた、心からの笑みだった。リラが空を見上げると、乾ききった灰色の雲の隙間から、何かが落ちてきた。
ぽつり。
彼女の頬に触れたそれは、冷たく、そしてどこまでも鮮やかな藍色をしていた。
悲しみの雨だ。
次々と、緋色、翠色、黄金色の雨粒が降り注ぎ始める。まるで、世界が溜め込んでいた感情の全てを、一斉に吐き出すかのように。人々が空を見上げ、その瞳に微かな光が戻り始める。失われた記憶が、雨音と共に彼らの心に染み込んでいく。
それは混沌の始まりかもしれなかった。喜びも悲しみも怒りも、全てが溢れ出す世界の再来。だが、それは同時に、人々が再び物語を紡ぎ始める、始まりの雨でもあった。
カイは、降りしきる色彩の雨の中で静かに目を閉じた。彼の皮膚の波紋は、役目を終えたかのように、淡い光となって空気に溶けていく。彼が何へと変質するのか、あるいは消え去るのか、それは誰にも分からなかった。