結晶の葬送者
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結晶の葬送者

第一章 霜降りの前兆

左腕に、また新しい凍傷が生まれた。それはまるで、冬の窓ガラスに描かれた精緻な霜の模様のように、僕、ユキの皮膚の上に静かに広がっていた。ちりちりとした冷たい痛みが、神経の末端を焼く。これは僕だけの呪い。他人の最も深い『未練』が、僕の身体に刻まれる証だ。

古書店の隅で、革装丁の匂いに包まれながら、僕はそっと腕をさすった。今回の凍傷は、指先から肘に向かって細く伸び、その先端は万年筆のペン先の形を微かに象っていた。誰かの、書き終えられなかった物語の断片だろうか。

ラジオから流れるニュースが、街の不穏な空気を店内に運び込む。

「……連続する奇妙な殺人事件です。被害者はいずれも目立った外傷はなく、ただ、体内に宿すはずの『記憶の結晶』が、完璧に抜き取られていました……」

『記憶の結晶』。人が生きる上で最も価値ある記憶が凝縮された、魂の核。それが失われれば、人は思考する葦ですらなくなり、ただの抜け殻となる。そして結晶が砕かれた時、その存在は世界から、人々の記憶から完全に消滅する。

僕は腕の凍傷に視線を落とした。この疼きは、ただの同情ではない。ニュースで報じられる被害者たちの死と、僕の身体に現れる未練が、水面下で固く結びついているような、嫌な予感がした。強い未練。それは死期が近い者の証。そして、死が訪れると、凍傷はその未練の対象物の形に完全に凍りつくのだ。この万年筆が完成するとき、また一人、誰かがこの世からいなくなる。僕だけが、その声なき叫びを知っている。

第二章 砕け散る記憶

事件現場には、まだ微かな冷気が漂っていた。古いアパートの一室。警察の黄色いテープが、日常と非日常を無情に隔てている。僕は、野次馬に紛れてその場に立っていた。鼻腔をくすぐるのは、埃の匂いに混じる、甘く懐かしい金木犀の香り。それは、この部屋の主だった老婆が愛した香りなのだろう。僕の腕の凍傷が、その香りに呼応するように小さく疼いた。

「君、ここで何をしている?」

鋭い声に振り返ると、疲れた顔に怜悧な光を宿した男が立っていた。トレンチコートの襟を立てたその男は、刑事のミカゲと名乗った。

「……ただの通りすがりです」

「そうか? だが君の目は、ただの野次馬の目じゃない。何かを知っている目だ」

ミカゲの目は、嘘を見透かすようだった。彼は僕を半ば強引に連れ出し、被害者について尋ねた。老婆は天涯孤独で、近所付き合いもほとんどなかったという。誰もが彼女の死を悼むものの、その人柄や思い出を語れる者はいなかった。まるで、彼女の人生が最初から薄墨で描かれていたかのように、誰の記憶にも深く刻まれていない。

だが、僕の腕の万年筆は、彼女が誰かに宛てて、最期の言葉を綴ろうとしていたことを告げていた。誰も知らないはずの、その深い未練を、なぜ僕だけが感じ取るのか。ミカゲは僕の腕の凍傷に気づき、眉をひそめたが、それ以上は何も問わなかった。

第三章 凍結の砂時計

三番目の事件は、冷たい雨がアスファルトを濡らす夜に起きた。今度の凍傷は右の足首に現れた。それは幼い子供が握りしめる、短いクレヨンの形をしていた。皮膚が内側から凍りつき、裂けるような激痛が全身を貫く。僕は顔を歪め、現場へと急いだ。

公園のベンチに、人形のように動かなくなった若い女性が横たわっていた。彼女の胸には、ぽっかりと穴が空いたような虚無感だけが残されている。ミカゲが苦々しい顔で僕を一瞥した。

「また君か。死神にでも魅入られたか」

彼の言葉を無視し、僕はベンチの下に転がる小さなそれに気づいた。手のひらサイズの、古びた砂時計。だが、そのガラスの中で舞い落ちているのは砂ではない。絶え間なくきらめく、無数の氷の結晶だった。

『凍結の砂時計』。

それに触れた瞬間、指先から激しい冷気が駆け上がり、足首の凍傷が悪化した。

「ぐっ……!」

痛みと共に、脳裏に映像が流れ込む。公園で楽しそうに絵を描く小さな男の子。夕陽に照らされたその笑顔。そして、それを見つめる母親の、愛おしさに満ちた優しい眼差し。失われた記憶の断片。これが、彼女の『記憶の結晶』だったのだ。

「どうした?」とミカゲが訝しげに僕を見る。

「これ……この砂時計が……」

僕は彼に砂時計を差し出すが、ミカゲはそれをただの精巧なアンティークとしか認識できなかった。彼の手の中では、氷の結晶はただのガラスの粒にしか見えない。この砂時計が放つ尋常ならざる冷気と、失われた記憶の残滓を感じ取れるのは、世界でただ一人、僕だけらしかった。

第四章 葬送者の影

砂時計は、かすかな光の道筋を示していた。それは、持ち主の記憶の痕跡。僕はその光を頼りに、街の片隅にある古い私設図書館へとたどり着いた。高い天井まで届く書架が並び、古紙とインクの匂いが静寂を満たしている。

光の終着点、閲覧室の奥に一人の男がいた。黒いコートを纏い、銀縁の眼鏡の奥で静かな瞳を光らせるその男は、僕に気づくと読んでいた本を閉じ、穏やかに微笑んだ。

「来ると思っていたよ、ユキ君」

男はリヒトと名乗った。彼こそが、連続殺人事件の犯人。しかし、その佇まいには一片の罪悪感も狂気も感じられない。

「なぜ……」

「私は殺人者ではない」

リヒトは静かに言った。

「私は、葬送者だ。忘れ去られる運命にあった魂を、弔っているに過ぎない」

彼の言葉は、まるで難解な詩の一節のようだった。彼は続ける。

「私は彼らの結晶を奪った。だが、それは破壊するためではない。彼らの存在が、誰かの記憶の中に残り続けるためにだ」

僕の腕の凍傷が、彼の言葉の真偽を問うように、鋭く痛んだ。

第五章 世界の真実

リヒトは僕を、図書館の地下にある隠れ家へと導いた。そこは、彼の所属する秘密結社「メモリア」のアジトだった。そこで語られた真実は、僕が立っている世界の土台そのものを揺るがすものだった。

この世界を支配する統合政府は、長年の人口増加と資源枯渇問題を解決するため、恐ろしい計画を実行していた。『存在調整』。社会への貢献度が低いと判断された市民をリストアップし、彼らの『記憶の結晶』を強制的に摘出、完全に破砕することで、その存在そのものを消滅させているというのだ。存在が消えれば、誰もその人物を記憶していない。まるで、最初から生まれなかったかのように。完璧な人口調整。

「君の能力は、その『調整』対象に選ばれ、消滅へと向かう人々の、最後の抵抗に共鳴するものだ。『生きたい』『忘れられたくない』という、存在を賭けた未練だよ」

リヒトは言った。

「我々メモリアは、政府に消される前に彼らを特定し、あえて結晶だけを抜き取る。そうすれば、存在の核は失われるが、彼らが生きたという痕跡――関わった人々の記憶だけは、この世界に残り続ける。我々は、完全な『無』からの救済を行っているのだ」

事件の被害者たちは、誰も気づかないまま政府に消される運命だった人々。目撃者たちが事件を記憶していながら結晶を失っていたのは、彼ら自身もまた、次の『調整』対象だったからだ。リヒトは、彼らの記憶が消える前に、その証言を残させるためにあえてそうしていた。僕が感じていた未練は、殺された者の無念ではなく、消されゆく者の最後の祈りだったのだ。

第六章 選択の刻

その時、アジトの扉が激しい音を立てて破られた。ミカゲ刑事が、武装した部隊を率いて突入してきたのだ。彼の目は、正義を執行する者の冷たい光を宿していた。

「リヒト!貴様の非道な行いもここまでだ!」

ミカゲは政府の秩序を信じ、その忠実な番犬として動いていた。彼にとってリヒトは、人々の魂を弄ぶ凶悪犯でしかない。

リヒトは追い詰められながらも、冷静さを失わなかった。彼は僕に『凍結の砂時計』をそっと手渡す。

「ユキ君。君のその力で、救うべき魂を見つけ出してくれ。方法は、君が選ぶんだ」

彼の指が離れた瞬間、砂時計が強く輝き、僕の全身に新たな凍傷が走った。それは、ミカゲの背後に立つ若い隊員の一人から発せられる『未練』だった。彼は、故郷に残した妹の笑顔の形に、凍りつこうとしていた。彼もまた、次の『調整』対象者なのだ。

一方は、秩序を盾に個を消し去る政府の正義。

もう一方は、非人道的な手段で個の記憶を守ろうとする葬送者の慈悲。

どちらが正しく、どちらが間違っているのか。僕にはもう分からなかった。ただ、腕に刻まれた凍傷の痛みが、消えゆく命の重みを静かに告げている。

僕は、冷たい砂時計を強く握りしめた。これから僕が下す選択が、この世界の誰かの未来を凍らせ、あるいは溶かすのだろう。僕の物語は、まだ終わらない。

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