第一章 空白の始まり
深町湊が目を覚ました時、世界は奇妙なほど静かだった。カーテンの隙間から差し込む朝の光が、部屋の埃を金色に照らし出している。いつもなら、この光景は彼に鉛のような罪悪感を思い出させた。一年前のあの日も、こんな穏やかな朝だったのだ。恋人だった沙耶を、彼の不注意で失った、あの事故の日の朝と。
だが、今朝は違った。
胸の奥に澱のように溜まっていたはずの、あのどす黒い感情が見当たらない。思い出そうとしても、事故の瞬間の記憶は、まるで霧のかかった風景画のように輪郭がぼやけている。沙耶の最後の言葉も、彼女の苦悶の表情も、湊の心を抉っていたはずの鋭利な破片が、すべて丸みを帯びていた。悲しみがない。後悔がない。あるのは、ただ空虚な事実の認識だけだ。
「……なんだ、これ」
ベッドから起き上がり、湊は自分の胸に手を当てた。心臓は規則正しく鼓動しているが、その奥にあるはずの魂の重みが、驚くほど軽くなっていた。まるで、長年背負ってきた重荷を、眠っている間に誰かがこっそりと降ろしてくれたかのようだ。
安堵が、じわりと全身に広がった。この一年、湊はこの記憶のせいでまともに眠れず、グラフィックデザイナーの仕事も手につかなかった。友人からの連絡も避け、ひたすら薄暗いアパートの一室に引きこもる日々。だが、今なら。今なら、もう一度やり直せるかもしれない。
彼はキッチンに向かい、埃をかぶったコーヒーメーカーを動かした。豆を挽く軽快な音と、立ち上る香ばしい匂い。五感が、まるで分厚い壁の向こう側から帰ってきたかのように鮮明に感じられる。この感覚は久しぶりだった。彼は新しい朝を、新しい自分を、素直に受け入れようとしていた。
その時、ふと視界の隅に、何か黒いものが映った。リビングの壁、床との境目あたりだ。見間違いかと思うほど小さな、インクを零したような黒い染み。昨日まではなかったはずだ。
「カビか……?」
古いアパートだから仕方ないか、と彼は結論づけた。週末にでも掃除しよう。そう思いながら、淹れたてのコーヒーを口に運ぶ。苦味の奥に、確かな希望の味がした。彼はまだ気づいていなかった。その壁の染みが、彼の失われた悲しみと罪悪感の対価であることに。そして、その喪失が、安寧ではなく、もっと深い恐怖への入り口であることを。
第二章 侵食する影
湊の生活は、劇的に好転した。沙耶を失った記憶の呪縛から解き放たれた彼は、水を得た魚のように仕事に打ち込んだ。クライアントからの評価は高く、コンペで立て続けに勝利を収め、彼の名前は業界で再び注目され始めた。夜はぐっすりと眠れ、週末には旧友と酒を酌み交わす余裕すら生まれた。誰もが「昔の湊が戻ってきた」と喜んだ。湊自身も、そう信じていた。
しかし、日常の端々で、小さな亀裂が顔を覗かせ始めた。
「なあ湊、覚えてるか? 大学の頃、二人で徹夜して作ったあの自主制作映画」
飲み会の席で、親友の健太が懐かしそうに言った。湊はグラスを傾けながら、必死に記憶の引き出しを探った。だが、そこには何もなかった。健太と笑い合った夜も、カメラを回した情景も、まるで存在しなかったかのように空白だった。
「……悪い、ちょっと思い出せない」
「嘘だろ? お前の代表作じゃないか。あの時の情熱があったから、今のデザイナーのお前があるって、いつも言ってたじゃないか」
健太の呆れたような声が、やけに遠く聞こえた。
そんな出来事が、日に日に増えていった。子供の頃に熱中したゲームのタイトル。感動して何度も読み返したはずの小説の結末。好きだったはずの母親の得意料理の味。それらは全て、彼の頭の中から綺麗さっぱり消え去っていた。まるで、誰かが彼の過去を、都合よく編集しているかのようだ。
忘却は、不快な記憶だけを消し去るのではなかった。それは、何の変哲もない思い出や、楽しかった記憶までも、無差別に侵食し始めていた。彼の内面世界が、少しずつ、しかし確実に虫食い状態になっていく。
その変化と呼応するように、部屋の隅の黒い染みは、その面積を広げていた。最初は指先ほどの大きさだったものが、今や人の掌ほどの大きさにまでなっている。それはただの染みではなかった。じっと見つめていると、その黒が微かに揺らめき、まるで呼吸しているかのように脈打っているのが分かる。深い闇の奥から、何者かがこちらを覗き込んでいるような、底知れない気配。
湊は、その染みから目が離せなくなった。仕事から帰ると、まずその染みを確認するのが日課になった。それは日に日に濃くなり、ある夜、湊は見てしまった。染みの表面が、ゼリーのようにぶるりと震え、中から細い触手のようなものが一瞬だけ伸びて、すぐに引っ込んだのを。
「……っ!」
悲鳴にならない息を呑み、湊は後ずさった。心臓が氷水で満たされたように冷たくなる。これはカビなどではない。何かが、この部屋に、いや、彼のすぐそばに「いる」。
その日を境に、安寧は再び恐怖へと姿を変えた。彼が失った記憶は、どこへ行ったのか? まさか、あの黒い染みに「喰われ」ているのではないか? そのおぞましい想像が、彼の心を支配し始めた。
第三章 捕食者の肖像
恐怖に駆られた湊は、自分が何を失ったのかを確認するため、古いアルバムを引っ張り出した。ページをめくる指が、かすかに震えている。そこにいたのは、見覚えのある、しかし誰だか分からない女性だった。彼女は屈託なく笑い、湊の腕に寄り添っている。写真の中の自分は、見たこともないほど幸せそうな顔をしていた。
「沙耶……」
唇が、その名前をかろうじて記憶していた。だが、彼女に対する感情が、何も湧き上がってこない。愛おしさも、懐かしさも、そして、彼女を失ったはずの痛みさえも。目の前にいるのは、ただの「記録」であり、美しい「他人」だった。彼は、彼女を愛していたという事実そのものを、完全に忘却してしまっていた。
その事実に気づいた瞬間、背筋を凍てつくような悪寒が走った。忘れていたのは、事故の「辛い記憶」だけではなかったのだ。彼が望んだのは、苦しみからの解放だったはずだ。だが、その代償として差し出したのは、沙耶と過ごした幸福な時間、彼女という存在そのものだった。
「ああ……ああああ……っ!」
湊が膝から崩れ落ち、嗚咽を漏らしたその時。部屋の空気が、急に重くなった。びしり、と壁が軋む音。彼が振り返ると、信じられない光景が広がっていた。
壁の黒い染みが、液体のように蠢きながら、ゆっくりと床へと流れ落ちていた。それは床の上で形を成し、ぬらり、と立ち上がる。それは、人の形をしていた。だが、顔も、手足の指も、肌の色も、すべてが欠落している。ただ、人間の輪郭をなぞっただけの、真っ黒な影。まるで、多くの記憶を喰らいすぎて、その輪郭だけが肥大化したような、空っぽの存在。
それが「忘却喰らい」の正体だった。
影は、音もなく湊に一歩近づいた。目も口もないはずなのに、明確な「飢え」が湊に突き刺さる。こいつはまだ満たされていない。もっと喰らおうとしている。何を? 湊の中に残された、最後の欠片を。
影が、おぼろげな腕をゆっくりと持ち上げた。その指先が、湊の頭に向けられる。湊は金縛りにあったように動けなかった。影が狙っているものが、直感的に分かった。それは、湊がグラフィックデザイナーになった原点。幼い頃、初めてクレヨンを握り、画用紙いっぱいに拙い絵を描いた時の、あの純粋な喜びの記憶。それを喰らわれたら、自分はもう、自分でなくなる。ただ呼吸するだけの、抜け殻になってしまう。
恐怖が、一年ぶりに湊の全身を貫いた。それは沙耶を失った時の絶望とは違う、もっと根源的で、自己の存在そのものが消滅する予感を伴う、絶対的な恐怖だった。
第四章 不完全な肖像
影――「忘却喰らい」――が、じりじりと距離を詰めてくる。その存在が放つ冷気だけで、湊の思考は凍りつきそうだった。このままでは、喰われる。自分の存在意義も、両親との思い出も、この世界と自分を繋ぎとめている全ての糸が、この影に喰い尽くされてしまう。
逃げなければ。しかし、どこへ? この影は、湊自身の内側から生まれたものだ。彼が過去から目を背け、忘却を望んだ瞬間に。
絶望が喉元まで迫ったその時、湊の脳裏を、ある光景が稲妻のように駆け抜けた。それは、喰われずに残っていた、最後の記憶の断片だった。事故に遭う直前、沙耶が彼に言った言葉。
『湊の描く絵、好きだよ。不器用だけど、すごく優しいから』
その言葉。そうだ、沙耶は、俺の絵を好きだと言ってくれた。たとえ不器用でも、不完全でも、それが自分なのだと認めてくれていた。湊は、その不完全さから目を逸らし、辛い記憶ごと捨て去ろうとした。その結果が、この空っぽの怪物なのだ。
湊は気づいた。辛い過去も、苦しい記憶も、後悔も、罪悪感も、すべてが自分を形作る、かけがえのない一部なのだ。幸福な記憶だけを抽出して生きることなどできない。それら全てを抱えて、傷だらけのままで進むしかないのだ。それこそが、「生きる」ということなのだ。
「……お前に、これ以上は渡さない」
湊は、震える足で立ち上がった。彼は影に背を向け、部屋の隅に追いやられていた仕事机に向かう。そして、埃をかぶったスケッチブックと、一本の鉛筆を掴んだ。
「俺の記憶を……俺の人生を、返すんだ」
影がすぐ背後まで迫っている。その冷たい気配が首筋を撫でる。だが、湊はもう振り向かなかった。彼は、スケッチブックを開き、鉛筆を走らせ始めた。
何を描く? もう沙耶の正確な顔立ちは思い出せない。共に過ごした日々のディテールも、ほとんどが失われてしまった。だが、心の奥底に、焼け付くように残っているものがあった。彼女の笑顔。彼の絵を「好きだ」と言ってくれた時の、あの優しい眼差し。
鉛筆が、紙の上を滑る。線が引かれ、形が生まれていく。それは、写真のように精巧な肖像画ではなかった。輪郭は歪み、表情はおぼろげだ。多くの記憶を失った湊が描ける、不完全で、拙い肖像。しかし、その一本一本の線には、彼の失われた愛と、取り戻そうとする必死の祈りが込められていた。
描き終えた瞬間、背後にあった影の気配が、ふっと揺らいだ。湊がゆっくりと振り返ると、影は苦しむようにその輪郭を震わせ、そして、満足したかのように、あるいは敗北を認めたかのように、静かにその場に溶けていく。まるで、湊が描いた「不完全な記憶」を受け入れたかのように。影は再び壁の黒い染みへと戻り、それはまるで古い傷跡のように、静かにそこに在るだけだった。
部屋に、夜明けの静寂が戻ってきた。湊は、多くの記憶を失い、心には修復不可能なほどの巨大な空白を抱えていた。もう二度と、健太と映画の話で盛り上がることはないだろう。母の得意料理の味を思い出すこともないだろう。
しかし、彼の目には、以前のような絶望も、偽りの安寧もなかった。ただ、静かな光が宿っていた。手元のスケッチブックに描かれた、不完全な沙耶の肖像。それは失われた記憶の墓標であり、同時に、これから彼が歩むべき道を示す、たった一つの道標だった。
彼は空っぽになった自分を、これから新しい記憶と感情で、一つずつ満たしていくのだ。過去から逃げるのではなく、その傷跡と共に。湊は、不完全な肖像画をそっと撫でた。そして、新しい朝の光が差し込む窓の外を、まっすぐに見つめた。