澱の底で囁くもの
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澱の底で囁くもの

第一章 煤色の手袋と凍てつく指先

この街は、忘却の上に成り立っている。人々は嫌な記憶を巧みに手放し、その抜け殻はアスファルトの下、見えない地下水脈のように淀んでいく。俺、カイには、その淀みの飛沫が見える。いや、触れる、と言うべきか。

他人の強い感情が染みついた場所に触れると、俺の指先は凍てつく。それは単なる比喩ではない。皮膚の下で血が凍り、骨の髄まで氷の針が突き刺さるような、鋭い痛みを伴う物理的な冷感だ。特に、恐怖や絶望といった澱んだ感情は、真冬の鉄柵よりも冷たい。

その日、俺は古い路地裏のレンガ塀に、何気なく手をついた。途端に、指先から全身を駆け巡る激しい悪寒。ただの冷たさではない。絶望の氷点下。脳裏に、見知らぬ男の喘ぐような呼吸と、追い詰められた獣の瞳がフラッシュバックする。ここは、誰かが命を絶つほどの恐怖に囚われた場所だ。

「……またか」

吐く息が白く濁る。夏だというのに、指先は紫色に変色し、感覚を失っていた。俺はポケットを探り、くたびれた革の小箱を取り出す。中には、祖母の形見である一対の手袋が収まっていた。陽の光を吸い込んだかのように黒々とした、煤色の手袋。使い込まれて柔らかいが、どこか不気味な気配を纏っている。

祖母は、俺と同じ「触感」を持つ人間だった。彼女は言った。「その力は呪いであり、道標でもある。この手袋は、お前を守り、そして深く傷つけるだろう」と。

この手袋をはめると、俺の能力は増幅される。微かな記憶の痕跡さえも鮮明な冷気として捉えられるようになるが、代償は大きい。他者の絶望が、痛みとして、記憶として、俺自身の魂を直接削り取っていくのだ。だから、ここ数年は固く封印していた。

だが、最近の街の様子は異常だった。夕暮れ時になると、街のあちこちに奇妙な「影」が現れるようになったのだ。それは陽炎のように揺らめき、人の形をしているようで、そうではない。音もなくアスファルトを滑り、目的があるかのように特定の方向へと進んでいく。人々はそれを気味悪げに遠巻きにし、見て見ぬふりをする。影を見た恐怖が、また新たな忘却を生み、地下の澱を濃くしていく。悪循環だ。

あの影が、ただの記憶の具現化ではないことに、俺は気づき始めていた。奴らは何かを探している。そして、その道筋には決まって、指が凍てつくほどの強い記憶の痕跡が残されているのだ。

俺は覚悟を決め、小箱から煤色の手袋を取り出した。ひんやりとした革の感触が、これから訪れる痛みを予感させる。手袋の内側には、祖母が遺した文字が刻まれているはずだが、長年の使用で擦り切れ、もはや何一つ読み取ることはできなかった。

第二章 影が指し示す道

煤色の手袋をはめた瞬間、世界が一変した。さっきまでただのレンガ塀だった場所が、今や絶対零度の氷壁のように感じられる。指先から伝わる冷気は、もはや痛みというより、存在そのものを無に帰すような虚無感に近い。脳裏を駆け巡る断片的な映像はより鮮明になり、見知らぬ男の最期の絶望が、自分のものだったかのように胸を締め付けた。

「……ぐっ……!」

歯を食いしばり、どうにかその場を離れる。街のすべてが、悲鳴を上げていた。公園のベンチは孤独に凍え、街灯の柱は誰かの不安に濡れていた。人々が笑顔で通り過ぎる石畳の一枚一枚が、過去に踏みつけられた無数の涙で凍りついている。手袋は、この街が忘却という薄氷の上に築かれた、脆い虚構であることを暴き立てていた。

俺は、影の進む方角へと歩き始めた。手袋をはめた指先が、最も強い冷気を放つ方向を指し示す、奇妙なコンパスになっていた。人々が忘れたがった記憶の道標を辿る、皮肉な旅だ。

影は複数、しかしすべてが同じ場所を目指しているようだった。古い商店街を抜け、再開発されたオフィス街を横切り、その流れは一つの巨大な建造物へと収束していく。

都市の心臓部に聳え立つ、「中央記念塔」。

公式には、この街の輝かしい繁栄を記念して建てられた、希望の象徴。しかし、俺の指先が感じるのは、希望とは程遠い、底なしの絶望の冷気だった。塔に近づくほどに風は冷たくなり、周囲の喧騒が嘘のように遠のいていく。まるで、塔そのものが音を吸い込んでいるかのようだ。

塔の麓にある広場に着いた時、俺は数体の影が、塔の礎石の周りをまるで巡礼者のように、静かに漂っているのを見た。影には顔がない。ただ、濃い絶望の輪郭があるだけだ。彼らは何かを訴え、何かを取り戻そうとしているように見えた。

人々は、この異様な光景から目を逸らし、足早に通り過ぎていく。誰も、この塔の足元に何が眠っているのか、知ろうとはしない。あるいは、無意識に知ることを拒んでいるのかもしれない。

俺はゆっくりと塔に近づいた。一歩踏み出すごとに、足元から這い上がってくる冷気が、骨を軋ませる。この先に、この街が隠し続ける最大の秘密がある。影が取り戻そうとしているもの。そして、祖母がこの手袋を俺に遺した本当の理由が。

第三章 礎石の慟哭

記念塔の礎石は、巨大な黒曜石のように滑らかで、夜の闇をそのまま固めたような色をしていた。俺は息を整え、煤色の手袋に包まれた右手を、そっとその表面に伸ばした。

指先が触れた瞬間、時が止まった。

世界から音が消え、視界が白く染まる。痛みという言葉では表現できない。魂ごと冷凍され、粉々に砕け散るような衝撃。手袋越しでさえ、脳髄を直接鷲掴みにされるような感覚に、俺は声もなく膝から崩れ落ちた。

そして、奔流が来た。

それは、一人の記憶ではない。何百、何千という人々の、声なき絶叫の集合体だった。

都市の創設者たちの、冷徹な思考が流れ込んでくる。彼らはこの街を、世界で最も豊かな場所にしようと計画した。だが、繁栄という強烈な「光」には、同量の「闇」が必要だった。彼らは、その「闇」を、人間から作り出すことを選んだのだ。

計画に反対する者、貧困にあえぐ者、社会の隅に追いやられた者たち。彼らは「都市の発展のための礎」という名目で集められ、その意識を強制的に地下の「記憶の澱」へと沈められた。彼らの恐怖、絶望、無念。その膨大な負の感情が、都市を動かす巨大なエネルギー源となっていたのだ。中央記念塔は、繁栄の象徴などではない。夥しい数の魂を澱に繋ぎ止めておくための、巨大な楔だった。

影の正体は、礎にされた人々の、消え去ることを拒んだ記憶そのものだった。彼らは忘れ去られた自分たちの存在を、真実を、「思い出して」ほしくて、この楔を目指し続けていたのだ。

激痛の中で、意識が薄れゆく。その時、ふと、手袋の内側が淡く光った気がした。擦り切れて読めなかったはずの文字が、脳裏に直接浮かび上がる。たった五文字。

『忘れるな、息子よ』

祖母の声だった。彼女もまた、この真実を知り、澱に沈められた一人だったのだ。この手袋は、彼女の最後の抵抗であり、俺に託された遺言だった。

俺が真実のすべてを「理解」した、その瞬間。

ゴゴゴゴゴ……と、地響きが起きた。中央記念塔が軋み、礎石から黒い霧のようなものが噴き出し始めた。楔が、俺という鍵によって、ほんの少しだけ緩んだのだ。解放された純粋な恐怖と罪悪感の記憶が、霧となって都市全体へと拡散していく。

第四章 追憶の墓守

霧が街を覆い尽くした時、異変は始まった。

まず、音が消えた。車のクラクションも、人々の話し声も、雑踏の響きも、すべてがぷつりと途絶えた。まるで、巨大なスイッチが切られたかのように、世界は完全な沈黙に包まれた。

街行く人々が、ぴたりと足を止める。誰もが、虚空の彼方を見つめていた。その瞳には、かつてこの街の礎となった人々の絶望が、自分たちの繁栄が築かれたおぞましい真実が、映し出されていた。忘却の蓋が開かれ、澱に沈んでいた記憶が、全市民の脳髄に流れ込んだのだ。

耐え難い罪悪感と、自らの足元に広がる闇への恐怖。彼らは、その真実を受け止めきれなかった。

そして、彼らは選択した。無意識のうちに、最も残酷で、最も安易な逃避を。

真実を忘れるのではなく、真実を知ってしまった「自分自身」を忘れることを。

一人、また一人と、人々の輪郭が陽炎のように揺らぎ始める。色が抜け、姿が透けていき、やがて完全に透明になって消えていく。悲鳴も、嘆きもない。ただ、静かに、そこにいたという事実そのものが世界から抹消されていく。建物も、車も、木々さえも、存在を支えていた人々の記憶が消えると共に、その実体を失い、色褪せた幻影へと変わっていった。

「やめろ! 思い出すんだ! 自分を忘れるな!」

俺は叫んだ。だが、その声は誰にも届かない。俺の言葉は、意味を失った音の粒子となって、静まり返った空気に虚しく吸い込まれていった。

なぜ、俺だけが消えないのか。答えは、この手にはまった煤色の手袋にあった。祖母の記憶と繋がったこの手袋が、俺をこの世界の最後の碇として繋ぎ止めているのだ。真実を暴いた代償として、俺だけが、すべてを記憶し続けることを強いられている。

やがて、最後の一人が消えた。活気に満ちていた大都市は、音も色も失った、巨大な墓標と化した。俺は、誰もいなくなった世界の、たった一人の住人となった。

俺は、中央記念塔の礎石に再び触れた。

もう、あの焼けつくような痛みはない。ただ、果てしなく深く、そして静かな冷たさが、手袋を通して伝わってくるだけだった。それは、失われた幾千もの魂の温度であり、この街の真の姿であり、そして、これから俺が永遠に抱え続けていく、孤独の温度だった。

空っぽの都市で、俺は追憶の墓守となる。忘れられた人々の記憶を、そして、自らを忘れることでしか救われなかった人々の記憶を、ただ一人、抱え続けながら。

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