揺らぐ鏡、留まる霧
第一章 霧と光の街
カイの生きる世界は、常に霧か光に満ちていた。それは比喩ではない。人々が抱く記憶の確からしさが、彼の網膜には現実の風景として映るのだ。疑念や曖昧な思い出は、足元にまとわりつく灰色の霧となり、揺るぎない確信は、その人の内から放たれる温かな光となる。街角のカフェで昔話を語る老人たちの周りには、淡い光と濃い霧が入り混じり、まるで陽だまりと影が踊っているかのようだった。
カイは、首都中央歴史記録院の片隅で、記録官として働いていた。彼の仕事は、日々更新されるデジタルアーカイブの整合性を確認すること。この世界では、人々の集合的意識が過去を書き換える。多数派が信じた「事実」が、いつしか本当の「歴史」となり、書物やデータベースの記述さえも自動的に修正されてしまう。昨日まで英雄だった男が、今朝には卑劣な裏切り者として記録されていることも珍しくない。
人々は、その変化に気づかない。彼らの記憶もまた、世界の書き換えに同期してしまうからだ。だが、カイだけは違う。彼の目には、書き換えられる前の光景と、書き換えられた後の光景が、二重写しのように見える。そして、特定の歴史だけは、何度世界がその解釈を変えようとも、彼の目には常に濃密な霧として映り続けていた。
百年前の『大崩落』。かつてこの地に栄えた旧王都が一夜にして消滅したとされる、大災害。
公式記録では、その原因は「大規模な地殻変動」と記されている。しかし、その記述は月に一度は「未知のエネルギー暴走」に、時には「古代兵器の誤作動」へと揺れ動く。人々が信じる物語が変わるたび、記録も変わる。だがカイの目には、そのどれもが真実からほど遠い、濃い霧の向こう側にあるようにしか見えなかった。
第二章 揺らぐ水面
「『大崩落』の真実を、突き止めたいんです」
静かな書庫に、凛とした声が響いた。カイが顔を上げると、そこに立っていたのは若き歴史学者のエラだった。彼女の瞳は探求心に燃え、その記憶は強い意志を示す鮮やかな光を放っていた。だが、その光の輪郭はどこか危うげに揺らいでいる。まるで、強風に煽られる蝋燭の炎のようだ。
「真実、ですか。記録院にあるものが全てですよ」
カイは無感情を装って答えた。彼女のような人間を、彼は何人も見てきた。世界の法則に気づかぬまま、固定された真実を追い求め、やがて自らの記憶との齟齬に精神をすり減らしていく者たちを。
「いいえ、違うはずです! 記録はあまりに頻繁に変わる。まるで、世界が何かを隠そうとしているみたいに」
エラの言葉は、カイの心の深い部分を刺した。彼女は、世界の違和感に気づき始めている。
その夜、カイは自室で古びた手鏡を手に取った。祖母の形見だというその鏡は、表面が水面のように絶えず揺らめき、映し出す像が数秒ごとに歪み、変化する奇妙な品だった。彼はこれを使って、他ならぬ自分自身の記憶の確信度を確かめる。
鏡を覗き込むと、映った自分の顔は、ほとんどの部分が薄い霧に覆われていた。自分の過去、両親の顔、幼い日々の記憶。その全てが曖昧だった。だが、ただ一点、『大崩落』の知識に触れるときだけ、鏡の中の瞳の奥に、針で突いたような鋭い光が宿るのを、彼は知っていた。それは、カイ自身にも理解できない、矛盾した確信の光だった。
第三章 英雄の光芒
エラの熱意に押し切られる形で、カイは彼女の調査に付き合うことになった。『大崩落』の唯一の生存者にして、語り継がれる英雄、リオンという老人に会うために。
郊外の静かな邸宅で暮らすリオンは、カイたちを温かく迎え入れた。彼の周囲には、目も眩むほどの力強い光が満ち溢れていた。それは、自らの経験に対する絶対的な確信から生まれる光芒だった。彼は皺の刻まれた顔をほころばせ、旧王都が地鳴りと共に崩れ落ちた日のことを、何度も語り継いできた物語として、流暢に話し始めた。
「天は裂け、地は叫びをあげておった。わしは、瓦礫の中から奇跡的に赤子を一人、救い出してな……」
彼の語る英雄譚は、現在の公式記録と一言一句違わぬものだった。人々が信じる物語、そのもの。エラは感動に打ち震え、彼の言葉を熱心に記録している。
しかしカイは、その眩い光の中に、奇妙な違和感を覚えていた。光が強すぎるのだ。まるで、誰かが意図的に輝かせているかのように、自然な記憶の揺らぎが一切ない。そして、カイが注意深く目を凝らすと、その圧倒的な光の奥に、ほんの一瞬、インクを落とした水のように黒い影が揺らめくのが見えた。
第四章 記録庫の囁き
リオンの話に満足できないカイは、エラを記録院の地下深く、非公開の物理アーカイブ庫へと案内した。ここは、デジタルのように瞬時に書き換わることのない、紙や羊皮紙の記録が眠る場所。世界の書き換えの影響を最も受けにくい聖域とされていた。
埃の匂いが鼻をつく。カンテラの灯りを頼りに、二人は『大崩落』に関する最も古い記録を探し出した。黄ばんだ紙片に記された記述は、現在の公式記録とは全く異なっていた。そこには、地殻変動でもエネルギー暴走でもなく、「空に開いた『穴』から『何か』が降り注いだ」という、およそ非科学的な、しかし生々しい恐怖に満ちた言葉が綴られていた。
「これよ、カイ! これが真実に繋がる鍵よ!」
エラが興奮に声を震わせた、その時だった。
ぞわり、とカイの肌が粟立った。アーカイブ庫にいる他の記録官たちの足元から、急速に霧が湧き上がり始めたのだ。古い記録という「異物」に触れたことで、彼らの集合的意識が警鐘を鳴らし、それを排除しようと蠢き始めている。世界の自己修正機能が、すぐそこまで迫っていた。
「エラ、もう行こう。ここに長居は危険だ」
カイは彼女の腕を掴んだ。その瞬間、彼は見てしまった。エラの記憶から放たれていた鮮やかな光が、急速に色を失い、頼りない霧へと変わっていく様を。
第五章 鏡の真実
それは、津波のようだった。目に見えない巨大な波が、記録院全体を飲み込んでいく。棚から書物が滑り落ち、周囲の職員たちが一様に混乱した表情で頭を抱える。世界の『書き換え』が、かつてない規模で発生していた。
「私の……記憶が……何が、本当なの……?」
エラが膝から崩れ落ちる。彼女の確信の光は、完全に消え失せていた。古い記録と、世界が強制する新しい記録の狭間で、彼女の精神が引き裂かれようとしている。
彼女を守らなければ。
そう思った瞬間、カイの意思とは無関係に、彼の内側から凄まじい力が溢れ出した。それは、世界そのものを覆い尽くさんばかりの、濃密で、冷たい霧。霧は奔流となって『書き換え』の波と衝突し、その進行を押し留めた。周囲の混乱が、嘘のように静まる。
呆然とするエラの視線が、カイに突き刺さる。カイ自身も、何が起きたのか理解できずにいた。震える手で、懐の手鏡を取り出す。
鏡を、覗き込む。
そこに映っていたのは、もはや霧に覆われた曖昧な青年ではなかった。鏡の中のカイの全身から、かつてリオンが見せた光芒すら霞むほどの、圧倒的で、絶対的な確信の光が放たれていた。
そして、揺らめく鏡面の奥に、幻が映った。空に巨大な裂け目が走り、そこから名状しがたい『何か』が世界に侵食してくる光景。旧王都が、悲鳴もなく塵へと変わっていく、真実の光景。
カイは、全てを思い出した。
『大崩落』の真実を、彼は知っていた。誰よりも正確に。
そして、この世界がその真実に耐えられないことも。
だから彼は、自らの強すぎる確信の力で、その記憶に蓋をした。世界が真実を認識しないよう、全てを曖昧な霧で覆い隠し、偽りの英雄という灯台を立て、人々の意識を逸らし続けてきたのだ。
『大崩落』の真実が霧に包まれていたのではない。
カイが、霧で包んでいたのだ。
第六章 霧の守人
『大崩落』の真相は、災害などではなかった。世界の法則、その根幹を記述するプログラムにバグが生じ、高次元からの侵食が始まったのだ。もし人々の集合的意識がその「バグ」の存在を『真実』として認識してしまえば、世界は法則の矛盾に耐えきれず、瞬時に崩壊する。
カイは、その唯一の目撃者であり、生き残りだった。そして、この世界の崩壊を防ぐために、たった一人で途方もない役目を自らに課したのだ。
彼は守人だった。世界の終わりから、世界そのものを守るための。
「君は……ずっと、一人で……」
エラの声が震えていた。彼女はカイの瞳の奥に、百万年にも等しい孤独と、神々しいまでの決意の色を見ていた。カイの放つ光は、真実を知るがゆえの確信の光であり、同時に、その真実を永遠に秘めるという、悲しい覚悟の光でもあった。
カイは静かに微笑んだ。それは、全ての重荷を受け入れた者の、穏やかな笑みだった。
「誰かが、やらなければならなかった。ただ、それだけだよ」
第七章 揺らがぬもの
記録院の静寂の中、カイはエラの額にそっと手を触れた。温かい光が、彼の指先から彼女の記憶へと流れ込んでいく。
「もう、お忘れ。君が求める真実は、ここにはない」
それは、彼女を守るための、彼ができる唯一の優しさだった。エラの瞳から探求の光が消え、穏やかで平凡な歴史学者のそれへと戻っていく。彼女は何も覚えていないだろう。カイという男と出会ったことも、世界の秘密に触れかけたことも。
一人になったカイは、再びいつもの記録官の席に戻った。彼の視界には、相変わらず人々の記憶が織りなす霧と光が渦巻いている。だが、もうそれに惑うことはない。
彼は懐の手鏡を机の上に置いた。
鏡面は絶えず揺らめき、世界の不確かさを映し出している。
しかし、そこに映るカイの瞳だけは、どんな時も、静かで、揺るぎない光を湛えていた。
彼はこれからも、世界の誰にも知られることなく、この霧の中でたった一つの真実を守り続ける。
それが、彼の存在理由であり、終わることのない孤独な使命。
世界が美しいままであるための、たった一つの、確かなことだった。