プリズムの囚人
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プリズムの囚人

第一章 割れた鏡像

各務蓮(かがみ れん)の一日は、予言から始まる。洗面台の鏡に向かうと、ガラスの向こうの自分が、まだ熱くもないコーヒーポットを左手に落とし、眉をひそめている。火傷の、まだ訪れない熱に。蓮はため息をつき、棚から布巾を取り出した。一分後、予言通りにポットが手から滑り落ちたが、彼はそれを床に用意した布巾の上に見事に着地させた。彼の鏡は、『現在』を映さない。常に、正確に『一分後の未来』を映し出す。

その朝も、世界は一つの事件で揺れていた。著名な物理学者、エルハルト・シュタイン博士の殺害。テレビのスピーカーが吐き出す声は、奇妙な熱を帯びて分裂していた。

「……犯人は長身の男、凶器は青い柄のナイフと断定……」

チャンネルを変えると、別のキャスターが深刻な顔で語る。

「……複数の目撃者によれば、犯人は小柄な女性で、絞殺と見られています……」

さらに変えれば、爆殺説、毒殺説。犯人も凶器も、殺害場所さえ、まるで気まぐれな神がサイコロを振るように増殖していた。これが、この世界の法則。『認識分裂』。強い衝撃を伴う出来事は、人々の認識を砕き、それぞれが信じる『本物』の現実を無数に生み出す。真実は、万華鏡の破片のように散らばり、決して一つに集まることはない。

蓮はテレビを消した。窓の外、雨粒がアスファルトを叩く音だけが、唯一の確かな現実のように響く。彼は古書店を営んでいる。静寂と、埃の匂いと、誰かの手垢に染まった物語だけが、彼の分裂しない世界だった。しかし、その朝、鏡が映し出したのは、コーヒーをこぼす自分ではなかった。鏡の中の蓮は、恐怖に目を見開き、震える手で胸元を抑えていた。その視線の先にあるはずのない、冷たい鉄格子。そして、その向こうで横たわる、死んだはずのシュタイン博士の姿。彼の目は、確かに開いていた。

第二章 分光石のささやき

店のドアベルが、乾いた音を立てて鳴った。くたびれたコートの男が、雨の匂いを連れて入ってくる。

「各務蓮さん、ですね」

男は石井と名乗った。その目は、分裂した現実の数々を見過ぎて、何も信じていない者の色をしていた。

「シュタイン博士の事件で、少しお話を」

博士は、蓮の店の数少ない常連だった。哲学書や古い物理学の専門書を、いつも静かに買っていった。

「博士が最後に目撃されたとされる時刻、あなたには完璧なアリバイがある。それは分かっています」

石井刑事は、カウンターに置かれた本の背を無感動に指でなぞる。

「ただ、一つだけ奇妙なものが。博士の胸ポケットから、これが」

彼がテーブルに置いたのは、小さな証拠品袋。中には、銀の鎖につながれた乳白色の石のペンダントが入っていた。光を受けて、内部で虹色の粒子が揺らめいている。

「『分光石』だそうです。博士のオリジナルだとか」

蓮が何気なくそれを手に取った瞬間、世界が歪んだ。

ペンダントの石が、彼の瞳に焦点を結ぶ。それは万華鏡だった。しかし、映し出されたのは幾何学模様ではない。鮮明な光景。白い壁、白い床、どこにも継ぎ目のない、無限に続くかのような空間。そして、一分後の未来――そこに囚われたシュタイン博士が、苦悶の表情でこちらに手を伸ばしている姿が、一瞬だけ映って消えた。

蓮は息を呑み、動悸を悟られまいと必死に平静を装った。

「……綺麗な石ですね」

「ええ。ただの石ですよ」

石井はそう言ってペンダントをしまい、何も見つけられなかった失望と共に店を出ていった。雨音が再び、蓮の耳を満たした。だが、もはやそれは静寂ではなかった。助けを求める、声なき声のように聞こえた。

第三章 第五の現実

その夜、蓮は店のシャッターを下ろし、すべての鏡を自分の前に集めた。手鏡、姿見、アンティークの壁掛け鏡。そして、手には刑事からこっそり抜き取っていた分光石のペンダントを握りしめていた。

彼は、鏡に向かって息を詰める。

一分後。

鏡の中の蓮たちが一斉に、ペンダントを眼前にかざす。

蓮もそれに倣い、ペンダントを覗き込んだ。

万華鏡の中に、あの白い空間が広がる。今回は、より長く、鮮明に見えた。空間そのものが、巨大な分光石の内側のように、無数の光のプリズムで構成されている。シュタイン博士は、その中央に浮かぶように座り込み、壁に向かって何かを必死に書きつけていた。数式だ。彼の指先が、見えない壁に光の軌跡を描いていく。

その瞬間、自宅の鏡が、別の未来を映した。

一分後、蓮は床に崩れ落ちている。その手からペンダントが滑り落ち、床に転がっていた。鏡の中の自分は、絶望と理解が入り混じった表情で、虚空を見つめていた。

これが、第五の現実。誰も知らない、博士が生きている世界。そして、その真実を知ることが、絶望に繋がる未来。蓮は冷たい汗が背中を伝うのを感じた。博士は殺されたのではない。隠されたのだ。無数の偽りの死の向こう側、たった一つの『生』の牢獄に。

第四章 虚構の迷宮

手がかりは、ペンダントが映し出す光の模様と、博士が書いていた数式だけだった。蓮は博士が残した蔵書を徹夜で調べ、数式が空間座標を示す特殊なものであることを突き止めた。場所は、郊外にあるシュタイン博士の個人研究室。警察の封鎖はすでに解かれていた。それぞれの「現実」に対応する証拠が散乱し、捜査本部は早々に匙を投げていたからだ。

湿った夜気が肌を刺す中、蓮は研究室に忍び込んだ。中は静まり返り、床には割れたガラス片(ナイフ殺害説の現実)と、焦げ跡(爆殺説の現実)が奇妙に同居していた。まるで悪夢の舞台装置だ。

蓮は壁の本棚を数式通りに操作した。重い音を立てて、隠し扉が開く。

その奥にあったのは、巨大な球体状の装置だった。表面は磨き上げられた黒曜石のようで、内部で淡い光が脈打っている。そして、その手前のコンソールに、一枚のディスクが残されていた。

蓮がディスクを再生すると、モニターにシュタ-イン博士の姿が現れた。それは、事件の数日前に撮影されたものらしかった。彼の表情は、疲労と、そして奇妙なほどの達成感に満ちていた。

「これを見ているのが誰かは分からない。だが、もし君が『特異点』――真実の座標を観測できる者ならば、聞いてほしい」

博士の声は、穏やかだった。

「私が発見したのは、単なる認識の分裂現象ではなかった。宇宙の根源的法則そのものだったのだ。この世界は、確定した『唯一の真実』の重さに耐えられない。真実が顕現した瞬間、すべての可能性は収束し、矛盾を抱えた世界は存在そのものを維持できずに崩壊する」

博士は、目の前の球体を撫でた。

「この『認識分岐エンジン』は、私の最後の研究成果だ。私はこれから、自らの『死』という強大な事象をトリガーに、このエンジンに入る。エンジンは私の死の認識を無限に分岐させ、虚構の現実を量産し続ける。世界は、決して一つに定まることのない、曖昧で脆い平和を維持できるだろう。私は、そのための人柱だ」

第五章 鏡が映す選択

蓮は絶句した。博士は殺されたのではなかった。世界を救うために、自ら無限の牢獄へと入ったのだ。

「君が持つ鏡や、あのペンダントは、この分裂した現実の中で、唯一、分岐の中心である私の座標を指し示すコンパスだ。いわば、真実への鍵だ」

モニターの中の博士が、蓮をまっすぐに見つめる。

「このエンジンには、緊急停止プロトコルがある。それを起動すれば、分岐は停止し、私は解放される。だが、それは私の『真の死』をこの世界に確定させることと同義だ。分裂は収束し、世界は一つの現実を取り戻すだろう。それが、世界の崩壊を招く『絶対的な真実』の解放に繋がるとしても、だ」

博士は、悲しげに微笑んだ。

「選択は、君に委ねる。この偽りの世界を守る看守となるか、あるいは、真実の解放者となるか」

ビデオメッセージは、そこで途切れた。

静寂の中、脈打つエンジンの光だけが、蓮の顔を青白く照らしていた。

第六章 一分後の永遠

蓮は、認識分岐エンジンの前に立った。目の前には、緊急停止用の赤いボタンが、まるで禁断の果実のように鈍い光を放っている。

彼は、ポケットから手鏡を取り出した。

震える手で、鏡を覗き込む。

一分後の未来。

鏡の中の蓮は、ゆっくりと指を伸ばし、赤いボタンを押している。彼の表情は、苦痛と解放が入り混じっていた。そして、彼の背後、鏡の隅に映り込んだ巨大な球体が光を失い、その表面に立つシュタイン博士の幻影が、安らかに微笑んで光の粒子へと変わっていくのが見えた。

真実の解放。博士の死の確定。そして、世界の運命は――。

次に、蓮は分光石のペンダントを覗いた。

万華鏡の中に、もう一つの未来が映る。

一分後、蓮はボタンに背を向けて、研究室の出口へと歩き出している。彼の背中は重く、決して振り返らないという決意に満ちていた。そして、彼の視界から消えたプリズムの牢獄の中で、シュタイン博士が永遠に終わらない数式を、孤独に書きつけ続けている姿が見えた。

偽りの平和。永遠の犠牲。

二つの未来が、彼の両掌で重く輝いていた。偽りの世界で人々が笑う日常か。一人の男を犠牲の上に成り立つ、脆い楽園か。それとも、すべてを破壊するかもしれないが、純粋で絶対的な真実か。

どちらが正しい? どちらが、人間らしい?

蓮は鏡を伏せ、ペンダントを強く握りしめた。彼はもう、一分後の未来を見なかった。見るべきは、ガラスの向こうの幻影ではない。今、ここに立つ自分の心だ。

第七章 プリズムの囚人

数日後、シュタイン博士殺害事件は、また新たな「有力な容疑者」のニュースで世間を賑わせていた。誰もが自分の信じる真実を語り、世界は相変わらず騒がしく、そして平和だった。

古書店のカウンターで、蓮は静かにコーヒーを淹れていた。豆を挽く香りが、古い紙の匂いと混じり合う。

彼は洗面所へ向かい、鏡を見た。

そこには、一分後、淹れたてのコーヒーを静かに味わう、穏やかな表情の自分がいた。

蓮は、鏡の中の自分に、静かに頷いた。

彼の胸元で、分光石のペンダントが静かな光を放っている。

彼は選択したのだ。真実の解放者ではなく、偽りの世界の看守になることを。一人の英雄を、永遠にプリズムの牢獄に閉じ込めることで、この分裂した世界の均衡を守ることを。

その選択の重みを、彼はこれから先、永遠に背負っていく。鏡が映し出す一分後の未来と共に。一日千四百四十回、彼は自らの決断の結末を、その静かな瞳で受け止め続けるのだ。


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