忘れ音の家

忘れ音の家

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第一章 軋む記憶

夜の静寂を、古い家が軋む音が支配していた。水野蓮は、キーボードを打つ手を止め、耳を澄ませる。キィ…、キィ…。まるで、古びたロッキングチェアを誰かがゆっくりと揺らしているような、乾いた不協和音。しかし、この家にはそんな洒落た家具はない。あるのは、日に日に重くなる空気と、失われていく記憶の残骸だけだ。

「蓮、あなた、誰だったかしら」

階下から聞こえてくる母・聡子の声は、ひどく幼く、そして残酷なほど無垢だった。若年性アルツハイマー病。その診断が下されてから、世界の色は急速に褪せていった。聡明で、いつも向日葵のように笑っていた母は、もういない。そこにいるのは、過去と現在が混濁した海を漂う、迷子の子供のような女性だけだ。

蓮はイラストレーターになる夢を諦め、在宅のデータ入力で生計を立てながら母の介護をしている。終わりの見えない日々。焦燥感と無力感が、鉛のように肩にのしかかっていた。

その夜も、例の音が聞こえてきた。キィ…、と何かを細く、長く削り取るような音。蓮は、言いようのない胸騒ぎを覚えて階下へ降りた。聡子は、リビングの隅でぽつんと座り込み、虚空を見つめている。その手には、かつて蓮が誕生日にプレゼントした、星形のオルゴールが握られていた。彼女が何よりも大切にしていた宝物だ。

「母さん、そのオルゴール、鳴らしてみる?」

蓮が優しく声をかけると、聡子は不思議そうに首を傾げた。「これ、なあに?」。その言葉に、蓮の心臓が氷の塊で打たれたように冷たくなる。数日前まで、彼女はこのオルゴールのネジを巻き、『きらきら星』の旋律を口ずさんでいたはずだ。その思い出が、まるで最初から存在しなかったかのように、綺麗にくり抜かれている。

蓮は聡子の手からオルゴールを受け取り、ネジを巻いた。澄んだ金属音が、沈んだ空気に響き渡る。しかし、聡子の瞳には何の光も宿らない。彼女の中から、『きらきら星』は完全に消え失せていた。

その瞬間、蓮は悟った。あの軋む音は、ただの家鳴りではない。あれは、「何か」が母の大切な記憶を一つずつ削り取り、捕食していく音なのだと。この家には、蓮と聡子以外の、目に見えない何かが潜んでいる。その得体の知れない存在が、母の魂を少しずつ喰らっているのだ。背筋を、冷たい汗が流れ落ちた。

第二章 影の捕食者

恐怖は、日常の輪郭をじわりと溶かしていく。蓮は、家の隅々に注意を払うようになった。軋む音が聞こえるたびに、聡子の記憶がまた一つ、欠落していく。楽しかった家族旅行の思い出。得意だった肉じゃがのレシピ。蓮の幼い頃の愛称。それらは、分厚い本からページを破り取られるように、何の痕跡も残さず消えていった。

「蓮、どうしてそんなに険しい顔をしているの?」

時折、病の波が引き、聡子が昔のような穏やかな表情で問いかけることがあった。その一瞬の正気が、蓮をさらに苦しめた。この優しい母が、名状しがたい何かに内側から蝕まれている。その事実が、彼の心をやすりで削るように苛んだ。

蓮は抵抗を試みた。神社の御札を部屋中に貼り、清めの塩を家の四隅に盛る。しかし、そんな原始的な防衛策は、影の捕食者には何の効果ももたらさなかった。軋む音は止まず、聡子の記憶は失われ続ける。まるで、蓮の絶望を嘲笑うかのように。

ある雨の日の午後だった。薄暗いリビングで、うたた寝をしていた聡子の姿に、蓮は息を呑んだ。聡子の頭の周りに、陽炎のような、それでいて墨汁を水に垂らしたような黒い靄がまとわりついていたのだ。それは不定形で、輪郭も曖昧だったが、確かな意志を持って蠢いているように見えた。そして、靄の中心が聡子のこめかみに触れた瞬間、あの音が聞こえた。キィィ…。それは、捕食の音。生命の記録を啜る、冒涜的な響き。

「やめろ!」

蓮は、我を忘れて叫んでいた。椅子を蹴立てて駆け寄り、その黒い靄を払い除けようと腕を振るう。しかし、彼の手は空を切るだけだった。靄は実体を持たず、蓮の怒りや恐怖を意にも介さない。やがて、満足したかのようにすうっと壁の染みに吸い込まれ、消えていった。

跡には、ただ呆然と目を開ける聡子が残された。彼女は、自分の目の前に立つ息子が誰なのか分からない、という顔をしていた。

「母さんを……返せ…!」

蓮は、誰もいない空間に向かって呻いた。敵は確かに存在する。母を守るためなら、何でもする。たとえ、この身がどうなろうとも。彼の瞳に、憎悪と覚悟の入り混じった、暗い炎が燃え上がっていた。

第三章 忘れられた願い

怪物を祓う手立てを求めて、蓮は家中を狂ったように探し回った。古い書物、民俗学の本、オカルト雑誌。藁にもすがる思いで情報を漁るうち、彼は押入れの奥深く、桐の箪笥の引き出しから一冊の古びた日記を見つけ出した。それは、紛れもなく母・聡子の筆跡だった。

ページをめくると、病気の告知を受けた直後の、彼女の悲痛な叫びが綴られていた。

『私の頭の中に、消しゴムを持った泥棒が住み着いてしまった。大切なものが、一つずつ消されていく。蓮との思い出まで、いつか忘れてしまうのだろうか。それが何より怖い』

蓮は、胸が張り裂けるような思いで文字を追った。ページが進むにつれて、恐怖は別の感情へと変容していく。それは、蓮に対する深い、深い愛情と、自責の念だった。

『蓮に迷惑をかけたくない。あの子は自分の人生を生きるべきなのに、私のせいで翼を折られてしまった。日に日に醜く、愚かになっていく自分を、あの子に見せたくない。笑いかけても、名前を呼んでも、それが誰だか分からなくなるなんて、そんな母親でいたくない』

蓮の指が震え、涙が日記の上に染みを作った。彼は、母の苦しみの本質を、何も分かっていなかった。自分が辛いことばかりに気を取られ、母がどれほどの恐怖と絶望の中で、息子の未来を案じていたかに思い至らなかったのだ。

そして、最後の日付のページに、その言葉はあった。

『お願い。もし神様がいるのなら。私が、愛する息子にとっての「厄災」になってしまう前に。この苦しい記憶も、悲しい未来も、すべて消し去ってください。優しい母の思い出のまま、あの子の中にいさせて。お願い、この醜い私を、どこかへ連れて行って』

その最後の言葉を読み終えた瞬間。蓮の背後の闇が、ふっと深くなった。振り返ると、そこに「それ」はいた。あの黒い靄が、今度ははっきりとした人影に近い形をとって、静かに佇んでいる。しかし、もはやその姿におぞましさは感じられなかった。燃え盛っていた憎悪は、氷解するように消えていく。

あれは、怪物などではなかった。

あれは、母の切実な祈りが、その身を犠牲にするほどの愛情が生み出した、悲しみの化身だったのだ。母の魂が壊れてしまう前に、その苦痛の記憶だけを肩代わりするために現れた、名もなき守護者。蓮が「忘れ音」と心の中で名付けたその存在は、彼に襲いかかるでもなく、ただ静かに、眠る聡子の傍らに寄り添っていた。

蓮は、その場に崩れ落ちた。自分が戦おうとしていたのは、母自身の願いだった。追い払おうとしていたのは、母の最後の尊厳を守ろうとする、悲しい愛の形だったのだ。間違っていたのは、自分だった。母の病から、その苦しみから目を背け、見えない敵のせいにして憎むことで、自分の無力さから逃げていただけだった。

「ごめん…母さん…。ごめん…」

嗚咽が、静かな部屋に響き渡った。

第四章 最後の旋律

蓮は、戦うことをやめた。御札を剥がし、塩を片付けた。そして、静かに「忘れ音」の存在を受け入れた。それは、母の願いを、その運命のすべてを、真正面から受け入れるという覚悟の証だった。

それからの日々は、不思議なほど穏やかだった。蓮はもう、軋む音に怯えなかった。その音が聞こえるたび、彼は母がまた一つ、苦しみから解放されたのだと思うようにした。記憶を失い、まるで生まれたての赤子のように無垢になった聡子の手を握り、彼はただ優しく微笑みかける。

蓮は、机の引き出しの奥にしまい込んでいたスケッチブックと鉛筆を取り出した。諦めていた夢。母が忘れてしまったこの世界の美しさを、自分が代わりに記憶し、描き留めて、いつか見せてあげるために。彼の内側から、新たな創作意欲が、静かな情熱となって湧き上がってきた。

ある風の穏やかな日、蓮は聡子を車椅子に乗せ、思い出の海辺へと向かった。寄せては返す波の音。潮の香り。カモメの鳴き声。聡子は、もうここがどこなのかも、隣で微笑む青年が誰なのかも分かっていないようだった。ただ、心地よさそうに目を細めている。

蓮は、砂浜にイーゼルを立て、新しいキャンバスを置いた。そして、輝く海と、どこまでも広がる青い空を、夢中で描き始めた。母が見つめる世界を、自分のフィルターを通して、永遠に閉じ込めるように。

その時、潮風に乗って、あの音が聞こえてきた。キィ…、キィ…。

それはもう、恐怖を煽る不吉な軋みではなかった。それは、苦しみの記憶が昇華されていく鎮魂歌。すべてを失い、そしてすべてから解放された母と、そのすべてを背負い、未来へ向かって歩き出すことを決めた息子の、新しい始まりを告げる、静かで優しい旋律のように聞こえた。

一筋の涙が、蓮の頬を伝い、キャンバスの上に落ちた。しかし、彼の口元には、確かな笑みが浮かんでいた。介護に疲弊し、未来を呪っていたかつての青年の姿は、どこにもない。そこには、愛する人の悲しみと共に生きる強さと優しさを手に入れた、一人の表現者が立っていた。

忘れ音の家で、蓮はこれからも描き続けるだろう。失われた記憶の代わりに、尽きることのない愛と、切なさを乗り越えた先にある希望を、その一枚一枚に込めて。壁に映る彼の影は、以前よりもずっと濃く、そして大きく見えた。

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