第一章 緋色の兆候
世界から色が消えて、もう三年になる。僕、水島ユキの世界は、濃淡の異なる灰色だけで構成されていた。かつて色彩の奔流に身を任せる画家だった僕にとって、それは緩やかな死に等しかった。太陽は白く燃え、空はくすんだ鼠色に沈み、人々の顔はのっぺりとした石膏像のように見える。感情すらも、彩度を失ったインクのように心に染み渡るだけだった。
あの日も、そんな灰色の午後だった。カフェの窓際で、冷めきったコーヒーを眺めながら、雨に濡れる街をぼんやりと見つめていた。降りしきる雨粒がアスファルトに描く無数の円も、傘をさして行き交う人々の群れも、すべてが古びたモノクロ映画のワンシーンのようだ。何の変哲もない、退屈で、意味のない風景。
その時だった。
雑踏の中に、一点だけ、ありえないほど鮮やかな「色」が灯った。それは、燃え盛る炎のような、あるいは動脈から噴き出す血のような、強烈な緋色。その色を全身にまとったかのように見える長身の男が、無表情に僕の前を通り過ぎていく。他のすべてが灰色である中で、その男の存在だけが、網膜を焼き付けるように鮮烈だった。
心臓が氷の塊を飲み込んだように冷たく、そして激しく脈打った。三年ぶりに見る「色」。それは歓喜ではなく、本能的な恐怖を伴って僕の全身を駆け巡った。なぜだ? なぜ、この男だけが?
緋色の男が路地裏に消えた直後、甲高い女性の悲鳴が、雨音を切り裂いて鼓膜を揺さぶった。カフェの中が俄かに騒がしくなり、何人かが窓に駆け寄る。僕も、何かに憑かれたように席を立ち、震える足で店の外に出た。
路地裏には、人だかりができていた。その中心で、一人の女性が灰色の石畳の上に倒れている。彼女の胸から広がる染みだけが、僕には見えなかった。僕のモノクロの世界では、血の色さえもただの黒い染みでしかないのだから。しかし、僕の脳裏には、先ほど見たばかりの、あのどす黒いまでの緋色がこびりついて離れなかった。
警察のサイレンが遠くから近づいてくる。僕は人混みからそっと離れ、雨に打たれながら立ち尽くした。世界は再び完全な灰色に戻っていた。だが、僕の心の中には、あの緋色の残像が、決して消えない烙印のように焼き付いていた。あれは、何だったのか。あの色は、何を意味していたのか。絶望の底で燻っていた僕の心に、恐怖という名の小さな火種が、確かに灯った瞬間だった。
第二章 藍色の囁き
緋色の殺人事件から一週間が過ぎた。テレビのニュースは連日、有力な手がかりがないまま捜査が難航していると報じていた。僕は警察に話すべきか迷っていた。しかし、どう説明すればいい? 「世界が灰色に見える私にだけ、犯人と思われる男が緋色に見えました」と。精神鑑定に回されるのが関の山だろう。
結局、僕は口を噤んだ。そして、あの日以来、街を歩くときは常に神経を張り詰めさせ、人々の群れの中に再び「色」を探すようになっていた。それは、真実への渇望というより、自分の正気を確かめるための必死の行為だった。
アトリエとして使っていた部屋は、今はただの物置と化している。キャンバスは壁に立てかけられ、白い布を被って埃を吸っている。絵の具のチューブは固まり、パレットは色のない化石のようだ。僕は、記憶の中の緋色をスケッチブックに描こうとした。しかし、鉛筆が紙の上を滑る音は虚しく、生まれるのは濃淡の違う黒だけ。あの生命を宿したような鮮烈な赤を、僕は二度と再現できないのだ。無力感が、重たい鉛のように身体にのしかかる。
そんなある夜、僕は気分転換に、深夜の公園を散歩していた。街灯がぼんやりと道を照らし、木々の葉が風に揺れる音だけが聞こえる。その静寂を破ったのは、ベンチに座る一人の女性の姿だった。
彼女は、静かで、冷たい「藍色」を放っていた。それは深海の水のような、あるいは凍てつく冬の夜空のような、底知れない孤独を感じさせる色だった。彼女は俯き、スマートフォンの画面をじっと見つめている。僕は息を殺し、木の陰から彼女を観察した。彼女が犯人なのか? それとも、次の被害者?
やがて彼女は立ち上がり、公園の出口へとゆっくり歩き始めた。僕は後を追うべきか逡巡したが、恐怖が足を縫い付けた。藍色の姿が闇に消えていくのを見送ることしかできない。
翌日、ニュースは近隣の会社員が失踪したと伝えていた。昨夜、僕が見た藍色の女性が勤めていた会社だった。失踪した男性は、彼女の同僚だという。まただ。僕が見た「色」の近くで、何かが起きている。緋色と藍色。二つの事件に関連性はあるのだろうか。それとも、僕の周りに、複数の「色」を持つ人間が存在するのだろうか。
僕の能力は、呪いなのか、それとも天啓なのか。いずれにせよ、もう見て見ぬふりはできない。僕は埃を被ったキャンバスに手を伸ばした。描くことはできなくても、記録しなければならない。この灰色だけの世界で、僕だけが見ることのできる、恐ろしい色彩の囁きを。無気力に支配されていた僕の心は、恐怖と使命感の入り混じった奇妙な熱を帯び始めていた。
第三章 反転する色彩
僕は独自に調査を始めた。といっても、素人の僕にできることは限られている。事件現場の周りを歩き回り、緋色の男と藍色の女の似顔絵を、記憶を頼りに描いてみる。だが、モノクロの肖像画は、あの強烈な色彩の印象を何一つ伝えられなかった。
ある日、僕は図書館で犯罪心理学に関する本を漁っていた。殺人犯が抱く特有の精神状態、高揚感、あるいは冷徹な計画性。僕が見た「色」は、そういった犯人の内面が可視化したものに違いない。そう信じていた。そうでなければ、この現象の説明がつかない。
その時、ふと、ある記述に目が留まった。「被害者は、死の直前、極度の恐怖やストレスにより、強い精神的エネルギーを放出することがある」。僕はその一文を読んだ瞬間、雷に打たれたような衝撃を受けた。
もし、僕が見ている色が、犯人の「殺意」の色ではなかったとしたら?
もし、あれが、被害者が死の間際に感じた「恐怖」の色だったとしたら?
全身の血が逆流するような感覚に襲われた。そうだとしたら、すべてが反転する。緋色の男は、通り魔に襲われた女性のすぐそばを歩いていただけの、無関係な通行人。藍色の女も、失踪した同僚の身を案じていただけで、事件とは何の関係もない。彼らは犯人ではない。彼らは、被害者の断末魔の叫び、その魂の最後の色を、僕の網膜に「反射」する鏡の役割を果たしたに過ぎないのだ。
僕は犯人を追っているつもりで、実は、死者の恐怖の残響を追いかけていた。
その事実に気づいた時、激しい吐き気と自己嫌悪がこみ上げてきた。何という傲慢さ。何という勘違い。僕は、被害者たちの最後のSOSを、猟奇的な犯人のサインだと誤解していたのだ。彼らの無念を、僕は好奇の目で見つめていたに過ぎない。
価値観が根底から覆された。僕のこの能力は、事件を解決するための武器などではない。ただ、人の死の瞬間の恐怖を、一方的に感じ取るだけの呪いだった。
では、真犯人はどこにいる? 犯人は、僕の世界では「色」を持たない存在ということになる。恐怖を感じさせる間もなく、あるいは何の感情も抱かずに人を殺せる、そんな人間が? 僕の思考は、出口のない迷宮に迷い込んでしまった。そして、僕はこの呪われた能力の根源に、向き合わざるを得なくなった。
三年前の、あの事故。僕が色を失った、あの雨の日の夜のことを。
第四章 灰色のキャンバスに描く光
三年前、僕は恋人のミサキを助手席に乗せて車を運転していた。激しい雨がフロントガラスを叩き、視界は最悪だった。言い争いをしていた。些細なことだったはずだ。僕の絵のこと、将来のこと。感情的になった僕が、一瞬、脇見をした。その一瞬が、すべてを奪った。対向車のヘッドライトが目の前に迫り、衝撃と絶叫が世界を覆い尽くした。
次に目覚めた時、僕は病院のベッドにいた。そして、世界からすべての色が消え失せていた。ミサキは、即死だったと聞かされた。
僕は彼女の死の瞬間から、彼女が感じたであろう恐怖から、逃げたかった。だから無意識に、世界から色を、感情を、記憶をシャットアウトしたのだ。僕の能力は、他人の恐怖を感じ取るものではない。もしかしたら、僕が封印したミサキの最後の恐怖を、他人に投影して見ていただけなのかもしれない。
この考えに至った時、僕は連続殺人事件の犯人の正体に思い当たった。僕が通っていたカウンセリングの、白石というセラピストだ。彼は僕のトラウマを熟知していた。僕が色を失った経緯も、僕の心の脆さも。彼は僕の能力に気づき、僕のすぐ近くで事件を起こすことで、僕が混乱し、苦しむ様を観察して楽しんでいたのだ。彼には何の感情もない。他人の苦痛だけが彼の栄養源なのだ。だから、彼には「色」が見えなかった。
僕は白石のカウンセリングルームへ向かった。最後にもう一度、彼と話すために。
「水島さん、どうされました?予約の日ではありませんが」
白石は、いつも通りの穏やかな笑みを浮かべて僕を迎えた。彼の背後の壁も、ソファも、観葉植物も、すべてが抑揚のない灰色に見える。
「先生、あなたが犯人ですね」
単刀直入に切り出すと、彼の笑みが、ほんのわずかに凍りついた。
「あなたが僕の周りで事件を起こしていた。僕の反応を見て、楽しんでいたんでしょう」
白石はゆっくりと立ち上がると、表情を消した。「面白い仮説だ。君の心が生み出した、新たな妄想かな?ミサキさんの死の罪悪感から逃れるための」
彼は僕のトラウマを、鋭いナイフのように突きつけてくる。ミサキの名前を聞いた瞬間、僕の心臓は鷲掴みにされたように痛んだ。視界がぐらつき、灰色の世界が歪む。
その時だった。僕の脳裏に、鮮やかな光景がフラッシュバックした。三年前の事故の瞬間。砕け散るガラス。僕の名前を叫ぶミサキの声。そして、彼女の瞳に映った最後の「色」。それは、僕が今まで見た緋色や藍色とは全く違う、複雑で、切ない色だった。そこには恐怖だけではなく、僕への心配、そして、遺される僕に「生きて」と願う、強い愛情の色が混じり合っていた。
それは、絶望の色ではなかった。光の色だった。
僕は顔を上げた。涙が頬を伝っていた。
「違う…僕はもう逃げない」
恐怖と罪悪感を、僕は初めて正面から受け止めた。その瞬間、目の前の白石の姿に、ほんのかすかな、しかし確かな「色」が見えた。それは、汚泥のような、濁った黄土色。彼の平静を装う仮面の下で、計画が崩れ始めたことへの「焦り」の色だった。
「…その色だ」僕は呟いた。「あなたの感情の色が、初めて見えた」
僕はその場を飛び出し、警察に駆け込んだ。僕の証言は支離滅裂だったかもしれない。だが、僕が見た「焦りの色」は、確信に満ちていた。僕の通報がきっかけとなり、白石のカウンセリングルームから決定的な証拠が発見され、彼は逮捕された。
事件は解決した。だが、僕の世界に豊かな色彩が戻ることはなかった。世界は今も、灰色のままだ。
でも、不思議と絶望は感じなかった。僕はアトリエに戻り、埃を被ったキャンバスの布を剥がした。そして、新しいパレットに、黒と白の絵の具だけを出す。
僕は描き始めた。僕だけが見た、あの緋色を。あの藍色を。そして、ミサキが最後に僕に残してくれた、光のような、あの切ない色を。モノクロのキャンバスの上で、僕は記憶の中の色彩を、心の目で懸命に再現しようとした。
それは、失われた人々への鎮魂の祈り。そして、僕自身の魂を再生させるための、最初のストロークだった。世界は灰色のままでもいい。僕の心には、もう一度、確かな感情の「色彩」が戻り始めていたのだから。