質量なき希望の揺りかご
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質量なき希望の揺りかご

第一章 忘却の街と羅針盤

世界は、忘却の霧に沈んでいる。灰色の霧は建物の隙間を縫い、人々の記憶を静かに、そして容赦なく蝕んでいく。昨日愛した人の名も、かつて笑い合った日々の温もりも、やがては薄紙を剝がすように消え去る。人々はそれを宿命として受け入れ、表情を失った影のように、静かな街を彷徨っていた。

僕、カイには、人とは違う世界が見えていた。いや、見えているのではない。感じているのだ。他人の感情が放つ、微かな『質量』を。

広場の隅で膝を抱える老婆の傍らを通り過ぎる。彼女の絶望は、冷たい鉛の塊となって僕の掌にずしりとのしかかる。市場で野菜を売る男の諦念は、乾いた砂のように指の間からこぼれ落ちていった。誰もが忘却に抗うことをやめ、その心は羽根のように軽くなって、霧の中へと溶けていく。

僕の手のひらは、この世界で失われつつあるものの、最後の墓標だった。

「その手は、呪いかね。それとも、祝福かね」

錆びた鉄屑の山に腰掛けていた老人、エルムが、節くれだった指でパイプを燻らせながら言った。彼の纏う空気は、不思議と霧の影響を受けていないように濃密だった。彼の感情は、まるで年輪を重ねた大樹のように、複雑で計り知れない重みを持っていた。

「さあ。ただ、重いだけですよ」僕は答えた。

エルムは煙を細く吐き出すと、懐から古びた真鍮製の懐中時計を取り出した。それは蓋も文字盤も失われ、ただ一本の細い針が中央でか弱く震えているだけだった。

「『感情の羅針盤』だ。わしのような古い人間が持っていても、もう意味がない。だが、お前さんなら」

彼はそれを僕の掌に置いた。触れた瞬間、ずっしりとした金属の重みとは別に、微かで、しかし確かな意志を持つ何かが伝わってくる。羅針盤の針は、僕の手に乗った途端、ぴくりと揺れ、ゆっくりと北東の方角を指し示した。まるで、遠いどこかにある巨大な引力に引き寄せられるように。

「この世界のどこかに、決して霧に溶けぬ『始まりの記憶』があるという。それは、この世界が忘れ去るにはあまりにも重すぎる、途方もない感情の結晶だ。それを見つけ出してほしい。なぜ世界がこうなったのか、その答えがそこにあるはずだ」

エルムの瞳の奥に、燃え尽きる寸前の熾火のような光が見えた。彼の『願い』は、ずしりと重い金属塊となって僕の心を打った。

僕は羅針盤を強く握りしめた。針が指し示す先には、何が待っているのか。あるいは、もう何も残ってはいないのかもしれない。それでも、この手のひらが感じる重みに意味があるのなら、確かめなければならない。

僕は、忘却の街を背にした。

第二章 欠片に宿る声

羅針盤が指し示す方角へ、僕は歩き続けた。霧はどこまでも濃く、足跡さえすぐに消えてしまう。時折、道端に打ち捨てられたように転がる『記憶の欠片』に出会った。それは、持ち主を失った強い感情が、霧の中で結晶化したものだ。

最初に見つけたのは、崩れかけた橋のたもとにあった琥珀色の結晶だった。手に取ると、ずっしりと重い。目を閉じると、若い男女の姿が脳裏に浮かんだ。戦地へ向かう男と、それを見送る女。交わされる最後の口づけ。その『悲哀』は、氷のように冷たく掌に突き刺さり、離れていてもなお互いを求める『愛情』は、微かな熱を帯びていた。僕はその欠片を、そっと川へ流した。彼らの記憶は、もう誰のものでもなかった。

次に触れたのは、黒く焼け焦げた石のような欠片だった。それは戦場の跡地らしき野原に転がっていた。触れた指先が焼け付くような『怒り』と、家族の顔を思い浮かべる一瞬の、しかし深く温かい『慈しみ』。相反する感情が複雑に絡み合い、いびつな塊を成していた。持ち主は、何を想い、果てたのだろう。

記憶の欠片に触れるたび、僕は失われた世界の豊かさを知った。喜び、悲しみ、怒り、愛。それら全てが、かつては確かにこの世界に満ち溢れていたのだ。旅を続けるうちに、僕の心にも微かな変化が生まれていた。この世界を取り戻したい。その想いは、日ごとに質量を増していった。

羅針盤の針は、旅路の果てが近いことを告げるかのように、小刻みな振動を強めていく。まるで、すぐそこにある巨大な感情の奔流に共鳴しているかのようだった。

そして、ついに針は一点を指し示し、激しい振動で止まった。

目の前には、蔦に覆われた古い石造りの建物が、霧の中から亡霊のように姿を現していた。風が崩れた窓を吹き抜ける音が、まるで誰かの嗚咽のように聞こえる。ここだ。ここに、『始まりの記憶』がある。

第三章 揺りかごの歌

建物の内部は、静寂と埃に満ちていた。朽ちた木製のベッド、転がった玩具。そこは、かつて孤児院だった場所のようだった。僕は慎重に足を進める。羅針盤は掌で火傷しそうなほどに振動しているが、肝心の『記憶の欠片』はどこにも見当たらない。

中央の広いホールに出た。そこには、何もない。がらんとした空間が広がるだけだ。

だが、僕の手のひらは、これまでに感じたことのない途方もない『質量』を感知していた。

それは、山脈を丸ごと持ち上げるような、星々をその腕に抱くような、圧倒的な重さ。しかし、不思議なことに、その重圧は苦しくなかった。むしろ、母親の胎内にいるような、絶対的な安心感と温もりに満ちていた。重いのに、軽い。冷たいのに、温かい。矛盾した感覚が、僕の全身を包み込んだ。

なぜだ? なぜ、これほどの質量を感じるのに、結晶化した『欠片』が見えない?

混乱する僕の視線が、壁の低い位置に刻まれた一つの落書きに留まった。それは、子供が描いたであろう、拙い太陽の絵だった。いびつな円から、たくさんの線が伸びている。

その絵を見た瞬間。

僕の頭の奥深くで、何かが軋む音を立てた。錆びついた記憶の扉が開く音。

――― かすかに聞こえる、優しい子守唄のメロディー。

――― 窓から差し込む、柔らかな陽の光の匂い。

――― 僕の頭を撫でてくれた、誰かの大きな手のひらの感触。

「……あ……」

声にならない声が漏れた。そうだ。ここは。僕が、カイという名前さえもらう前に、過ごしていた場所。忘却の霧が、僕自身の過去さえも奪い去っていたのだ。

羅針盤が指し示していたのは、物質的な『欠片』ではなかった。この場所そのものに染みついた、目に見えない巨大な感情の『場』だったのだ。

だから、見つけられなかった。僕は、ずっとその質量の中にいたのだから。

第四章 始まりの質量

全てを思い出した。

世界が忘却の霧に覆われ始めた、最後の日。大人たちは絶望し、世界の終わりを嘆いていた。子供たちは泣きじゃくり、不安に震えていた。だが、幼い僕だけは、なぜか怖くなかった。

窓の外で、世界がゆっくりと白く霞んでいく。街の音が消え、人々の顔がぼやけていく。それは確かに『終わり』の光景だった。でも、僕の心は、不思議なほどの静けさと、温かさに満たされていた。

僕は、消えゆくこの世界が大好きだった。

一緒に笑った友達。優しい先生たち。昼寝の時間の陽だまり。夜に読んでもらった物語。その一つ一つが、僕の世界の全てだった。だから、思ったのだ。

「ありがとう」

消えていく全てのものへ、心からの感謝を。

「また、会えるよね」

たとえ今は離れても、必ず再会できるという、根拠のない、しかし絶対的な希望を。

その瞬間、僕の小さな身体から放たれた純粋な感情は、あまりにも強大で、あまりにも純粋だった。それは霧の中でも決して消えることなく、この孤児院全体を包み込む、巨大な『記憶の場』として、この世界を繋ぎ止める最後の錨となっていたのだ。

僕が探し求めていた『始まりの記憶』。

それは、他の誰でもない、僕自身の記憶だった。

僕が、自分の過去を取り戻し、この場所の中心で再びあの日の感情に触れた瞬間――僕の身体から、まばゆい光が溢れ出した。幼い日の『感謝』と『希望』が、今の僕の「世界を取り戻したい」という強い意志と共鳴し、増幅され、光の波となって世界中に広がっていく。

それは、忘却の霧を晴らす浄化の光だった。霧は消滅するのではない。光に溶け、本来あるべき場所――人々の心の中へと還っていく。失われた温もりが、忘れていた愛しい顔が、人々の内側で静かに蘇っていくのが、手のひらに伝わる質量の変化で分かった。

僕は天を仰いだ。厚い霧の向こうに、生まれて初めて見る、淡い青空が透けて見えた。

世界は、まだ始まったばかりだ。失われたものが全て元通りになるわけではないだろう。でも、それでいい。

僕の掌には、世界の新たな感情が伝わってくる。それは、まだか弱く、生まれたての赤子のように軽い。けれど、それは間違いなく、温かい『希望』の質量だった。

僕らは、忘れるために生まれてきたのではない。新しい物語を紡ぎ出すために、今、ここにいるのだから。

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