第一章 消えた香り
その日、俺の世界から早乙女美咲の香りが消えた。
朝、目を覚ましたとき、隣に彼女の温もりはなかった。いつもなら、甘いフローラル系のシャンプーの香りと、彼女自身の肌が持つ陽だまりのような温かい香りが混じり合って、俺の覚醒を優しく促してくれるはずだった。しかし、今朝の空気は空虚で、まるで殺菌された病室のように無味無臭だった。
「美咲?」
呼びかけても返事はない。リビングへ向かうと、そこには更に信じがたい光景が広がっていた。彼女が愛用していたマグカップも、ソファに置きっぱなしだった刺繍の道具も、本棚に並んでいた文庫本の数々も、すべてが綺麗さっぱり消え失せていた。まるで、最初からこの部屋に「早乙女美咲」という人間が存在しなかったかのように。
パニックに陥りかけた俺の鼻腔を、微かな香りが掠めた。それは、古びた鉄が雨に濡れたときのような、鋭く、そして物悲しい香り。――恐怖の香りだ。
俺、倉田湊には、奇妙な共感覚がある。他人の強い感情を、「香り」として嗅ぎ取ってしまうのだ。喜びは焼きたてのパン、悲しみは湿った土、そして怒りは焦げたゴムのような香りとして俺の世界を彩る。それは祝福であると同時に、呪いでもあった。人混みは感情の濁流となって俺を消耗させ、多くの嘘が放つ腐った果実の甘ったるい匂いに、何度も人間不信に陥りかけた。
そんな俺の世界で、美咲だけが唯一、春のそよ風のように穏やかで心地よい香りを放つ存在だった。彼女の愛情は、いつも温かいミルクティーの香りがした。
警察に駆け込んでも、彼らは取り合ってくれなかった。部屋に争った形跡はなく、置き手紙の一つでもあれば家出として捜索願を受理できるが、と事務的な口調で言われただけだ。彼らからは、面倒事を押し付けられたことに対する「苛立ちの香り」がぷんぷんと漂ってきて、俺は早々に警察署を後にした。
誰も信じてくれない。だが、俺だけは知っている。この部屋には、確かに彼女の恐怖が染み付いている。美咲は自らの意思で消えたのではない。何者かによって、消されたのだ。
俺は決意した。この鼻だけが頼りだ。彼女が最後に残した「恐怖の香り」の痕跡を辿り、必ず美咲を見つけ出す。俺の呪われた能力が、初めて誰かを救うための力になるのかもしれない。そう思うと、胸の奥で、錆びた鉄の香りに混じって、ごく僅かな「希望の香り」――若葉が芽吹くときのような、青々しい香りが立ち上るのを感じた。
第二章 歪んだ揺り籠
美咲の痕跡を追う調査は、奇妙な壁にぶつかり続けた。彼女の職場を訪ねても、親友だという女性に会っても、誰もが口を揃えて「最近の彼女は少し様子がおかしかった」と言うばかり。具体的な情報は何も得られない。だが、俺の鼻は別の事実を告げていた。彼らから一様に漂ってくるのは、「困惑」と、そして奇妙な「憐れみ」の香りだった。まるで、壊れ物を扱うかのように俺を見るその視線。湿った落ち葉のようなその香りは、俺の疑念をさらに深いものにした。
「そういえば美咲さん、最近『揺り籠の会』というのに熱心でしたよ」
彼女の同僚の一人が、ぽつりとそう漏らした。それは、心の平穏と自己実現を謳う自己啓発セミナーのようなものだという。公式サイトには、代表である影山という男の穏やかな笑顔と、参加者たちの満ち足りた表情が並んでいた。だが、そのウェブサイト全体から、俺は微かな違和感を嗅ぎ取っていた。人工的な芳香剤のような、薄っぺらで甘すぎる「欺瞞の香り」だ。
ここだ。ここに美咲の失踪の鍵がある。
俺は指定された住所にある、古びた洋館を改装したセミナーハウスを訪ねた。重厚な扉を開けると、ラベンダーのアロマが焚きしめられた空間に、十数人の男女が静かに瞑想していた。その中心に、影山がいた。
「倉田湊さん、ですね。お待ちしていました」
影山は、まるで俺が来ることを予期していたかのように、静かに立ち上がった。年の頃は四十代半ば。白髪交じりの髪を後ろで束ね、僧侶のような静謐な雰囲気を纏っている。しかし、俺が彼から嗅ぎ取った香りは、これまで経験したことのないものだった。それは、香りがない、という香り。完全な無臭。感情の真空地帯。まるで、深い洞窟の奥底に広がる、光も音も届かない絶対的な「静寂」そのものだった。
「美咲はどこです。あなたが彼女を?」俺は焦りから、詰問するような口調になる。
影山は表情一つ変えず、静かに首を横に振った。「彼女は自らの意思で、安息の地にいます。あなたから、逃れるために」
「逃れる?俺から?」意味が分からなかった。俺たちがどれほど愛し合っていたか。彼女が放つ温かいミルクティーの香りが、その証だったはずだ。
「あなたの『愛』は、彼女にとって檻だったのですよ」
影山の言葉は、冷たい刃のように俺の胸に突き刺さった。彼の周りにいる会員たちから、再びあの「憐れみの香り」が立ち上る。彼らは皆、俺を知っている。俺の何かを、知っている。
この場所は、何かがおかしい。美咲は洗脳されているに違いない。影山という男が、その穏やかな仮面の裏で、人々を巧みに操っているのだ。俺の中で「怒り」の焦げたゴムの香りが、「疑念」の腐った果実の香りと混じり合い、強烈な悪臭となって渦を巻き始めた。俺は必ず、この欺瞞の揺り籠から美咲を救い出してみせる。
第三章 執着の正体
「彼女に会わせましょう。ですが、一つだけ条件があります。あなたの感情を、可能な限り鎮めること。それが、彼女のためでもあるのです」
影山の言葉を、俺は罠だと断じた。だが、美咲に会うためには従うしかなかった。俺は必死に深呼吸を繰り返し、渦巻く感情の嵐を心の底に押し込める。影山はそんな俺の様子を静かに見つめ、やがて頷くと、洋館の奥にある一室へと俺を導いた。
扉を開けると、そこに美咲がいた。窓辺の椅子に座り、穏やかな表情で庭の木々を眺めている。痩せた様子も、怯えた素振りもない。むしろ、ここ数ヶ月の彼女よりもずっと、安らいで見えた。
「美咲!」
俺が駆け寄ろうとした瞬間、彼女はこちらを振り返った。そして、俺の鼻は、信じられない香りを捉えた。
それは「恐怖」ではなかった。「悲しみ」でもない。彼女から漂ってきたのは、深く、そしてどこか物悲しい、雨上がりの森の香り。――純粋な「憐憫」の香りだった。俺に対して向けられた、慈しむような、そして諦観に満ちた香り。
「湊くん……」彼女の声は震えていた。「ごめんなさい。でも、もう限界だったの」
何が、と問う前に、影山が静かに口を開いた。
「倉田さん、あなたの能力は、他人の感情を嗅ぎ取るだけのものではありません。より正確に言えば、あなたの強い感情が『香り』となり、周囲の人間の感情に干渉し、上書きしてしまうのです」
頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。
「あなたが他人から感じていた『嘘の香り』や『苛立ちの香り』……その多くは、あなた自身の疑心暗鬼や焦燥感が、相手にそう感じさせていただけのこと。彼らはあなたの強すぎる感情の香りに当てられて、無意識にあなたを憐れみ、戸惑っていたのです」
嘘だ。そんなはずはない。だが、脳裏に浮かぶのは、困惑した顔で俺を見ていた美咲の友人たち。事務的な態度を取りながらも、どこか俺を気遣うような視線を向けていた警察官。そして、俺が「欺瞞だ」と断じたこの場所に満ちる、穏やかな空気。
「あなたは、私を愛してくれていたわ」美咲が続けた。その瞳には涙が浮かんでいる。「最初は、あなたの愛情が嬉しかった。焼きたてのパンみたいな、温かい香りに包まれていると、本当に幸せだった。でも……いつからか、その香りは変わってしまった」
彼女は苦しげに顔を歪める。
「あなたの愛情は、だんだん濃くなって、重くなって……焦げ付くような、甘ったるい『執着の香り』になった。その香りに四六時中包まれていると、息が詰まりそうだった。私の考えも、感情も、全部あなたの香りに塗りつぶされて、自分が自分でなくなっていくようで……怖かったの」
俺が嗅ぎ取っていた、部屋に残された「恐怖の香り」。あれは、彼女が連れ去られた恐怖ではなかった。俺という存在そのものに対する、彼女の心からの恐怖だったのだ。
俺は、自分が被害者の恋人を探す悲劇のヒーローだと思い込んでいた。だが、違った。俺自身が、愛する人を無自覚に追い詰め、心を蝕む加害者だった。俺が追いかけていた犯人は、他の誰でもない、俺自身だったのだ。
立っていることさえできず、その場に崩れ落ちた。世界から、すべての香りが消えていく。残ったのは、自分の内側から湧き出てくる、どうしようもない絶望の匂いだけだった。
第四章 沈黙のパルファム
どれくらいの時間、床に突っ伏していただろうか。顔を上げると、美咲が俺の前にしゃがみ込んでいた。彼女からは、変わらず「憐憫の香り」が漂っている。だが、その奥に、かつて俺を包んでくれた温かいミルクティーの香りの残滓が、微かに感じられた。
「湊くんのせいだけじゃない。あなたのその力のことを、もっと早く、二人で話し合うべきだった」彼女はそう言って、そっと俺の肩に触れた。「でも、今の私には、あなたの隣にいる勇気がない」
それが、彼女の答えだった。俺たちの終わりを告げる、静かで、しかし決定的な言葉。俺は何も言い返せなかった。どんな言葉も、今の俺が口にすれば、醜い「執着の香り」を纏って彼女を傷つけるだけだと分かっていたからだ。
影山が、一枚のハンカチを差し出した。それは何の香りもしない、ただの白い布だった。
「我々の会は、あなたのような力を持つ人々が、その能力を制御し、他者と共存するための場所でもあります。もし、あなたにその意思があるのなら」
俺はハンカチを受け取らなかった。まだ、誰かの助けを借りる資格などない。俺はまず、自分一人で、このどうしようもない自分自身と向き合わなければならない。
美咲に背を向け、洋館を後にする。彼女は追いかけてこなかった。それが、彼女の優しさであり、俺への最後の信頼なのだと思った。
家に帰ると、がらんとした部屋が俺を迎えた。美咲がいた痕跡は、物理的には何一つない。だが、俺の鼻は、記憶は、この部屋の隅々に染み付いた彼女の香りを覚えている。陽だまりの香り、ミルクティーの香り、そして最後に知った、恐怖と憐憫の香り。
俺は自分の能力を呪ってきた。だが、本当に呪うべきだったのは、能力そのものではなく、他人の心を顧みず、自分の感情ばかりを垂れ流してきた俺自身の傲慢さだった。愛とは、相手を自分の香りで染め上げることではない。相手が放つ、ありのままの香りを、ただ静かに受け止め、愛おしむことだったのかもしれない。
窓を開け放つ。街の喧騒とともに、無数の感情の香りが部屋に流れ込んできた。車の排気ガスに混じる運転手の焦り。どこかの家庭から漏れる夕食の匂いと家族の団欒。遠くで泣く赤ん坊の不安と、それをあやす母親の愛情。
かつては不快なノイズでしかなかったそのカオスな香りを、俺は目を閉じて、深く、深く吸い込んだ。それは苦く、酸っぱく、時に甘く、そしてどうしようもなく人間臭かった。
俺の旅は、ここから始まる。いつか、自分の感情を支配し、何の色も香りもついていない、ただの透明な存在として美咲の前に立てる日が来るだろうか。そしてその時、彼女から漂う本当の香りを、俺は嗅ぎ取ることができるだろうか。
答えはまだ、風の中だ。俺はただ、沈黙のパルファム(香水)を自らの内に作り上げることを目指して、息を吸い、そして吐き出す。生きていくために。いつか、本当の意味で誰かを愛するために。