残響のゆりかご

残響のゆりかご

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第一章 静寂の侵食

水島蓮(みずしま れん)は、恐怖という感情を知らなかった。先天的な扁桃体の機能不全。医師は幼い彼にそう告げた。それは呪いであると同時に、ある種の祝福でもあった。彼はジェットコースターの最前列で笑い、お化け屋敷の幽霊役を質問攻めにし、凶悪事件のニュースを、天気予報と同じ凪いだ心で眺めることができた。だがその代償に、他人が何に怯え、何に震えるのかを、彼は生涯理解できない運命にあった。人々の顔に浮かぶ恐怖の表情は、彼にとって未知の言語で書かれた難解な数式に等しかった。

そんな彼が新しい住処として選んだのは、都会の片隅に忘れられたように佇む、古い木造アパート「月影荘」だった。決め手は、都心とは思えないほどの破格の家賃と、窓から見える老木の鬱蒼とした緑。それだけだった。

入居初日、隣の部屋の老婆が、皺だらけの手で握った煎餅を差し出しながら、低い声で言った。

「お若い方。一つだけ、忠告させてもらうよ。一番奥の104号室、あの部屋には、決して近づいちゃいけない」

老婆の瞳の奥には、蓮が読み解くことのできない、暗く澱んだ光が揺らめいていた。恐怖、というのだろうか。蓮は興味深くその表情を観察しながら、礼儀正しく頭を下げた。

その夜、事件は起きた。蓮が荷解きを終え、静寂の中で読書に没頭していると、どこからか奇妙な音が聞こえてきたのだ。それは壁の向こうから、床下から響いてくるようだった。キィ、キィ、と爪で木の板を引っ掻くような、乾いた音。時折、くぐもった囁き声のようなものも混じる。

蓮は本を閉じ、音の出所を探った。音は明らかに、老婆が警告した104号室の方角から聞こえてくる。他の住人の部屋はしんと静まり返っている。まるで、誰もが息を殺してその音に耐えているかのようだ。

蓮の胸を高鳴らせたのは、恐怖ではなかった。それは純粋な、ほとんど科学的な好奇心だった。この不可解な音響現象の正体は何だろう。建材の軋みか、ネズミの立てる音か、あるいは配水管を伝わる水音の反響か。彼はノートを取り出し、音の特徴を冷静に書き留め始めた。

――周期性、不規則。高音域の引っ掻き音と、低音域の呻き声のような響き。

蓮にとって、月影荘の怪異は、解き明かすべき魅力的なパズルに過ぎなかった。彼はまだ知らなかった。そのパズルが、彼の空っぽだった心に、決して望むことのなかった感情を刻み込むことになるということを。

第二章 不協和音の誘惑

月影荘での日々が過ぎるにつれ、104号室から聞こえる音は、蓮の日常の一部となった。他の住人たちが、夜ごと響く不協和音に憔悴し、目の下に濃い隈を作っていくのを、蓮は興味深く観察した。彼らは廊下で会うと、互いに目配せをし、忌まわしい部屋について囁き合った。「また昨夜も」「声が近くなっている気がする」「誰かが啜り泣いていた」。彼らの顔には、蓮が最も理解しがたい感情、恐怖がくっきりと浮かんでいた。

蓮は、その感情の正体を知りたくて、調査を開始した。彼は図書館に通い、この土地の古い地図や新聞記事を漁った。月影荘が建てられる前に、ここには何があったのか。過去にどんな事件が起きたのか。しかし、特筆すべき記録は見つからなかった。

「無駄だよ」

ある日、階段ですれ違った若い男が、蓮の探求心を見透かしたように言った。

「あの部屋は、理屈じゃないんだ。あそこは『飢えて』いる。人の恐怖を喰らって、生きているんだ」

男はそう言うと、青白い顔で足早に去っていった。

恐怖を喰らう? 蓮にはまるで意味が分からなかった。感情がエネルギー源になるというのだろうか。非科学的で、荒唐無稽な仮説だ。だが、その言葉は奇妙に彼の心に引っかかった。

音は、日に日にその性質を変えていった。単なる不気味な物音ではなく、明確な意志を持っているかのように、蓮に語りかけてくるようになった。ある夜は、母親が幼子をあやすような優しい鼻歌に聞こえた。またある夜は、恋人を待ちわびる乙女の、切ない吐息のようにも聞こえた。

それは、蓮を誘っているようだった。恐怖を感じない、異質な彼を。

蓮は気づき始めていた。この現象を解明することは、単なる知的好奇心を満たすだけではない。もしかしたら、自分が生涯感じることのできない「恐怖」という感情の輪郭を、間接的にでも理解できるのではないか、と。あの部屋の謎を解いた時、自分もまた、隣人たちと同じ言語を話せるようになるのではないか。そんな淡い期待が、彼の胸の中で静かに芽生え始めていた。

音はもはや、彼にとって不快な騒音ではなかった。それは、彼が人間性を理解するための、甘美で危険な誘惑の旋律と化していた。

第三章 共鳴する絶望

その夜は、窓ガラスを激しく叩きつける、嵐だった。雷鳴が轟くたびに、古いアパートが悲鳴のように軋む。そして、104号室の「音」は、クライマックスを迎えていた。

もはや引っ掻く音でも、囁き声でもない。それは、言葉にならない、純粋な感情の奔流だった。悲しみ、怒り、後悔、そして、どうしようもないほどの渇望。様々な感情が混ざり合い、一つの巨大な叫びとなって、アパート全体を震わせている。他の住人たちは、恐怖のあまり部屋に閉じこもり、耳を塞いでいるだろう。

しかし、蓮は違った。彼はその音の前に、ただ一人、静かに立っていた。その音は、彼がこれまで耳にしたどんな音楽よりも複雑で、荘厳で、そして悲しく響いた。彼は、この音の正体を、この目で見届けなければならないと確信していた。

蓮は、まるで夢遊病者のように廊下を歩き、104号室の前に立った。冷たい真鍮のドアノブは、彼の汗ばんだ手の中で奇妙なほど熱を帯びているように感じられた。彼はゆっくりと、しかし迷いなく、ノブを回した。

軋むような音を立てて、ドアが開く。

そこに広がっていたのは、ただの空虚だった。窓はなく、家具もなく、人の気配もない。ただ、四角く切り取られた、埃っぽい闇が広がっているだけ。音も、ぴたりと止んでいた。

拍子抜けしながらも、蓮は部屋の中へと一歩、足を踏み入れた。その瞬間だった。

世界が、反転した。

彼の全身を、今まで経験したことのない、凄まじい感覚が貫いた。それは痛みではなかった。熱でも、寒さでもない。それは、情報だった。純粋な、剥き出しの感情の洪水。

部屋は、住人たちの恐怖を糧としていた。何十年もの間、人々の恐怖を吸い上げ、その存在を維持してきたのだ。しかし、恐怖を持たない蓮が部屋に入ったことで、生態系が崩れた。部屋は初めて「飢餓」を覚えた。蓮から糧を得ようとするが、そこには吸い上げるべき恐怖がない。

だから部屋は、代わりのものを求めた。蓮の中にあった、恐怖に最も近い、しかし全く異なる感情。それは、他者を理解できないことからくる、底なしの「孤独」。そして、他者と繋がりたいという、痛切なまでの「切望」。

部屋はその感情を、乾いたスポンジが水を吸うように吸収し、そして、これまで蓄積してきた全ての糧――無数の人々の絶望的な恐怖、救いのない悲しみ、取り返しのつかない後悔――を何千倍にも増幅させ、蓮の精神に叩きつけたのだ。

蓮の脳裏に、映像が流れ込む。

戦火の中、幼い我が子を失った母親の絶叫。

愛する人に裏切られ、自ら命を絶った若い女の怨嗟。

犯した罪に苛まれ、暗い部屋で一人朽ちていった老人の後悔。

何十人、何百人、何千人もの、名もなき人々の、救われなかった魂の叫び。

「怖い」という単純な言葉では到底表現できない、人間の感情の最も暗く、重い澱。それが、何のフィルターも通さずに、蓮の空っぽだった心へと、濁流のように流れ込んできた。彼は生まれて初めて、他者の心を「理解」した。それは、彼の精神が砕け散るほどの、あまりにも暴力的な共感だった。

第四章 残響のゆりかご

どれほどの時間が経ったのか。蓮は、自分が104号室の前の廊下に倒れていることに気づいた。頬を伝う冷たい雫に触れ、それが自分の涙であることを知った。彼は生まれて初めて、泣いていた。

嵐は過ぎ去り、静寂がアパートを支配していた。あの、心をかき乱すような「音」は、完全に消え失せていた。

蓮は、おぼつかない足取りで立ち上がった。世界が、昨日までとは全く違って見えた。壁の染み、床の傷、それら全てに、誰かの生きた時間の重みが宿っているように感じられる。

その時、隣の部屋のドアがそっと開き、あの老婆が顔を覗かせた。彼女は蓮の姿を見ると、驚いたように目を見開いた。彼女の顔には、いつもの怯えだけでなく、深い安堵の色が浮かんでいた。

蓮は、老婆の顔を見た。その深い皺の一本一本に、彼女がこれまで抱えてきたであろう長年の恐怖と、孤独と、悲しみの物語が刻まれているのが、手に取るように分かった。それは論理的な理解ではなかった。彼の心に直接流れ込んできた、何千もの絶望の残響が、彼女の感情と共鳴しているのだ。

「音が……止んだねぇ」

老婆が、震える声で言った。

蓮は何も答えず、ただ、静かに頷いた。そして、彼の口から、自分でも予期しなかった言葉がこぼれ落ちた。

「……寂しかったんですね」

その言葉に、老婆の瞳が大きく揺らぎ、やがて一筋の涙が皺だらけの頬を伝った。

蓮は恐怖を感じたわけではない。おそらく、生涯感じることはないだろう。しかし彼は、恐怖の奥にある、もっと根源的な感情――孤独、悲しみ、喪失――を知ってしまった。それは、恐怖よりもずっと重く、深く、そして、ある意味では温かいものだった。

蓮は月影荘を出て行かなかった。

104号室は、沈黙を守っている。部屋は蓮から得た「孤独」と「切望」という新しい糧を得て、今は静かに満たされているのかもしれない。あるいは、無数の魂の叫びを一身に受け止めた蓮自身が、新しい「部屋」になったのかもしれない。

夜、蓮は壁に耳を当てる。もう、あの不気味な音は聞こえない。だが、耳を澄ませば、心の奥で、今も無数の感情の残響が微かに聞こえる気がした。それは、彼が決して孤独ではないという証。彼が初めて手に入れた、他者との歪で、しかし確かな「繋がり」。

恐怖を知らない男は、恐怖の巣窟で、人間だけが抱える深い哀しみを知った。それは彼にとって、呪いか、それとも祝福か。答えはまだ、出そうになかった。彼はただ、その残響をゆりかごのように抱きしめながら、静かな夜を生きていく。

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