第一章 歪んだ万華鏡
俺の視界は、常に濁っている。生まれた時から、この瞳は他者の心の奥底に潜む「原罪」を悍ましい像として映し出し、一度視たが最後、網膜に陽炎のように焼き付けてしまう呪われた代物だった。
街を歩けば、世界は歪んだ万華鏡だ。親しげに笑うパン屋の主人の肩には、捏ね損なった生地めいた肉塊が蠢いている。公園で砂遊びをする少女の背後には、翅のもげた蝶の死骸が幾重にも絡みついた小さな獣が蹲る。それらは対象の罪が深いほど、おぞましく歪み、腐臭のような幻嗅と共に俺の精神を静かに削り取っていく。
だから俺は、古書店の薄暗い静寂に逃げ込んだ。古紙の匂いと、死んだ作家たちの言葉だけが、俺の世界から忌まわしい幻影をわずかに遠ざけてくれる。
この世界には、もう一つの奇妙な法則があった。人々は皆、物心ついた頃から、己の「死後」の世界を夢に見続けるのだ。ある者は光溢れる天上の庭園を、ある者は業火に焼かれる奈落の底を。それは個々人の魂の在り様が映すものだと、誰もが漠然と信じていた。だが近年、その法則が狂い始めている。夢が、現実を侵食し始めたのだ。アスファルトの裂け目から、夢で見たという地獄の茨が芽吹き、誰かの夢見た天国の鳥が、現実の空をさえずりながら横切っていく。世界は緩やかに、しかし確実に、無数の夢に溶かされつつあった。
第二章 琥珀の囁き
その日、古書店の扉が軋み、一人の女性が入ってきた。ユナと名乗る彼女は、祖母の形見だという琥珀のブローチを鑑定してほしいと、カウンター越しに差し出した。
彼女を見上げた瞬間、息を呑んだ。彼女からは、あの悍ましい原罪の像がほとんど見えない。まるで磨き上げられた水晶のように、その魂は透き通っていた。この濁った世界で、そんな人間が存在するとは信じがたかった。
「お願いします」
差し出されたブローチに、俺は躊躇いがちに指を伸ばした。琥珀に触れた瞬間――激しい奔流が俺の意識を攫った。
知らない男の絶望。見知らぬ老婆の小さな喜び。裏切りの苦味と、赦しの温もり。無数の死者たちの感情が、洪水となって流れ込んでくる。琥珀の表面が揺らめき、見たこともない風景が次々と浮かび上がった。燃え盛る塔、静寂に沈む海底都市、星々が降り注ぐ草原。それは、このブローチが経巡ってきた、持ち主たちの「死後の夢」の断片だった。
「……大丈夫ですか?」
ユナの澄んだ声に、俺ははっと我に返る。額には脂汗が滲み、呼吸は浅く速かった。俺は慌ててブローチから手を離す。彼女が帰った後も、店の中には彼女がいた場所にだけ、夢の残滓が漂っていた。存在しないはずの潮の香りと、遠い鐘の音が、いつまでも消えなかった。
第三章 溶け出す境界
ユナの住む古い港町で、夢の侵食が加速しているという噂が俺の耳に届いたのは、それから数日後のことだった。建物が珊瑚のような奇妙な物質に覆われ、舗道には銀色の砂が積もり始めているという。
俺は、何かに引かれるようにして港町へと向かった。あのブローチが見せた強烈な幻覚と、ユナという存在の不可解な透明さ。その二つが、俺の中で分かち難く結びついていた。
港町は、噂以上に異様だった。街灯には発光する海藻が絡みつき、家々の屋根からは、滝のように燐光を放つ水が流れ落ちている。住民たちはそれを当たり前のように受け入れていた。彼らの見る夢が、この街の新たな現実として定着し始めていたのだ。
人波をかき分け、俺はユナの家を探し当てた。彼女は、窓辺で静かに海を眺めていた。彼女の周囲だけ、侵食の歪みが特に色濃い。壁には真珠色の鱗がびっしりと生え、床からは水晶の柱が突き出している。
「カイさん」
彼女は俺に気づくと、穏やかに微笑んだ。
「最近、よく声が聞こえるんです」
彼女は窓の外、灰色の空を見つめながら囁いた。
「『もうすぐ、目が覚める』って……。とても懐かしい声なんです」
第四章 原罪のプリズム
ユナの部屋で、彼女は自分の見る夢について語り始めた。果てしなく広がる灰色の平原。そこにぽつんと佇む、巨大な一本の枯れ木。そして、空を埋め尽くすほどの、無数の瞳。ただ、それだけの夢を、彼女は毎夜見続けているという。
その話を聞いている最中、世界が軋む音がした。
大規模な侵食が始まったのだ。部屋の壁が砂糖菓子のように溶け落ち、窓の外の港町の風景が、ユナの夢――灰色の平原に飲み込まれていく。足元の床が砂と化し、俺たちの周囲には、彼女が語った通りの荒涼とした世界が広がった。
その時、俺の視界に信じがたい変化が起きた。今まで俺の網膜に焼き付き、蠢いていた無数の原罪の像たちが、一斉に動きを止めたのだ。まるで絶対的な存在を前にしたかのように震え上がり、一つの方向へと引き寄せられていく。
プリズムを通過した光が収束するように、悍ましい像たちは溶け合い、混ざり合い、そして、ただ一つの巨大な「原罪の像」を形作った。
それは、ユナの背後に、そして俺自身の瞳の中に、陽炎のように立ち昇っていた。今まで見てきたどんな罪よりも巨大で、根源的で、深淵な罪の形。それは言葉にできないほどの後悔と孤独、何か計り知れないほど大切なものを「裏切った」という、純粋な痛みそのものの顕現だった。
俺は悟った。俺の瞳が映してきた無数の原罪は、他人のものではなかった。全てが、このたった一つの根源的な罪からこぼれ落ちた、哀れな断片に過ぎなかったのだ。
第五章 目覚めの声
灰色の平原に立つ、巨大な枯れ木の根元に俺とユナはいた。空に浮かぶ無数の瞳が、静かに俺たちを見下ろしている。
やがて、あの「声」が、今度は世界そのものを震わせるように響き渡った。
『許しておくれ。私が、全てを間違えたのだ』
声と共に、ユナがゆっくりと俺に向き直る。彼女の顔が、輪郭を失い、ゆっくりと変容していく。それは老賢者のようでもあり、無垢な幼子のようでもある。性別も年齢も、あらゆる定義を超越した、根源的な存在の顔だった。
「あなたは、私の罪を映す最後の鏡」
ユナだったものの唇が、静かに動く。
「私がこの永い夢から覚めるために用意した、最後の道標」
その存在は語り始めた。この世界は、始まりの時にたった一つ、愛する存在を裏切り、永遠の孤独を選んだ「最初の存在」が見ている、贖罪のための夢なのだと。俺たちが当たり前のように見ていた「死後の夢」とは、夢の主が抱えきれない後悔と悲しみが、登場人物である俺たちに投影されたものに過ぎなかった。
そして、俺のこの呪われた瞳は、夢の主が自らの罪から目を逸らさないために創り出した、夢の世界の安全装置。罪の欠片を絶えず映し出すことで、夢が偽りの安寧に沈んでしまわぬようにするための、楔だったのだ。
第六章 虚夢のレクイエム
『私はもう一度、やり直したい』
声が告げる。それは決意の響きを帯びていた。
『この孤独な夢から覚め、私が犯した罪と、そして私が裏切ったものと、もう一度向き合うために』
世界の終わりが始まった。しかしそれは、絶叫や破壊を伴うものではなかった。灰色の平原が足元から光の粒子に変わり、空を埋め尽くしていた無数の瞳が、一つ、また一つと瞼を閉じていく。全てが、あるべき場所――始まりの虚無へと還っていく、荘厳な「覚醒」の儀式だった。
その光景の中で、俺の網膜にこびりついていた悍ましい原罪の像たちが、乾いた皮膚のように、次々と剥がれ落ちていった。視界から濁りが消え、色が、光が、そのあるがままの姿で瞳に飛び込んでくる。生まれて初めて見る、汚されていない純粋な世界の色だった。
目の前で、ユナの姿を借りた夢の主の輪郭が薄れていく。その存在は、最後に穏やかに微笑んだ。
「ありがとう、鏡の番人。あなたの瞳のおかげで、私はやっと帰れる」
その言葉を最後に、存在は光の中に溶けて消えた。
独り残された俺は、ふと、自らの瞳に映るものを意識する。そこに悍ましい像はもうない。ただ、全てが消えゆくこの美しい終末を映す、静かな水面があるだけだった。俺自身の原罪とは、この贖罪の夢が続く限り、その鏡として存在し続けること、それ自体だったのかもしれない。
やがて、最後の光が俺を包み込む。意識が溶けていく間際、俺は、夢の主が犯した深淵の孤独と、その永い夢の終わりを告げるための静かなレクイエムを、確かに聴いていた。