音の景色、鍔の誓い

音の景色、鍔の誓い

0 4950 文字 読了目安: 約10分
文字サイズ:

第一章 鉛色の依頼

江戸の片隅、神田の裏長屋に、桐生惣十郎(きりゅうそうじゅうろう)は工房を構えていた。彼は鍔師(つばし)であったが、その腕は知る人ぞ知るという程度で、暮らしは常に困窮していた。元は武士の家に生まれたが、家はとうに取り潰され、今では腰に差す刀も、魂の抜け殻のように鞘の中で沈黙している。

惣十郎には、生まれついての奇癖があった。彼にとって、音は色だった。鳥のさえずりは若葉色の細い線となり、子供らのはしゃぎ声は橙色の飛沫となって目に映る。人の声は、その感情によって千変万化した。誠実な言葉は澄んだ空色に、偽りの言葉は淀んだ泥水の色に見える。この世界は、常人には見えぬ色彩の洪水に満ちていた。それは時に美しく、しかし、ほとんどの場合は惣十郎を苛む呪いであった。人の悪意や欺瞞が、醜い色となって彼の視界を汚すからだ。故に彼は人を避け、槌の音だけが支配する静かな工房に引きこもっていた。

ある雨の日の午後だった。工房の引き戸が静かに開かれ、上質な絹の羽織をまとった武士が立っていた。齢は五十がらみ、鋭い目つきと整えられた髭に、相応の身分であることが窺える。

「桐生惣十郎殿でおられるかな」

その声は、穏やかで威厳があった。だが、惣十郎の目には、その声が深い鉛色となって映った。まるで、重く冷たい雲が工房に流れ込んでくるようだ。時折、その鉛色の中に、ちろりと血のような赤い閃光が混じる。惣十郎は、全身の肌が粟立つのを感じた。

男は、高月藩の家老、榊原監物(さかきばらかんもつ)と名乗った。

「貴殿の作る鍔の評判を耳にしてな。ぜひ、儂のために一つ作っていただきたい」

榊原は、一つの依頼を持ち込んできた。それは、世に二つとない美しい鍔を作ってほしいというものだった。報酬として提示された額は、惣十郎が一年かかっても稼げぬほどの法外なものだった。

「意匠は、亡き妻が愛した笛の音色を……形にしてほしいのだ」

榊原はそう言って、懐から一本の古びた竹笛を取り出した。その言葉には、妻を偲ぶ情愛が滲んでいるように聞こえた。しかし、惣十郎の目には、その声から放たれる鉛色が、さらに濃く、粘り気を増していくのが見えた。心の奥底に、得体の知れない澱(おり)が溜まっている。

断るべきだ。惣十郎の裡なる声が叫んでいた。この男は危険だ。この依頼の先には、およそろくなことが待っていない。だが、空の米びつと、壁の隙間から吹き込む冷たい風が、彼の決断を鈍らせた。この金があれば、少なくとも次の冬は越せる。

「……お受けいたします」

絞り出した声は、自分でも驚くほどか細かった。榊原は満足げに頷き、笛と手付金を置いて去っていった。

後に残されたのは、冷たい金の重みと、工房にまとわりつくような鉛色の残滓。そして、惣十郎の胸を締め付ける、暗い予感だけだった。

第二章 天上の音、破滅の彩

榊原が置いていった笛は、黒光りする見事な竹でできていた。惣十郎は、意を決してそれに唇を当てる。息を吹き込むと、工房の空気が震えた。

それは、音ではなかった。光だった。

惣十郎の目には、今まで見たこともない光景が広がった。笛から溢れ出たのは、透明で、清らかで、それでいて七色に輝く光の粒子だった。それはまるで、天上の調べが形を得て舞い降りたかのようだった。粒子は工房の中をゆっくりと漂い、壁に当たり、槌に触れ、惣十郎の頬を撫でていく。その一つ一つが、完璧な調和を保ち、宇宙の理(ことわり)そのものを体現しているかのように見えた。

彼の呪われた目は、初めて見る「完全な美」に心を奪われた。榊原の声に感じた鉛色の不安など、この輝きの前では些細なことに思えた。これは、亡き妻を想う純粋な心が奏でる音色なのだ。そうに違いない。惣十郎は、自らのすべてを懸けて、この光の景色を鍔に刻み込もうと決意した。

それからの日々は、まさに没我の時間だった。熱した鉄を打ち、鎚を振るう。カン、カン、と響く金属音は、彼には黄金色の火花となって見えた。彼は、あの七色の光の粒子を、鉄の上に永遠に留めようとしていた。渦を巻き、流れ、そして静かに消えていく光の軌跡を、鏨(たがね)の一彫り一彫りに込めていく。食事も睡眠も忘れ、彼はひたすらに鉄と向き合った。

だが、鍔の製作が進むにつれて、惣十郎の周りで奇妙な出来事が起こり始めた。ある夜、工房に何者かが侵入した形跡があった。道具が乱雑に散らばっていたが、盗られたものは何もない。ただ、製作途中の鍔が念入りに調べられたようだった。また、町に出れば、誰かの視線を感じる。振り返っても、そこには雑踏があるだけだ。

不穏な空気は、町の噂話からも伝わってきた。榊原家老の政敵である小野寺派の侍が、立て続けに不審な死を遂げているという。ある者は辻斬りに遭い、ある者は原因不明の病で急死した。町の人々の声は、恐怖と疑念の茶褐色に濁っていた。

惣十郎の脳裏に、榊原の声の「鉛色」と「血の赤」が蘇る。あの天上の音色と、この不吉な出来事が、どうしても結びつかない。美しい光景を追い求める心と、忍び寄る危険を察知する心が、彼の中で激しくせめぎ合っていた。それでも彼は、手を止めることができなかった。目の前の鉄に、あの光を刻み終えるまでは。

第三章 偽りの音色

鍔が九分通り完成した、月のない夜だった。惣十郎が最後の仕上げに打ち込んでいると、背後で微かな衣擦れの音がした。彼が振り返るより早く、冷たい刃が喉元に突きつけられた。

「動くな。その鍔を渡せ」

声は若く、張り詰めていた。しかし、それ以上に惣十郎を驚かせたのは、その声の色だった。それは、悲しみと怒りが混じり合った、深い紫水晶の色をしていた。純粋で、しかし砕け散りそうな危うさを秘めている。

惣十郎はゆっくりと振り返った。そこに立っていたのは、男物の着物を着崩した一人の女だった。その手には、月明かりを弾く小太刀が握られている。

「お前は、榊原の手先か」

女は問うた。その瞳には、憎しみの炎が揺らめいている。

「……違う。俺はただの鍔師だ」

「嘘をつけ。その鍔は、父の……皆の命を奪うための道具だ!」

女は小夜(さよ)と名乗った。彼女は、榊原によって粛清された小野寺派の重臣の娘だった。父の無念を晴らすため、榊原の周辺を探っていたのだという。

小夜の口から語られた真実は、惣十郎の世界を根底から覆すものだった。

榊原が渡した笛は、亡き妻の形見などではなかった。それは、高月藩に古くから伝わる『鳴神の笛』。そして、惣十郎が打ち続けていた鍔は、その笛の音を増幅し、特定の指向性を持たせるための、いわば「音のレンズ」の役割を果たすものだった。

「榊原は、数日後の満月の夜、城下の地下に広がる『鳴龍』と呼ばれる巨大な空洞に向けて、この笛を吹くつもりだ。鍔で増幅された音波は、鳴龍を共鳴させ、大地の揺れを引き起こす。天災に見せかけて、小野寺派の屋敷が立ち並ぶ一帯を、根こそぎ壊滅させるために」

惣十郎は、全身から血の気が引くのを感じた。彼が「天上の美」だと信じて疑わなかったあの七色の光。それは、何百という人々の命を奪う、破滅の彩(いろ)だったのだ。榊原の言葉の裏にあった鉛色と血の赤は、彼のどす黒い野望そのものだった。

美しいと思っていたものが、最も醜いものだった。

人を斬ることを嫌い、刀を捨て、静かに生きてきた自分が、誰よりも大規模な殺戮に加担していた。

「……なんということだ」

惣十郎は工房の床にへたり込んだ。目の前にある、完成間近の鍔が、不吉な輝きを放っているように見えた。彼の呪われた目は、美醜さえも見分けられなかったのか。彼の信じてきたものすべてが、音を立てて崩れ落ちていった。

第四章 心音の太刀

満月の夜。高月城を見下ろす丘の上で、榊原監物は儀式の準備を整えていた。彼の腰には、惣十郎が作り上げた鍔をはめた真新しい刀が差されている。鍔は月の光を浴びて、妖しいほどに美しく輝いていた。

「これで、この藩は儂のものとなる。古きしがらみを一掃し、新たな秩序を築くのだ。多少の犠牲は、大義のためには致し方あるまい」

榊原の声は、野望に満ちたどす黒い色を放ち、夜の闇に溶けていく。

その時、闇の中から二つの影が現れた。惣十郎と小夜だった。

「やめろ、榊原!」

惣十郎の声が、夜の静寂を切り裂いた。

榊原は、二人を冷ややかに見下ろした。「愚かな。大義を解さぬ虫けらが。ちょうど良い、お前たちの血で、この儀式の幕開けを飾ってやろう」

榊原が刀を抜く。それに呼応するように、周囲の闇から数人の配下が姿を現した。

惣十郎は、久しく抜いたことのなかった己の刀を、静かに鞘から引き抜いた。人を傷つけたくない。だが、ここで何もしなければ、さらに多くの命が失われる。彼の心臓は、激しく鼓動していた。その鼓動は、彼自身の目には、不安と決意が入り混じった、燃えるような緋色(ひいろ)に見えた。

斬りかかってくる刺客たち。惣十郎は、初めて自らの意志で剣を振るった。だが、彼の狙いは人ではなかった。彼には、刃と刃がぶつかり合う音、肉を切り裂く音、そのすべてが醜い色となって見えてしまう。彼は、その醜い色を生み出すことを拒んだ。

彼は、相手の太刀筋から発せられる「音」を色として捉え、その軌道を見切る。紙一重で身をかわし、峰打ちで相手の意識を断つ。彼の剣は、殺すための剣ではなく、守るための剣だった。彼の目は、呪いではなかった。この瞬間のために、見えすぎる世界を与えられたのだ。

刺客をすべて退け、惣十郎は榊原と対峙した。

「見事な腕だ。だが、儂を止めることはできぬ!」

榊原は『鳴神の笛』を口にした。あの、七色の光を放つ音が、再び世界に満ちていく。だが、今の惣十郎には、その光の奥に潜む、おびただしい数の悲鳴の色が見えた。

「その音を、奏でさせるものか!」

惣十郎は駆けた。榊原が振り下ろす刃を、己の刀で受け止める。キィン、という甲高い金属音が、耳をつんざく血飛沫のような赤色となって弾けた。

鍔迫り合いの中、惣十郎は見た。榊原の声、そのどす黒い野望の色の中心に、一点だけ、小さな、か細い灰色の点があるのを。それは、恐怖の色だった。大義を掲げながら、その実、彼は自らの行いに怯えているのだ。

「お前の音は、偽りだ!」

惣十郎は叫び、渾身の力で榊原を突き放す。そして、狙いを定めたのは榊原自身ではない。彼が持つ刀、その鍔ごしに突き出た笛の先端だった。

彼の太刀は、夜空を切り裂く一筋の銀色(しろがねいろ)の光となった。

一閃。

乾いた音が響き、『鳴神の笛』は真っ二つに折れて地に落ちた。七色の光は、まるで幻だったかのように霧散し、あたりにはただ、虫の音と風の音だけが戻ってきた。

榊原の陰謀は、こうして潰えた。惣十郎は、深手を負わせはしたものの、誰の命も奪わずに戦いを終えた。

夜が明ける頃、彼は一人、町を去る準備をしていた。

「行くのか」

小夜が、静かに問いかける。

「ああ。俺は、この町にはいられない」

「……また、鍔を作るのか」

惣十郎は、自分の手を見つめた。この手は、美しいものを生み出すこともできれば、恐ろしいものを生み出すこともできる。

「分からない。だが、探してみたいのだ。この目が見る世界で、本当の美しさとは何なのかを。人が奏でる、本当の音の色を」

彼は静かに背を向け、歩き出した。彼の旅は、静寂を求める逃避の旅ではない。世界に満ちる音の色と、正面から向き合うための旅の始まりだった。

幾日か過ぎた頃、惣十郎は山中の古寺に立ち寄った。夕暮れの空に、ゴォーン、と重く、それでいて澄んだ鐘の音が響き渡った。

彼は、足を止めて空を見上げた。

彼の目には、その鐘の音が、すべてを優しく包み込むような、深く、どこまでも穏やかな藍色となって、夕焼けの空に溶けていくのが見えた。

惣十郎の口元に、微かな笑みが浮かんだ。

この世界は、まだこんなにも美しい色で満ちている。彼の旅は、まだ始まったばかりだった。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと3

TOPへ戻る