第一章 無音の訪問者
神保町の古書街の片隅に、僕の店『静寂堂』はひっそりと佇んでいる。埃とインクの匂いが混じり合った空気は、僕にとって唯一の安息だった。なぜなら、ここでは人の「心の音」が紙の壁に吸い込まれ、幾分か和らぐからだ。
僕、水上響(みなかみ ひびき)には、生まれつき奇妙な能力があった。人の感情が、音として聞こえるのだ。喜びは軽やかなハープのアルペジオ、怒りは鼓膜を劈くような不協和音、悲しみは胸を締め付けるチェロの低音。それは呪いと言ってよかった。言葉と裏腹の音が絶えず流れ込んでくる世界は、偽りと不信に満ちていた。笑顔の裏で嫉妬の金属音が鳴り響き、励ましの言葉の後ろで侮蔑のノイズが渦巻く。だから僕は、いつしか人と深く関わることをやめ、この古書の世界に逃げ込んだ。
その日も、店は様々な音で満ちていた。文学を語る学生たちの快活なピアノの連弾。稀覯本を探すコレクターの焦燥に駆られたヴァイオリンの軋み。僕はカウンターの奥で目を閉じ、それらの音をやり過ごしていた。
カラン、とドアベルが乾いた音を立てた。入ってきたのは、一人の老人だった。使い込まれたツイードのジャケットに、銀縁の眼鏡。深く刻まれた皺は、長い年月の物語を雄弁に語っているようだった。彼は店内をゆっくりと見回すと、迷いのない足取りで奥の棚へ向かった。
その時、僕は異変に気づいた。
音が、しない。
完全な「無音」。僕の世界ではありえないことだった。感情を持たない人間などいない。たとえ無表情を装っていても、心の奥底では必ず何かしらの音が鳴っているはずなのだ。だが、この老人からは、風の音ひとつ聞こえてこなかった。まるで、彼の周囲だけが真空になっているかのように。
老人は一冊の古びた童話集を手に取ると、窓際の椅子に腰掛け、静かにページをめくり始めた。午後の柔らかな光が、彼の銀髪を優しく照らしている。僕はカウンターから、息を殺して彼を見つめていた。僕の呪われた聴覚を無効化する、謎めいた訪問者。その静寂は、僕にとって恐怖であると同時に、抗いがたいほどの安らぎをもたらしていた。彼の存在は、僕の歪んだ日常に投じられた、波紋ひとつ立てない一石だった。
第二章 沈黙の理由
その日から、老人は毎日同じ時間に現れるようになった。名を、朔太郎(さくたろう)というらしい。彼がいつも手に取るのは、色褪せた挿絵が美しい『星屑の旅人』という同じ童話集だった。彼は決してそれを買おうとはせず、ただ閉店までの数時間、一ページ一ページを慈しむようにめくり、静かに帰っていく。
彼と交わした言葉は一度もない。僕が会釈をすると、彼は穏やかに微笑んで会釈を返すだけ。その間も、彼の周りは完璧な静寂に包まれていた。僕は朔太郎の「無音」に、ますます強く惹かれていった。感情がないのだろうか。いや、それならば人形と同じだ。だが、彼の瞳の奥には、湖の底のような深い静けさと、時折、微かな哀しみの色が見て取れた。
「あの人、いつも同じ本を読んでますね」
ある日、アルバイトの学生が僕に話しかけてきた。彼の心からは、好奇心を示す軽やかなフルートの音が聞こえる。
「ああ…」
「何か、思い出の本なんでしょうかね」
思い出。その言葉が、僕の心に小さく引っかかった。僕はこれまで、人の心の「音」ばかりを追いかけ、その背景にある物語を想像しようとしたことがなかった。音は真実だ。そう信じて疑わなかった。だが、この無音の老人は、僕に問いかけているようだった。聞こえるものだけが、全てなのか、と。
衝動に駆られ、僕は彼のことを調べ始めた。彼がいつも胸ポケットに差している万年筆の、微かに掠れたロゴが手がかりだった。それは数十年前、近隣の文具店が記念に製作した特注品だと分かった。店の古い顧客名簿を辿り、僕はついに「相田朔太郎」という名前と住所に行き着いた。
人との関わりを断ってきた僕が、なぜこんなことをしているのか。自分でも分からなかった。ただ、あの静寂の理由を知りたかった。僕の世界を揺るがした、たった一つの例外。その謎を解き明かさなければ、前に進めない気がしたのだ。
翌日、僕は店を学生に任せ、地図を頼りに朔太郎の家へ向かった。古い木造の、小さな家だった。庭には手入れの行き届いた草花が咲いている。呼び鈴を鳴らすのをためらい、門の前で立ち尽くしていると、不意に玄関のドアが開いた。
「どなたか…御用でしょうか」
現れたのは、四十代くらいの穏やかな雰囲気の女性だった。朔太郎によく似た、優しい目をしている。僕が事情を説明すると、彼女は少し驚いた顔をしたが、やがて静かに微笑んだ。
「父が、いつもお世話になっております。私は娘の美咲と申します」
彼女の心からは、温かいチェンバロの音が聞こえてきた。警戒心のない、澄んだ音色だ。
「父は…数年前に病で、声を失ったんです。それと同時に、耳もほとんど聞こえなくなってしまって」
その言葉は、僕の頭を鈍器で殴られたような衝撃を与えた。声が出ない。耳が聞こえない。だから、僕に話しかけることも、僕の声に反応することもなかったのか。だが、それだけでは「無音」の理由にはならない。感情は、声や耳とは関係なく、心の中で鳴り響くはずだ。
僕は、核心に触れる質問を恐る恐る口にした。
「あの方は…感情というものが、あまりないのでしょうか」
僕の問いに、美咲さんはきょとんとした後、ふふっと小さく笑った。
「逆です」
彼女は、庭のベンチに僕を促しながら言った。
「父は、昔から感情が豊かすぎる人でした。特に、深い愛情や、言葉にできないほどの悲しみを感じると、黙り込んでしまうんです。心の中が言葉で溢れかえって、かえって何も言えなくなる。昔、母が亡くなった時も、父は一週間、一言も喋りませんでした。ただ静かに涙を流すだけ。でも、その沈黙の中には、どんな雄弁な言葉よりも、深く、豊かな想いが詰まっていることを、私は知っていました」
美咲さんの言葉が、僕の胸に突き刺さった。
第三章 聞こえなかった交響曲
「父が読んでいた本は、『星屑の旅人』でしょう?」
美咲さんは、懐かしむように目を細めた。
「あれは、亡くなった母が一番好きだった童話なんです。父は毎晩、母にその本を読み聞かせていました。きっと、あの本を読んでいる時、父は母との時間を思い出しているんです。あの頃の温もり、母の笑顔、交わした言葉…。父にとってあの時間は、あまりにも大切で、愛おしくて、そして切ない。そんな感情が一度に押し寄せてくる。だから…」
だから、音にならない。
僕は愕然とした。朔太郎が「無音」だったのは、感情がなかったからではない。僕の能力が捉えられるような、喜び、怒り、哀しみといった単一の「音」では表現できないほど、彼の感情は巨大で、複雑で、そして崇高だったのだ。それはハープでもなければ、チェロでもない。無数の楽器が、無数の旋律を同時に奏でる、壮大な交響曲(シンフォニー)。僕の貧弱な聴覚では、そのあまりに高次元な音楽を「音」として認識できず、ただの「無音」として処理してしまっていたのだ。
僕は、なんて愚かだったんだろう。
「音」という表層的な情報だけを真実だと信じ込み、人を判断してきた。聞こえる音に一喜一憂し、聞こえないものを「存在しない」と切り捨ててきた。笑顔の裏にある嫉妬の金属音を軽蔑し、励ましの言葉の後ろのノイズに失望してきた。だが、その裏側にある、もっと複雑な事情や葛藤を想像しようともしなかった。
朔太郎の沈黙は、僕が今まで聞いてきたどんな耳障りな音よりも、雄弁に彼の心を語っていた。僕は彼の家の前で立ち尽くし、ただただ自分の傲慢さが恥ずかしかった。美咲さんに深々と頭を下げ、僕は逃げるようにその場を後にした。
翌日、僕は重い足取りで店を開けた。世界は昨日と同じはずなのに、僕には全く違って見えた。道行く人々の心から聞こえてくる音々。焦燥のヴァイオリン、退屈なチューバ、偽りの微笑みのシンバル。だが、もうそれらの音は僕を苛立たせなかった。その音の裏には、僕には聞こえない、もっと複雑な旋律が隠れているのかもしれない。誰もが、自分だけの交響曲を心の中に持っているのかもしれない。
カラン、とドアベルが鳴った。朔太郎だった。
いつものように、彼は会釈をし、『星屑の旅人』の棚へ向かおうとした。
僕は、カウンターから飛び出した。そして、彼の前にそっと一枚のメモを差し出した。
『この本を、差し上げます。あなたの大切な思い出ですから』
朔太郎は驚いて僕の顔を見た。そして、メモと僕の顔を交互に見つめた後、その深い皺の刻まれた目元を、ゆっくりと和ませた。
その瞬間だった。
僕の耳に、初めて「音」が届いた。それは、今まで聞いたことのない音だった。深く、温かいチェロの音色を基調としながら、その上を流麗なピアノが踊り、遠くで優しいハープが囁き、いくつものヴァイオリンが喜びの歌を奏でている。それは、感謝、驚き、亡き妻への愛情、そして僕という見ず知らずの若者へのささやかな親愛。それら全てが溶け合った、一つの壮大な音楽。
沈黙の交響曲。
僕は、そのあまりの美しさに、息を呑んだ。涙が、勝手に頬を伝った。朔太郎は、僕の涙を見ると、困ったように笑い、そして、深く、深く、頭を下げた。彼の心から奏でられる音楽は、僕の魂を優しく洗い流していくようだった。
第四章 心が奏でるもの
朔太郎が帰った後も、僕はしばらくその場に立ち尽くしていた。彼の交響曲の余韻が、店の中を満たしていた。僕が今まで聞いてきた無数の感情の音は、いわばオーケストラの練習音のようなものだったのかもしれない。それぞれがバラバラに鳴り響くだけの、断片的な響き。本当の人の心とは、朔太郎のように、いくつもの感情が複雑に絡み合い、一つの音楽を織りなすものなのだ。
僕の世界は、変わった。
あれ以来、僕はもう人の「音」に惑わされることはなくなった。むしろ、その音を道しるべに、その奥にある音楽を聴こうと努めるようになった。
先日、若いカップルが店にやってきた。男性は自信に満ちたテナーサックスの音を響かせ、女性への愛を語っている。だが、彼女の心からは、どこか不安げなヴィオラの震える音が聞こえてきた。以前の僕なら、「この男の愛は本物じゃない」と心の中で断罪しただろう。
だが、今の僕には分かる。彼女の不安は、彼を信じられないからではない。彼を深く愛しているからこそ、この幸せを失うことを恐れているのだ。そのヴィオラの音の下には、彼への愛情を示す温かいハープの音が、確かに流れている。僕は二人の姿を、ただ温かい気持ちで見守った。
僕の呪いだった能力は、今では祝福に変わった。それは、人の心を断罪するためのものではなく、理解しようと努めるための、ささやかな手がかりなのだ。
今日も、午後の光が『静寂堂』に柔らかく差し込んでいる。僕はカウンターに座り、目を閉じる。街の喧騒、客たちの心の音、ページをめくる乾いた響き。その全てが混じり合い、一つの巨大な音楽となって僕を包み込む。
完璧な静寂も、美しい旋律も、耳障りな不協和音も、すべてはこの世界を構成する大切なパートだ。僕はその全てを愛おしく思う。
もうすぐ、朔太郎がやってくる時間だ。今日は、どんな交響曲を聴かせてくれるだろうか。僕は、静かにその時を待つ。聞こえる音の、その先にある、声なき心の音楽に耳を澄ませながら。世界は、こんなにも豊かで、感動的な音色に満ちていたのだ。