錆の聲

錆の聲

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第一章 ひとひらの依頼

神田の裏通り、陽の光さえ届くのをためらうような細い路地に、橘宗佑の仕事場はあった。煤けた格子戸に掲げられた「研処 橘」の看板は、墨の色も掠れ、辛うじて読める程度だ。宗佑は、ここで刀や脇差、時には農具の鍬まで、あらゆる刃物を研いで糊口をしのいでいた。

かつては小藩ながら剣術指南役の家柄。しかし、父の代で全てを失い、今では武士としての誇りも、錆びついた刀身のように心の奥底で鈍い光を放つだけだった。宗佑は、訪れる客ともろくに目を合わさず、ただ黙々と砥石に向かう。その背中には、世を拗ねた若者の諦念が染み付いていた。

ある雨の午後、その静寂を破るように、からりと格子戸が開いた。振り向きもせず、宗佑は「そこに置いとけ」とぶっきらぼうに言った。しかし、返ってきたのはか細く、それでいて芯のある娘の声だった。

「これを、お願いできますでしょうか」

宗佑が億劫そうに顔を上げると、そこに立っていたのは、年の頃十六、七ほどの娘だった。洗いざらしの藍色の着物は質素だが、雨に濡れた黒髪が艶やかで、澄んだ瞳がまっすぐに宗佑を見つめていた。娘は、古びた布に包まれたものを、そっと作業台の上に置いた。

布を解くと、現れたのは一本の脇差だった。鞘はところどころ漆が剥げ、柄糸は擦り切れている。宗佑はため息混じりにそれを抜き放った。現れた刀身は、赤錆が浮き、刃こぼれもひどい。およそ武士が佩くような代物ではなかった。

「ひどいもんだな。こんな安物を研いでも、たかが知れてるぞ」

皮肉を込めて言うと、娘は少しだけ眉をひそめたが、すぐに静かな声で言った。

「父の、唯一の形見なのです。どうか、もう一度だけ、この刀に光を戻してあげてくださいまし」

小夜、と名乗るその娘の瞳に宿る切実な光に、宗佑は何かを言おうとして口をつぐんだ。金になる仕事とも思えなかったが、断る理由も見つからない。

「……三日後に来い」

そう短く告げると、宗佑は再び砥石に向かった。

その夜、仕事場の灯りの下で、宗佑は脇差の錆を落とし始めた。金剛砥で荒々しく表面を削り、内曇砥で慎重に地肌を整えていく。鉄の匂いと、砥石の擦れる音だけが室内に満ちる。

作業を進めるうち、宗佑の指先に奇妙な感触が伝わった。安物だと思っていた鋼の質が、驚くほどきめ細かい。鍛えに鍛えられた、粘りのある感触。そして、錆の下から現れた刃文は、まるで打ち寄せる波のような、複雑で美しい互の目乱れだった。

「……なんだ、これは」

宗佑の心に、小さなさざ波が立った。これはただの脇差ではない。名のある刀工の仕事だ。彼は急かされるように作業を進め、最後に柄を外し、刀身の根元である茎(なかご)を確かめた。

そこに刻まれた銘を見た瞬間、宗佑は息を呑んだ。

『備前長船景光』

それは、かつて父が誇りとしていた愛刀と同じ刀工の名だった。なぜ。なぜ、こんなみすぼらしい脇差に、父の刀と同じ銘が?そして、なぜあの娘がこれを持っているのか。

雨音に混じり、錆びついた過去が、きしむような音を立てて動き始めた気がした。

第二章 魂の在り処

翌日から、宗佑の仕事ぶりは変わった。彼は他の依頼をすべて断り、ただひたすらに景光の脇差と向き合った。それはもはや仕事ではなかった。この脇差に秘められた謎を、自らの手で解き明かすための儀式に近い。

砥石を滑る刃の音を聞きながら、宗佑は忘れていた父の記憶を辿っていた。父・宗一郎は、藩で随一の剣の使い手だった。清廉で、不正を許さぬ気性の持ち主。その父が、藩の重臣の不正を告発しようとし、逆に汚名を着せられて藩を追われたのは、宗佑がまだ十にも満たない頃だった。

江戸での浪人暮らしは過酷だった。父は酒に溺れ、誇りだった剣の腕も鈍り、かつての面影はどこにもなかった。宗佑にとって父は、尊敬と失望が入り混じった、複雑な存在だった。なぜ戦わなかったのか。なぜ諦めたのか。その問いは、父が病で孤独に死んだ後も、宗佑の心に棘のように刺さり続けていた。

三日後、小夜が再び姿を現した。脇差はまだ仕上がっていなかった。

「申し訳ないが、まだ時間がかかる」

いつもならあり得ないことだった。宗佑の詫びに、小夜は静かに頷いた。

「構いません。……この刀は、急いでおりませんので」

そう言って微笑む彼女の横顔に、宗佑はふと、何かに耐えるように唇を噛んでいた父の姿を重ねた。

「あんたの親父さんは、どんな人だったんだ」

思わず、口から言葉が漏れていた。

小夜は少し驚いたように目を見開いたが、やがて遠くを見るような瞳で語り始めた。

「父は……とても優しい人でした。でも、いつもどこか寂しそうで、何かを悔いているような……。私が物心ついた頃には、もう武士ではなく、小さな小間物屋を営んでおりました」

その言葉は、宗佑の知る武士の姿とはかけ離れていた。

それから数日、小夜は毎日仕事場に顔を見せるようになった。手伝いをするでもなく、ただ静かに宗佑の仕事を見守っている。その沈黙は、不思議と宗佑の心を落ち着かせた。彼は、初めて他人に心を許しかけている自分に戸惑っていた。

脇差は、研ぎ進めるほどにその本来の輝きを取り戻していった。地肌に浮かび上がる地景(ちけい)は夜空の星々のようで、刃文は凍てついた冬の川面のようだ。宗佑は、この刀身に込められた刀工の魂、そして持ち主であった誰かの魂を感じずにはいられなかった。この魂の在り処を、突き止めなければならない。その思いが、彼を突き動かしていた。

第三章 裏切りの刃文

脇差の謎に取り憑かれた宗佑は、古くからの付き合いがある情報屋に、景光の刀と父にまつわる一件を調べさせていた。そして、ある夜、衝撃的な知らせがもたらされる。父を陥れた藩の重臣・黒田左衛門が、今もなお藩内で権勢を振るっていること。そして、父には一人だけ、その志を共にする親友がいたという事実だった。その名は、村上源之助。

その直後だった。仕事を終え、戸締りをしようとした宗佑の耳に、路地の奥から短い悲鳴と争うような物音が聞こえたのは。胸騒ぎを覚え、駆けつけると、数人のならず者風の男たちが小夜を取り囲んでいた。

「お嬢さん、いい加減に諦めてもらうぜ。その脇差を渡せば、悪いようにはしねえ」

「……できません!」

小夜の毅然とした声が響く。宗佑は、考えるより先に体が動いていた。手元にあった樫の木の棒を握りしめ、男たちに殴りかかる。久しく振るっていなかった剣術の型が、体に染み付いていたかのように蘇る。数合打ち合った末、男たちは捨て台詞を残して闇に消えていった。

「……大丈夫か」

息を切らしながら尋ねる宗佑に、小夜は震える声で礼を言った。彼女の腕には、男に掴まれた跡が赤く残っている。

仕事場に戻り、薬を塗りながら、宗佑は決意して口を開いた。

「全部、話してくれ。あの脇差のこと、あんたの親父さんのこと。そして、なぜ狙われるのか」

小夜はしばらく俯いていたが、やがて顔を上げ、ぽつりぽつりと真実を語り始めた。その内容は、宗佑の心を根底から揺るがすものだった。

「私の父の名は、村上源之助と申します」

宗佑は息を呑んだ。情報屋から聞いた、父の唯一の親友の名だった。

「父と、貴方のお父上である宗一郎様は、共に黒田の不正を正そうとした同志でした。しかし……黒田は父の家族を人質にとり、宗一郎様を裏切るよう脅迫したのです。父は……屈してしまいました。たった一人で罪を被り、藩を追われる宗一郎様の背中を、父は涙ながらに見送ることしかできなかった、と」

宗佑の頭の中で、何かが砕ける音がした。失望の対象でしかなかった父の姿が、まったく違うものに変わっていく。

「父は武士を捨て、江戸で名を変えて暮らしました。裏切った罪を、生涯背負い続けるために。そして、死ぬ間際に、私にこの脇差を託しました。『これは、わしが橘殿を裏切った証であり、贖罪の証だ。わしの魂は、この刀身と共に錆びついてしまった。いつか、橘殿の御子息である宗佑殿を探し出し、これを渡してほしい。そして、許しを請うてくれ』と……」

脇差は、もともと一対の「大小」として作られたものだった。宗佑の父が「大」を、そして村上源之助がこの「小」の脇差を。二人は、同じ志を持つ証として、生涯の友の証として、それを分け合っていたのだ。

小夜の父は、己の魂の象徴である脇差を、あえて手入れもせず錆びつかせることで、己への罰としていたのだ。

父は、親友に裏切られた絶望の中で死んだのではなかった。彼は、友の苦しみも、その家族のことも、全てを理解した上で、一人で罪を背負ったのだ。酒に溺れた姿も、あるいはその苦悩を隠すための仮面だったのかもしれない。

父の沈黙は、諦念ではなく、あまりにも深い優しさだった。

宗佑の頬を、熱いものが伝った。それは、父を誤解していた自分への悔恨の涙であり、父の真実の姿を知った安堵の涙でもあった。

第四章 夜明けの刃

全ての真実を知った宗佑の目には、もはや迷いはなかった。彼は脇差を手に取ると、最後の仕上げに取り掛かった。それは、父・宗一郎と、その友・村上源之助、二人の武士の魂を、この世に再び輝かせるための、荘厳な儀式だった。

夜を徹して、宗佑は刃を研いだ。指先から血が滲むのも構わず、神経のすべてを刃先に集中させる。夜明けの光が障子に差し込む頃、脇差はついにその真の姿を現した。

息を呑むほどに澄み渡った刀身。光を浴びてきらめく刃文は、ある部分では悲しみに濡れた涙の跡のように見え、またある部分では夜明けの空に立ち上る雲のように、雄大な決意を示しているようにも見えた。

錆の奥底に眠っていた、二人の武失の魂が、今、確かに蘇っていた。

宗佑は、研ぎ上げた脇差を桐箱に収め、小夜の前に差し出した。

「あんたの親父さんの魂だ。受け取ってくれ」

しかし、小夜は静かに首を横に振った。

「いいえ。これは、貴方がお持ちになるべきものです。父の魂は……貴方のその手で研ぎ澄まされたことで、ようやく救われました。そして今、父はきっと、宗一郎様の隣で、貴方に全てを託したいと願っているはずです」

小夜の澄んだ瞳に見つめられ、宗佑は静かに頷き、桐箱を受け取った。ずしりと重い。それはもはや鉄の塊の重さではなかった。父の誇り、友の悔恨、そして二人の果たせなかった志。その全てが宿った、魂の重さだった。

数日後、宗佑は旅支度を整えていた。腰には、あの景光の脇差が差してある。仕事場には「しばらく留守にする」との張り紙。彼は、父と村上源之助が果たせなかった志を継ぎ、黒田の不正を暴くため、故郷の藩へと向かう決意を固めていた。

もう、そこに世を拗ねた研ぎ師の姿はない。錆びついていた自らの魂を研ぎ澄ませた、一人の男の凛とした顔つきがあった。

格子戸の前で、小夜が見送っていた。

「……必ず、戻る」

宗佑の言葉に、小夜は何も言わず、ただ深く頷いた。その瞳には、不安と、それ以上の信頼が満ちていた。

朝日を背に、宗佑は江戸の町を後にして歩き出す。その先にある道が、どれほど険しいものか、彼自身にも分からない。しかし、彼の足取りに迷いはなかった。腰の脇差が、まるで父とその友が共にいるとでも言うように、確かな重みで彼の覚悟を支えていた。錆びついていた声は、今、彼の内なる声となり、未来への道を照らしている。物語は、まだ始まったばかりだった。

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