***第一章 感情の残骸***
朝の光が埃の舞う書斎に差し込むと、霧島朔(きりしまさく)の一日は、昨日の自分を「読む」ことから始まる。彼は事故の後遺症で、眠ると前日の感情だけを綺麗に忘れてしまうのだ。出来事の記憶は残る。誰と会い、何を食べ、どこへ行ったか。だが、その時抱いたはずの喜びも、怒りも、悲しみも、翌朝には乾いた事実の抜け殻となって、彼の心からこぼれ落ちている。
だから彼は日記をつける。昨日の自分が、今日の自分に宛てた、感情の業務報告書だ。
「十月二十七日。天気、曇り。午前中、店番。常連の佐伯夫人が来店。『失われた時を求めて』の初版本を探しているとのこと。見つかれば喜ぶだろう、と推測。昼食は近所の蕎麦屋で天ぷら蕎麦。海老の食感が良かったはずだ。午後は仕入れのため神保町へ。夕方、友人の蓮見と駅前のカフェ『エウレカ』で会う。彼は赤いスカーフをしていた。最近の作品について話す。私の大切な万年筆を彼が誤って落とし、ペン先が壊れた。私はきっと、激しく動揺し、怒ったに違いない」
朔はそこまで読み、眉をひそめた。淡々とした事実の羅列。だが、ページをめくろうとした指が止まる。そのページの最後に、走り書きのような、見たこともない乱れた筆跡があった。まるで、嵐のような感情がペン先を紙に叩きつけたような、暴力的な文字列。
『彼を殺さなければならない』
心臓が氷の塊になったように冷たく、重くなった。これは、間違いなく自分の筆跡だ。だが、この文章に込められたであろう燃え盛るような憎悪は、今の朔には一片も感じられない。誰だ? 「彼」とは誰だ? 昨日の私は、一体誰に、これほどの殺意を抱いたというのか。
記憶を手繰り寄せても、そこに感情の色は乗らない。蓮見が万年筆を壊した。確かに腹立たしい出来事だ。だが、殺意に至るほどのものか? 日記の記述はそこで途切れている。その後の記憶も曖昧だ。カフェを出て、どうやって帰宅したのかさえ、靄がかかったように思い出せない。
朔は立ち上がり、書斎の窓から外を眺めた。彼の営む古書店『霧と書林』は、静かな住宅街の片隅にひっそりと佇んでいる。いつもと同じ、穏やかな朝。だが、その日常の薄皮一枚をめくった下に、昨日の自分が遺した「殺意」という名の地雷が埋まっている。今日の自分は、その感情の理由も行方も知らぬまま、その上を歩かなければならない。
まるで他人の犯罪計画書を読んでしまったような、奇妙な当事者意識と、現実感の欠如。朔は日記を閉じた。これは、捜査だ。昨日の自分が遺した感情の残骸を拾い集め、今日の自分が、その謎を解き明かさなければならない。自分自身という、最も不可解な容疑者を追跡する、孤独な捜査が始まった。
***第二章 事実の迷宮***
手がかりは、日記に記された断片だけだ。「カフェ・エウレカ」「赤いスカーフの男」「壊れた万年筆」。そして、殺意の対象である「彼」。最も有力な容疑者は、友人の蓮見だった。
朔は古書店のカウンターに座り、昨日壊された万年筆を眺めた。それは、五年前に亡くなった妻の形見だった。銀色の軸に繊細な彫刻が施された、美しい一本。そのペン先は無惨に曲がっている。これを壊されたのなら、確かに激しい怒りを覚えたかもしれない。だが、蓮見は三十年来の親友だ。過失で壊してしまったからといって、殺意まで抱くだろうか。
思考が堂々巡りを繰り返す。感情を忘れてしまった脳では、「親友への情」と「形見を壊された怒り」を天秤にかけることができない。どちらも等しく、色を失った事実でしかない。
昼過ぎ、店のドアベルが鳴った。入ってきたのは、常連の佐伯夫人だった。上品な佇まいの老婦人は、にこやかに朔に話しかける。
「店主さん、昨日はありがとうございました。あんなに親身になって本を探してくださるなんて。本当に嬉しかったわ」
「……いえ」
朔は曖昧に頷いた。日記には「喜ぶだろう、と推測」と書いたが、佐伯夫人のこの満面の笑みを見ると、昨日の自分は確かに彼女に温かい感情を抱いていたのだろうと思えた。だが、それはあくまで論理的な帰結だ。
「ところで、昨日、夕方頃でしたかしら。店先で、どなたかと激しく言い争っていらっしゃいましたね。大きな声が聞こえてきて、少し心配になったのよ」
朔の心臓が跳ねた。
「……覚えていません。相手は、どんな人物でしたか?」
「そうねえ、背の高い男性だったかしら。赤いスカーフを巻いていたような……。あなた、顔が真っ青になって、今にも殴りかかりそうな剣幕だったわよ」
赤いスカーフ。蓮見だ。間違いない。
佐伯夫人が帰った後、朔は店のシャッターを早めに下ろした。自分の中で、蓮見への疑念が確信に変わっていく。昨日の自分は、万年筆を壊されたことに激高し、店先で蓮見と口論になり、そして殺意を日記に刻みつけたのだ。
だが、なぜ?
朔は蓮見に電話をかけることができなかった。もし電話口で蓮見の穏やかな声を聞いたら、この冷たい確信が揺らいでしまうかもしれない。感情がないからこそ、事実を積み重ねて真実に辿り着けるはずだ。感情は、時に判断を誤らせる。そう自分に言い聞かせた。
夕暮れの光が店内に長く影を落とす。朔は、自分が自分という人間を全く理解できていないことに、今更ながら気づいていた。毎朝、新しい人格になっているようなものだ。昨日、友人を殺そうと決意した自分が、今日はその理由すらわからずに狼狽えている。どちらが本当の自分なのか。あるいは、どちらも自分ではないのか。
彼は、蓮見のアトリエへ向かうことを決めた。直接会って、事実を確かめるしかない。もし、蓮見が本当に「彼」ならば、昨日の自分に代わって、今日の自分が、何らかの決着をつけなければならない。足音が、静まり返った古書店に重く響いた。それはまるで、未知の自分へと向かう、不安な足音のようだった。
***第三章 友情の処方箋***
蓮見のアトリエは、古い倉庫を改装したもので、油絵の具とテレピン油の匂いが満ちていた。壁には描きかけの巨大なキャンバスがいくつも立てかけられ、床には絵の具のチューブや筆が無造作に散らばっている。その混沌の中心で、蓮見は穏やかに笑って朔を迎えた。
「朔か。どうしたんだ、急に」
蓮見の首には、昨日と同じ赤いスカーフが巻かれていた。
朔は言葉を選びながら、ゆっくりと切り出した。
「蓮見、昨日のことを聞きたい。カフェで、君は俺の万年筆を壊した。その後、店の前で俺たちは口論になったらしい。……俺は、君に殺意を抱いたんだろうか」
単刀直入な問いに、蓮見は一瞬目を見開いたが、すぐに悲しげな色を宿して微笑んだ。
「ああ、日記を見たんだな」
その反応は、朔の予想とは違っていた。動揺も、否定も、恐怖もない。まるで、全てを知っていたかのような、静かな諦観。
朔は懐から日記を取り出し、問題のページを開いて蓮見に見せた。乱れた筆跡で書かれた『彼を殺さなければならない』という一文を、蓮見は懐かしむような目で見つめた。
そして、彼は驚くべき言葉を口にした。
「その文字を、半分書いたのは私だ」
「……どういう、意味だ?」
「昨日、君は確かに激怒していたよ。万年筆が壊れた時、君の顔から表情が消えた。そして、ゆっくりと、震える声で言ったんだ。『許さない』と。それは事故以来、私が初めて見た、君の剥き出しの感情だった」
蓮見は一歩、朔に近づいた。
「私は、嬉しかったんだ。君が感情を取り戻したことが。だから、その強烈な感覚を、明日の君に忘れてほしくなかった。店に戻った君が日記を開いた時、私は半ば強引に君の手を取って、ペンを握らせた。そして一緒に、そのページに君の怒りを刻みつけたんだ。『彼を殺さなければならない』と」
朔は絶句した。目の前の友人が、何を言っているのか理解できなかった。
「『彼』とは、誰なんだ……?」
「特定の誰かじゃない。君から感情を奪った、理不尽な事故そのものさ。君の心を空っぽにした運命だ。君が憎むべき相手は、私じゃない。君自身でもない。その見えない敵だよ。私は、君にその怒りを思い出してほしかった。戦うべき相手を、見つけてほしかったんだ」
蓮見の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「君は、感情を失ってから、まるで壊れ物を扱うように自分自身と接してきた。だが、人間はもっと混沌としていて、矛盾していて、美しいものだろう。忘れてしまうなら、せめてその瞬間に燃え上がった感情の熱さだけでも、今日の君に伝えたかった。それが、友人として私にできる、唯一のことだと思ったんだ。歪んだやり方だったと、今は思う。すまない」
殺意のミステリーは、一瞬にして、歪で、しかしあまりにも純粋な友情の物語へと姿を変えた。朔は、何も言えなかった。蓮見の告白が、乾いた心にじわじわと染み込んでくる。怒りではない。悲しみでもない。それは、温かいような、胸が締め付けられるような、名付けようのない感情の奔流だった。
ああ、これか。これが、感情か。
翌朝には忘れてしまう、儚い感覚。だが、朔は今、確かに感じていた。友が自分のために心を砕き、苦しみ、そして手を差し伸べてくれたことへの、感謝としか呼びようのない感覚を。
アトリエからの帰り道、朔は新しい日記帳を買った。そして自宅の書斎に戻り、真新しいページを開くと、妻の形見だった壊れた万年筆を手に取った。インクは出ない。だが、彼はそのペン先で、強く、紙に文字を刻み込んだ。
『十月二十八日。蓮見という友人がいる。彼は私のために、涙を流してくれた。胸に温かいものが灯った。これを感謝と呼ぶのだろう。明日の私へ。この温もりを、忘れるな。たとえ感情は消えても、この事実は消えない。お前は、一人じゃない』
彼の症状が治ることはないのかもしれない。明日になれば、この胸を焦がすような感動も、色褪せた事実のリストに変わるだろう。だが、もう彼は恐れない。失われた感情を嘆くのではなく、今この瞬間に生まれる感情を、未来の自分への贈り物として、記し続ければいい。
それは、記憶と感情の狭間で生きる彼が見つけ出した、ささやかで、しかし確かな希望の光だった。夜の帳が下りた書斎で、朔は静かに、次のページをめくった。
明日の私へ、この殺意を
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