第一章 残響の揺りかご
水無月響の呪いは、その耳から始まった。彼にとって世界は、常人には耐え難い音の洪水で満ちていた。アスファルトを叩く雨は、一粒一粒が異なる音色の打楽器となり、遠くを走る電車の車輪は、惑星の軋むような低周波を鼓膜に直接刻みつける。音響デザイナーという職業は、この呪われた聴覚を唯一活かせる聖域であり、同時に、彼を孤独へと追いやる檻でもあった。
その日、響が向き合っていたのは、古びた教会の廃墟で録音されたという環境音のデータだった。クライアントの依頼は、この音源から不純物を取り除き、澄み切った「静寂」を再現すること。ヘッドフォンを装着し、再生ボタンを押す。風がステンドグラスの破片を揺らす、か細い音。埃の粒子が床に落ちる、ミクロの衝撃音。それらは響にとって、まるで交響曲のようだった。
だが、その繊細な静寂の中に、あってはならない音が混じっていた。
赤ん坊の、泣き声だった。
それはスピーカーの性能や録音機材のスペックを嘲笑うかのように、生々しく、そして痛切だった。まるで響の頭蓋骨の内部で、直接産声を上げているかのようなリアリティ。スペクトルアナライザの波形は、その周波数帯に何の異常も示していない。同僚に聞かせても、首を傾げるばかりだ。「風の音じゃないですか?」と。
彼らに聞こえない音が、響にだけ聞こえる。それはいつものことだった。だが、今回の音は質が違った。それは過去の記録ではない。今、ここで、助けを求めて泣き叫んでいるかのような、切迫した「生命」の響きがあった。響は再生を止め、ヘッドフォンを外した。しかし、音は消えない。彼の内耳にこびりついた残響のように、あるいは、これから起こる何かを予兆するかのように、赤ん坊の泣き声は、静かに鳴り続けていた。日常が、その輪郭から静かに溶け出していくような、不気味な感覚。それが、すべての始まりだった。
第二章 不協和音の回廊
「赤ん坊の泣き声」は、響の日常を執拗に侵食し始めた。静寂を求めて耳を塞げば、頭蓋の内側からより鮮明に響き渡り、街の喧騒に紛れ込もうとすれば、すべての雑音がその泣き声のための伴奏と化す。眠りは浅くなり、目の下の隈は彼の孤独の色を日増しに濃くしていった。
彼は半ば強迫観念に駆られるように、音の出所である教会の歴史を調べ始めた。古文書や地域の記録を漁るうち、その教会がかつて、身寄りのない子供たちを預かる孤児院として使われていた時期があったことを突き止める。記録の片隅には、原因不明の火災で多くの幼い命が失われたという、インクの染みのように暗い記述があった。
やはり、これは死者の声なのか。過去の悲劇が、音の化石となってこの場所に留まっているのか。
そう考えた途端、彼の呪われた能力は、新たな段階へと覚醒した。それは教会だけでなく、あらゆる場所で「音の残響」を拾い始めるようになったのだ。古い公園のベンチに座れば、何十年も前に愛を囁き合った恋人たちの甘い声が聞こえる。古戦場跡を訪れれば、鬨の声と断末魔の叫びが渾然一体となって鼓膜を揺さぶった。
世界は、過去の音の亡霊で満ち溢れていた。彼の精神は、現実の音と過去の残響が入り乱れる不協和音の回廊を、終わりなく彷徨うことになった。仕事にも支障が出始めた。クライアントが求めるクリアな音源の中に、響だけが聞くことのできる悲鳴や呻き声が混じり、彼は何度もノイズだと誤解してデータを破損させた。
「水無月さん、最近少し疲れているんじゃない?」
プロジェクトの依頼主である明日香が、心配そうに声をかけてきた。彼女は響の才能を高く評価し、彼の繊細さを理解しようとしてくれる数少ない人間だった。彼女の澄んだ声は、響が苦しむ音の洪水の中で、唯一、彼の心を穏やかにする和音だった。
「大丈夫です」と答える響の耳の奥で、教会の赤ん坊の泣き声が、ひときわ大きく響いた。それはもはや、悲しみの声ではなかった。早く来い、とでも言うような、焦燥と警告の色を帯びていた。彼は決心した。この呪いの根源と向き合うために、もう一度、あの教会へ行かなければならない、と。
第三章 沈黙の蓄音機
満月の光が、教会の割れたステンドグラスを通して、まだら模様の影を床に落としていた。響は懐中電灯の光を頼りに、軋む床板を踏みしめながら祭壇へと進む。赤ん坊の泣き声は、まるで彼を導くかのように、建物の奥深くから聞こえてくる。それは、地下へと続く、カビ臭い石の階段の先からだった。
息を殺して階段を降りると、そこには埃を被ったガラクタが山と積まれた、広い地下室が広がっていた。泣き声は、部屋の中央で異様な存在感を放つ、一台の古びた蓄音機から発せられているように感じられた。真鍮製のホーンは鈍い光を放ち、その巨大な口は、何かを語りたげに闇を見つめている。
響は恐る恐る蓄音機に近づいた。レコード盤は載っていない。針は静かに空を切っている。そもそも電源すら入っていない。それなのに、泣き声はここから聞こえる。まるで、この機械そのものが鳴っているかのように。
彼は蓄音機の側面に、精巧な彫刻が施された小さな銘板を見つけた。「Tempus Sonitus(時の音)」と刻まれている。その下には、理解不能な歯車と水晶が複雑に組み合わさった、時計とも機械ともつかぬ装置が埋め込まれていた。彼がそっとその水晶に触れた、その瞬間。
世界から、音が消えた。
いや、違う。彼の耳に流れ込んできたのは、まったく新しい種類の「音」だった。それは、未来の音だった。数秒後に彼自身の足元で木の板が軋む音。数分後に遠くの国道でトラックがクラクションを鳴らす音。数時間後に、彼の部屋の窓を叩くであろう、夜の雨音。
全身に鳥肌が立った。この蓄音機は、過去の音を再生する装置などではない。時空の歪みから、未来に発生するはずの音を拾い上げ、過去である「今」へと漏出させているのだ。
響が聞いていた「音の残響」は、死者の声などではなかった。それは過去と、そしてまだ来ぬ未来の、音の幽霊だったのだ。彼が幻聴だと思っていた数々の悲鳴や事故音は、これから起こる悲劇の断片だったのかもしれない。
そして、彼は悟った。あの教会の赤ん坊の泣き声。それは、過去の孤児院の悲劇ではない。この場所で、未来に、何らかの形で失われるであろう、まだ生まれぬ赤ん坊の、予言の泣き声なのだ。
彼の能力は呪いではなかった。それは、未来の悲劇を告げる、あまりにも無力な警鐘だった。音しか聞こえない。誰が、どこで、なぜ、悲劇に見舞われるのか、何もわからない。絶望が、冷たい水のように彼の心を隅々まで満たしていく。その時、蓄音機から、新たな音が漏れ出した。
それは、彼の心を唯一穏やかにしてくれた、あの声。明日香の、絶叫だった。
第四章 あなただけの和音
明日香の悲鳴は、数時間後の未来を告げる、死刑宣告の鐘のようだった。それは、これまでのどの「残響」よりも鮮明で、具体的だった。悲鳴の背景に、彼は聞き取った。雨に濡れたアスファルトを滑るタイヤの音、金属が激しく衝突する音、そして、彼女が好きだと言っていた、小さな銀の鈴が砕け散る、悲しい音色。
無力感に震えていた響の心に、初めて明確な意志の炎が灯った。呪いだと思っていたこの耳で、たった一人でも救えるのなら。未来を変えられるという保証はない。だが、何もしなければ、彼女の悲鳴が現実になることは確定している。
響は教会を飛び出し、夜の街を疾走した。彼はヒーローではない。ただの、耳が良すぎるだけの孤独な男だ。だが今、彼の頭の中では、未来の音の断片が、明日香の居場所を示す地図となっていた。電車の通過音の反響具合から、高架下の近く。水路を流れる水の音から、古い運河沿いの道。そして、断続的に聞こえる教会の鐘の音。それらの音を繋ぎ合わせ、彼は一つの交差点を特定した。
雨が降り始めていた。予言の通りに。
交差点の向こう側、傘もささずに佇む明日香の姿が見えた。彼女は響との打ち合わせの資料を落としてしまい、それを拾おうと車道に身を乗り出している。その時、カーブの向こうから、ヘッドライトが猛スピードで接近してくるのが見えた。運転手は明日香に気づいていない。
「危ない!」
響は最後の力を振り絞って叫び、アスファルトを蹴った。彼の声は、降りしきる雨音にかき消されそうだった。だが、彼の耳には、未来の音が鳴り響いていた。あと三秒で衝突音。二秒でガラスの砕ける音。一秒で、彼女の悲鳴が現実になる。
間に合え。
彼は明日香の華奢な身体を突き飛ばし、その瞬間、凄まじい衝撃が彼の全身を貫いた。宙を舞う彼の意識の片隅で、銀の鈴が地面に落ちて、澄んだ、しかし最後の音を立てるのを聞いた。
次に目覚めた時、響は消毒液の匂いがする、真っ白な部屋にいた。隣には、涙の跡が残る顔で、明日香が静かに眠っていた。世界は、信じられないほど静かだった。車の走行音も、人々の話し声も、空調の作動音すらも、まるで厚いガラスを一枚隔てた向こう側のように、ぼんやりとしか聞こえない。
事故の衝撃で、彼の聴覚は、その呪われた鋭敏さを失っていたのだ。
「音の残響」はもう聞こえない。未来の悲鳴も、過去の囁きも。初めて手に入れた「静寂」に、彼は深い安堵を覚えた。もう、音の洪水に溺れることはない。しかし同時に、胸を締め付けるような、途方もない喪失感が彼を襲った。もう誰も救えない。世界と彼を繋いでいた唯一の歪んだ絆は、断ち切られてしまった。
その時、眠っていた明日香が身じろぎし、ゆっくりと目を開けた。彼女は響に気づくと、はにかむように微笑んだ。
「水無月さん……ありがとう」
彼女の声は、くぐもった世界の中で、不思議なほどはっきりと響の心に届いた。それは、どんな高性能なマイクでも拾うことのできない、ただ一人のために奏でられる、温かい和音だった。
呪いから解放された彼は、静寂の中で、初めて他人の声を本当の意味で「聴いて」いた。それは孤独の終わりであり、本当の世界との対話の始まりなのかもしれない。響は、明日香の手をそっと握り返した。彼の耳にはもう何も聞こえない。だが、心には、確かな温もりが響き渡っていた。