縁斬りの咎人
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縁斬りの咎人

第一章 灼熱の偽り

肌を焼く。じり、と音を立てるかのような熱が、左の二の腕を灼く。往来の物売りの声だ。「買ったばかりの魚が、飛ぶように逃げちまってねえ!」という、ありふれた言い訳。その些細な嘘が、蒼月(そうげつ)の肌に新たな火傷を刻む。

彼は、人の発する『嘘』を、肌で感じる。偽りの言葉は熱となり、彼の皮膚を焦がすのだ。強ければ強いほど火傷は深く、時に命を脅かす。故に蒼月は人を避け、世を捨てた浪人として、江戸の片隅で息を潜めていた。着流しの下は、常に生傷とそれを覆う包帯で、鉄錆の匂いが染みついている。

その日、蒼月のあばら家を訪ねてきた者がいた。雨上がりの湿った土の匂いと共に現れたのは、朝廷に仕える公家、橘家の姫君、小夜(さよ)だった。彼女の言葉は、まるで澄んだ湧き水のように、蒼月の肌を灼かなかった。

「お尋ねしたい儀があり、参りました。蒼月様」

凛とした声には、偽りの熱がない。蒼月は久方ぶりに感じる安らぎに、思わず目を細めた。

「……人違いであろう」

蒼月が放った言葉は、彼自身の肌をわずかに灼いた。自分を守るための、小さな嘘。

しかし、小夜は静かに首を横に振る。「いいえ。貴方様が、かつて将軍家の影として、あらゆる偽りを見抜いてこられた御方だと存じております」

その言葉に、蒼月は息をのんだ。彼の過去を知る者は、もういないはずだった。

小夜は、国の根幹を揺るがす大事件を語り始めた。数日前、国の礎である『将軍と朝廷の縁(えにし)の紐』が、何者かによって断ち切られたのだという。

この世界では、強い誓いや約束は『縁の紐』として人の目に映る。将軍家と朝廷を結ぶ紐は、民の安寧の象徴であり、光り輝く最も太い一本だった。それが今、ぷっつりと切れ、結んでいた者たちは皆、互いに関する記憶を失い、国は混乱と不信の渦に叩き込まれている。

「父も、大切な記憶を……。どうか、この国を覆う大嘘の正体を、見つけ出してはいただけませぬか」

小夜の瞳は、雨に濡れた紫陽花のように潤んでいた。その真摯な眼差しから逃れる術を、蒼月は持ち合わせていなかった。

第二章 見えぬ縁、失われた記憶

江戸城は、澱んだ嘘の匂いに満ちていた。

「朝廷の仕業に相違あるまい」「いや、幕府内の裏切り者だ」

行き交う武士たちの言葉が、見えざる針となって蒼月の全身を刺す。肌の疼きを堪え、彼は縁の紐が切られたという祭儀の間へ向かった。

そこは、異様な静寂に包まれていた。かつて部屋の中央を貫いていたはずの、黄金に輝く縁の紐は跡形もなく、ただ虚空が広がっている。紐を失った影響か、将軍も、詰めている重臣たちも、どこか焦点の定まらない目で互いを探り合っていた。彼らの言葉は憶測と保身に満ち、そのすべてが蒼月の肌を灼き、包帯の下でじくじくと血を滲ませた。

蒼月は目を閉じ、感覚を研ぎ澄ませる。嘘の熱気の奥に、微かに残る異質な気配を探った。

ふわり、と鼻腔をかすめる甘い香り。

それは、この季節、この江戸のどこにも咲かぬはずの花の香りだった。まるで、遠い記憶の底から呼び覚まされるような、懐かしくも切ない香り。しかし、それが何であるかまでは思い出せない。

「何か、お気づきに?」

いつの間にか隣に立っていた小夜が、蒼月の袖を引いた。彼女の存在だけが、この嘘に満ちた城内で唯一の涼風だった。

「……残り香がする。ただ、それだけだ」

蒼月は短く答え、焼け付くような痛みが増す前に、その場を後にするしかなかった。真実への手がかりは、あまりにも朧げだった。

第三章 砕けぬ鏡、歪む真実

「これは、我が家に伝わる『真実を映す柄鏡(つかがみ)』にございます」

蒼月の元へ戻った小夜が、白木の箱から古びた手鏡を取り出した。銀の鏡面は曇り、精緻な鳥の彫刻が施された柄だけが鈍い光を放っている。

「嘘偽りが向けられると、その根源にある『真実』の欠片を映し出すと。しかし、強い嘘を映せば、鏡も傷つくとか……」

蒼月はその柄鏡を受け取った。ひやりとした金属の感触が、火照った手のひらに心地よい。これがあれば、嘘の痛みの中に飛び込まずとも、真実に近づけるかもしれなかった。

蒼月は柄鏡を手に、再び重臣たちと対峙した。

老中の一人に、事件当夜のアリバイを問う。男は淀みなく答えたが、その言葉が嘘であることは、蒼月の肌を灼く熱が示していた。すかさず、男に柄鏡を向ける。

鏡面が、一瞬だけ陽炎のように揺らめいた。そこに映ったのは、病に伏せる妻の手を握る、男の姿。彼は出世のために縁談を画策しており、事件の夜はその相手と密会していたのだ。国の危機よりも、己の保身と家族を優先した、哀れな男の真実。

鏡面に、ぴしり、と髪の毛ほどの細いヒビが入った。

次々と嘘を暴いていくたび、鏡のヒビは増えていく。映し出されるのは、野心、嫉妬、恐怖といった、人間の弱さばかり。誰もが犯人ではなかったが、誰もが無実ではなかった。そして、調査が進むにつれ、蒼月は奇妙な事実に気づき始める。将軍と朝廷の強すぎる縁は、安寧の象徴であると同時に、多くの者たちの自由を奪い、新たな才能を封じ込める、重い『枷』としても機能していたのだ。

第四章 時を超える花の香り

祭儀の間に残っていた花の香りが、蒼月の心を捉えて離さなかった。古い文献を漁り、ついにその正体を突き止める。

『時忘れ草』。

遥か未来の世にのみ咲くとされる、幻の花。その香りを嗅いだ者は、一時的に最も悲しい記憶を忘れるという。なぜ、そんなものがここに?

思考が、あり得ない可能性へと向かい始めたその夜。男は現れた。

月光を背に、蒼月の前に立ったその男は、着流しこそ違うが、背格好、そして刀の構えが、鏡に映した自分自身のように酷似していた。唯一違うのは、その顔の半分を覆う、見るもおぞましい火傷の痕。

「ようやく気づいたか」

男の声は、蒼月のものより低く、乾いていた。だが、不思議なことに、その言葉は蒼月の肌を灼かなかった。真実。この男の言葉は、すべてが真実なのだ。

二つの影が交錯する。男の剣筋は、蒼月が知る己の剣術そのもの。しかし、一太刀一太achiが比べ物にならぬほど重く、鋭い。蒼月は瞬く間に追い詰められ、土の上に膝をついた。

「その縁は、切られねばならなかった」男は、倒れた蒼月を見下ろし、静かに告げた。「強すぎる光は、深い影を生む。この国は、その光によって緩やかに死に向かっていたのだ」

男は蒼月が懐に忍ばせていた柄鏡を指差す。「その鏡が、お前を最後の真実へと導く。だが、心せよ。真実とは、時として刃よりも深く人を傷つけるものだ」

そう言い残し、男は闇の中へと消えた。時忘れ草の甘い香りを、あとに残して。

第五章 我こそが咎人

己こそが、犯人なのではないか。

その疑念は、一度芽生えると、毒のように蒼月の心を蝕んでいった。あの男は、一体何者なのか。なぜ、自分と同じ剣を使う? なぜ、彼の言葉は嘘の熱を帯びていない?

答えを求め、蒼月は震える足で再び祭儀の間へと向かった。がらんとした空間の中央に立ち、懐からヒビだらけの柄鏡を取り出す。これが最後の機会になるだろう。砕け散る覚悟で、彼は鏡面を自分自身に向けた。

「……縁斬りの咎人は、誰だ」

絞り出した声は、自分のものではないように聞こえた。

その瞬間、柄鏡が悲鳴のような甲高い音を立て、眩い光を放った。鏡面が映し出したのは、見慣れた自分の顔ではなかった。

――そこには、未来が映っていた。

将軍と朝廷の強固な縁は、やがて絶対的な支配体制へと変貌し、人々の自由な意志を奪っていた。新しい思想や技術は生まれず、国は活力を失い、ただ緩やかに停滞し、滅びを待つだけの世界。嘘は存在しないが、希望もまた存在しない、窒息するような平穏。

そして、その灰色世界の片隅で、絶望に打ちひしがれる一人の男の姿があった。顔には深い火傷の痕。かつて、嘘を見抜く力を持ちながら、国の緩やかな死を止められなかった後悔に苛まれる、老いた蒼月自身の姿だった。

未来の彼は、最後の希望を賭け、禁断の術で時を超えた。滅びの根源となった強すぎる縁を、その始まりの時代で断ち切るために。未来を救うという、たった一つの真実のために、国家を揺るがす大嘘を仕組んだのだ。

映像の最後に、未来の自分が祭儀の間で光り輝く縁の紐に刀を振り下ろす姿が映る。

パリン、とガラスが砕けるような音が響き渡り、蒼月の手の中で、真実を映す柄鏡は粉々に砕け散った。

第六章 夜明けに紡ぐ縁

すべての真実が、砕けた鏡の破片のように蒼月の心に突き刺さる。呆然と立ち尽くす彼の背後に、あの男――未来の蒼月が、静かに姿を現した。

「お前が私だ。そして、私が、お前だ」

未来の自分は、諦観と悲しみを湛えた目で蒼月を見つめた。「私は、この過ちを正すために来た。痛みと混乱なくして、新たな芽吹きはない。この国には、人々が自らの手で未来を選ぶ、不確かだが自由な縁が必要なのだ」

未来の蒼月は、ゆっくりと刀を抜いた。「さあ、選べ。私を斬り、定められた滅びの未来を受け入れるか。あるいは、この『咎』を背負い、新たな時代の礎となるか」

それは、究極の選択だった。過去の自分が、未来の自分を裁く。

蒼月もまた、静かに刀を抜いた。切っ先が、月光を弾いて鈍く光る。二人の蒼月が、時を超えて対峙する。

次の瞬間、蒼月の刃が閃いた。それは、未来の自分を斬り裂く、鋭い一閃だった。しかし、その刃に憎悪や否定の色はなかった。

「あんたの覚悟は、確かに受け取った」

血を流しながら、未来の自分は驚いたように目を見開く。

「だが」と蒼月は続ける。「未来は、あんたが決めるものではない。俺が決めるものでもない。この時代に生きる者たちが、痛みの中で、迷いながら、自らの手で紡いでいくものだ。あんたが過去に干渉したように、俺もまた、あんたが作った未来を書き換える」

それは、滅びを受け入れるのでも、計画を肯定するのでもない、第三の選択。この『嘘』から始まる混乱を受け入れ、その上で、より良い未来を自らの手で築き上げるという、茨の道を選ぶ決意だった。

未来の蒼月は、満足げに微笑んだ。その顔の火傷の痕が、少しだけ和らいで見えた。彼の身体は足元から光の粒子となって崩れ始め、やがて完全に消え去った。

一人残された蒼月は、夜明けの光が差し込み始めた空を見上げた。肌を灼く嘘の痛みは、まだ世界から消えてはいない。だが、彼の胸には、痛みと共に生きていく覚悟と、小夜と共に新たな縁を紡いでいく未来への、静かな希望の光が灯っていた。


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