恐怖の調律師

恐怖の調律師

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第一章 腐った果実の味

俺、水無瀬響(みなせひびき)には、生まれついての呪いがある。他人の恐怖を、「味」として感じてしまうのだ。

満員電車で痴漢に怯える女性の恐怖は、舌を刺すような酸っぱいレモンの味。締め切りに追われる編集者の焦りは、焦げ付いた砂糖の苦い味。そして、夜道で何者かの気配に竦む学生のそれは、冷たい鉄の味がした。この能力のせいで、俺は人混みを避け、他人と深く関わることを諦めて生きてきた。感情の洪水は、どんなご馳走よりも俺の味覚を麻痺させ、心を疲弊させるからだ。

だから俺は、街の片隅にある古書店で、静かに本の埃とだけ向き合う日々を選んだ。ここならば、物語の中の架空の恐怖が、微かに紙魚(しみ)の味として漂うだけ。平穏だった。少なくとも、あの味が街に満ち始めるまでは。

最初に感じたのは、一ヶ月ほど前。夜、店を閉めてアパートに帰る途中だった。ふわりと鼻先を掠めたのは、熟れすぎて腐りかけた果実のような、甘く、それでいて不快な匂いを伴う「味」だった。それは誰か一人の恐怖ではない。霧のように、街の特定のエリアに漂っているのだ。その味は、じわりと舌の上に広がり、脳髄を痺れさせるような奇妙な陶酔感があった。今まで味わったどんな恐怖とも違う、濃密で、複雑で、そしてどこか「美味い」と感じてしまう、背徳的な味だった。

その味が現れてから、街では奇妙な失踪事件が立て続けに起こり始めた。最初は一人、また一人と、まるで神隠しにでもあったかのように人々が消えていく。警察は捜査しているようだが、手掛かりは一切ない。共通しているのは、失踪者が皆、強いストレスや悩みを抱えていたということだけ。

俺は確信していた。この失踪事件と、あの腐った果実の味には、間違いなく関係があると。恐怖を味わうだけの傍観者でいるはずだった俺の日常は、その抗いがたい「味」の源を探したいという、抑えきれない衝動によって静かに侵食され始めていた。それは、美食家が未知の食材を求めるのに似た、呪われた好奇心だった。

第二章 蒐集家の部屋

腐った果実の味は、日増しにその輪郭をはっきりとさせていった。俺は仕事が終わると、味の源流を辿るように夜の街を彷徨った。味は、古い木造アパートが密集する、再開発から取り残されたような一角で最も強くなる。まるで、そこにある一点から滲み出しているかのように。

その中心にあったのは、蔦に覆われた二階建てのアパート『月影荘』だった。中でも二階の角部屋、二百三号室の扉の前で、味は極限まで濃くなった。熟れきった果実の甘い腐臭が、口の中いっぱいに広がる。俺は唾を飲み込み、錆びついたドアノブに手を伸ばしかけて、寸でのところで思いとどまった。これは危険すぎる。俺の本能が警鐘を鳴らしていた。

数日間、俺は月影荘を見張った。二百三号室の住人は、榊(さかき)と名乗る老人だった。陽の光を避けるように猫背で歩き、ほとんど誰とも口を利かない。だが、その全身からは、常に微弱ながらも、あの質の高い恐怖の味が漏れ出ていた。まるで、極上のスパイスを身に纏っているかのように。

俺は榊を失踪事件の犯人だと疑った。あの部屋で、彼は何人もの人間を手にかけ、その恐怖を啜っているのではないか。想像しただけで、背筋に氷を流し込まれたような悪寒が走ると同時に、喉がごくりと鳴った。最低だ。俺は自分の醜い本性に吐き気を催した。

ある雨の夜、俺は決意を固めた。榊がゴミ出しに階下へ降りた、ほんの数分の隙。俺はマスターキー代わりに持ち歩いていた針金で、古びた錠前をこじ開けた。心臓が早鐘を打ち、自分の恐怖がしょっぱい汗の味となって口内に広がる。

軋む音を立てて開いた扉の先は、闇だった。湿った空気と共に、あの甘い腐臭が奔流となって俺に襲いかかった。あまりの濃密さに眩暈がする。俺は壁伝いにスイッチを探し、明かりを点けた。そして、息を呑んだ。

部屋は、蒐集家のそれだった。ただし、集められていたのは切手や骨董品ではない。天井から、壁から、ありとあらゆる場所から、無数の「風鈴」が吊るされていたのだ。ガラス製、鉄製、陶器製。形も大きさも様々だが、その全てが静かに沈黙を守っている。窓は固く閉ざされ、風の入る隙間もない。それなのに、部屋全体がまるで巨大な楽器のように、不気味な緊張感を孕んで鳴り響くのを待っているようだった。そして、あの「味」は、間違いなくこの無数の風鈴から発せられていた。

第三章 風鈴の鎮魂歌

俺が呆然と立ち尽くしていると、背後で静かに扉が閉まる音がした。振り返ると、榊が立っていた。その手には濡れた傘が握られ、皺深い顔には何の感情も浮かんでいない。

「人の家に無断で入るとは、感心せん若者じゃな」

その声は、枯れ木が擦れるように乾いていた。俺は完全に不意を突かれ、言葉を失った。弁解のしようもない。だが、榊は俺を責めるでもなく、ゆっくりと部屋の中に入ると、一つの風鈴を指差した。

「それに触ってみなさい」

それは、青い切子ガラスの風鈴だった。俺は言われるがまま、恐る恐る指を伸ばす。ガラスに触れた瞬間、俺の脳内に、激しい怒声と暴力の光景が流れ込んできた。父親に虐待される少女の、身を切るような恐怖。舌の上で、錆びた鉄と塩辛い涙の味が爆ぜる。

「うっ…!」

思わず後ずさる俺を見て、榊は静かに言った。

「お主、“視える”のじゃな。いや、“味わえる”のか」

榊は全てお見通しだった。彼は俺の能力に気づいていたのだ。混乱する俺をよそに、彼は別の、陶器でできた歪な風鈴をそっと撫でた。

「これは、借金取りに追われていた男の恐怖。これは、病気の我が子の死を恐れた母親の絶望。わしはな、この街に澱む『恐怖』を刈り取り、この風鈴に封じ込めておるのじゃ」

彼の言葉が、雷鳴のように俺の頭を打ち抜いた。犯人じゃなかった。榊は、サイコパスの殺人鬼などではなかった。彼は、俺とは違うやり方で、人々の恐怖と向き合っていたのだ。

「失踪した人たちは…?」

「恐怖を根こそぎ抜かれた人間は、抜け殻になる。感情の錨を失い、目的もなく、ふらりとどこかへ消えていくだけじゃ。わしは彼らを救ったつもりじゃよ。恐怖は人を蝕み、狂わせる猛毒じゃからの。それを浄化するのが、わしの役目だ」

榊は、ゆっくりと窓を開けた。夜風が部屋に流れ込み、大小様々な風鈴が一斉に鳴り響き始めた。チリン、チリン、チリンチリン…。それは鎮魂歌(レクイエム)のようであり、同時に、何百人もの絶叫が重なり合った地獄の合唱のようでもあった。

風鈴から解き放たれた純粋な恐怖のエッセンスが、濁流となって部屋を満たす。腐った果実、焦げた砂糖、錆びた鉄、酸っぱいレモン…ありとあらゆる恐怖の味が混ざり合い、俺の味覚を、精神を、容赦なく蹂躙した。これが、俺が「美味い」と感じていた味の正体。精製され、凝縮された、純度百パーセントの恐怖。俺はあまりの情報の奔流に意識を失いかけ、その場に崩れ落ちた。

第四章 毒を味わう者

どれくらいの時間が経ったのか。俺が意識を取り戻した時、風鈴の音は止み、部屋には静寂が戻っていた。窓は固く閉ざされ、榊が淹れてくれたらしい、温かいほうじ茶の香ばしい匂いがした。

「気分はどうかね」

榊は静かに俺を見ていた。その瞳の奥に、長い年月をかけて恐怖と向き合ってきた者だけが持つ、深い諦観と、微かな憐れみが浮かんでいた。

俺は起き上がり、尋ねた。

「なぜ、こんなことを…」

「わしにも、お主と似たような力があった。触れた相手の恐怖を、痛みとして感じてしまう。あまりの痛みに耐えきれず、わしはそれを吸い取り、封じ込める術を編み出した。これはわしにとっての鎮痛剤であり、呪いへの抵抗なのじゃ」

彼の行為は、善意から始まったのかもしれない。だが、その結果はあまりにも歪んでいた。恐怖を失った人間は、もはや人間なのだろうか。喜びや愛しみといった感情も、恐怖という裏地があってこそ輝くのではないか。榊のやっていることは、救済ではなく、魂の略奪に思えた。

「それは、間違っている」俺は言った。「恐怖を取り除くだけじゃ、ダメなんだ」

「では、どうしろと? 毒に蝕まれて死んでいく者たちを、ただ見ていろと?」

榊の問いが、俺の胸に突き刺さる。傍観者でいるだけだった俺に、彼を断罪する資格はない。

俺は自分の手のひらを見つめた。この呪われた能力。他人の恐怖を味わうだけの、役立たずの感覚。だが、本当にそうだろうか。榊が恐怖を「痛み」として感じ、排除しようとしたのに対し、俺はそれを「味」として感じ、その質や機微を理解できる。それはつまり、ただ取り除くのではなく、その恐怖と向き合い、付き合っていくための手掛かりを掴めるということじゃないのか。

毒も、使い方によっては薬になる。

俺の中に、一つの決意が芽生えた。それは、暗闇の中で見つけた、か細い一筋の光だった。

「俺がやります」

「…なにをじゃ」

「調律です」俺は顔を上げ、まっすぐに榊を見据えた。「あなたのやり方は、弦を断ち切るようなものだ。俺は、張り詰めすぎた弦を、少しだけ緩める。人が壊れてしまわない程度に、危険な恐怖だけを俺が『味わう』。毒見役ですよ。そうすれば、人は恐怖を乗り越える力を失わずに済む」

榊は驚いたように目を見開き、やがて、ふっと息を漏らして笑った。それは、何十年ぶりかに心から笑ったかのような、乾いた、しかし優しい笑いだった。

「毒を味わう者か…。面白い。わしよりも、よほどいばらの道じゃな」

それから、俺たちの奇妙な共犯関係が始まった。榊は街に潜む危険な恐怖の在り処を探し出し、俺はその場所へ向かう。

数日後、俺は夜の公園のベンチで、一人泣いている少女を見つけた。彼女からは、迷子になった子犬を探す不安と、暗闇への原始的な恐怖が、ツンと鼻を突くミントのような味となって漂っていた。強すぎる恐怖は、子供の心を簡単に折ってしまうだろう。

俺はそっと隣に座り、彼女の恐怖を、一口だけ「味わった」。

ひんやりとした、しかしどこか清涼感のある味が舌に広がる。俺がその味をゆっくりと飲み下すと、少女の強張っていた肩からふっと力が抜けた。彼女は涙を拭うと、俺を見て、少しだけ安心したように微笑んだ。

俺が味わった恐怖は、決して「美味く」はなかった。苦く、冷たく、そして切ない味がした。だが、その味の奥に、少女が子犬を想う、温かい心の感触があった。

俺は立ち上がり、夜の街へと歩き出す。この街から恐怖が消えることはないだろう。それでいい。俺は恐怖の調律師だ。この呪われた舌で、人の心の音色を、ほんの少しだけ、優しいものに変えていく。それは果てのない、孤独な戦いの始まりだった。だが、不思議と心は軽かった。腐った果実の甘い誘惑ではなく、確かな手応えのある苦味が、俺の生きる意味を教えてくれている気がした。

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