残響の器
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残響の器

第一章 盗まれた夕焼け

まただ、とアキは思った。

舗装された石畳の冷たさが、膝からじわりと伝わってくる。目の前には見慣れたはずの自分の部屋の壁。だが、彼の五感は、今ここにはない風景を勝手に描き出していた。

むせ返るような潮の香りと、消毒液のツンとした匂いが混じり合う。耳の奥では、規則正しい電子音と、生まれたばかりの赤子の、生命力に満ちた泣き声が響いていた。そして、視界の端で揺れる、皺だらけの温かい掌。その感触が、まるで自分の手であるかのようにリアルだった。

「……よかった」

絞り出すような、安堵に満ちた老婆の声。それは自分の声帯からではなく、魂の奥底から直接響いてくるようだった。アキの頬を、覚えのない熱い涙が伝っていく。それは、初めて会う曾孫をその腕に抱いた、見ず知らずの老婆が流した歓喜の涙だった。

数秒後、嵐のように押し寄せた感覚は嘘のように引き、アキは再び自室の床に一人取り残されていた。心臓が早鐘を打ち、全身が冷たい汗で濡れている。

これは、俺の感情じゃない。俺の記憶じゃない。

いつからか、アキは他人の「深く感動した瞬間」を、未来のフラッシュバックとして体験するようになった。それは喜びであったり、悲しみであったり、あるいは言葉にできないほどの畏怖であったりした。他人の魂の絶頂が、何の脈絡もなく彼を襲う。そしてその主は、アキがその感情を追体験したちょうどその頃、世界のどこかで「昇華」しているのだ。

人々が生まれて初めて「真の感動」を覚えた瞬間、その肉体は光の粒子となって世界に還る。それは祝福であり、魂の解放だと教えられてきた。だが、実質的には死と変わらない。だから人々は、心を揺さぶられるほどの感動を巧妙に避け、灰色の日常に安住するようになった。

アキは窓の外に目をやった。空は、フラッシュバックで見た老婆の最期の目に映ったであろう、燃えるような夕焼けに染まっている。あまりにも美しく、そして残酷なその色彩から、彼は慌てて目を逸らした。この感動は、俺のものじゃない。俺は、昇華しない。ただ、他人の最期の輝きを盗み続けるだけだ。

第二章 灰色の街と結晶狩り

アキが住む街は、音も色も、そして匂いさえも希薄だった。人々は感情の起伏を嫌い、無表情に歩き、決められた仕事をこなし、静かに眠りにつく。感動は昇華を招く毒。そう信じる彼らにとって、芸術も音楽も、自然の美しささえも、避けるべき対象だった。街角の噴水はとうに涸れ、花壇には造花だけが虚しく並んでいた。

そんな世界で、アキは一つの伝説に縋っていた。昇華した者がごく稀に残すという「記憶の結晶」。そして、その結晶を辿った先にあるという「原初の感動」の源泉。もしそこに辿り着ければ、自分が昇華しない理由が、この呪いのような能力の意味が分かるかもしれない。

彼は、街の裏通りで古物商を営む老人の元を訪れた。埃とカビの匂いが混じる薄暗い店内で、老人は皺だらけの手で小さな木箱を差し出した。

「新しいのが一つだけ入ったよ。ずいぶんと古い代物らしいがね」

箱の中には、乳白色の石が一つ。アキがそれを手に取ると、ひんやりとした滑らかな感触が指先に伝わった。これが「記憶の結晶」。持ち主の最後の感動を封じ込めた、魂の化石だ。代金を払い、震える手でそれを懐にしまう。これでまた一つ、源泉に近づけるかもしれない。しかし、同時に恐ろしかった。次に流れ込んでくるのは、一体誰の、どんな感情なのだろうか。

第三章 星空の旋律

自室に戻ったアキは、意を決して結晶を握りしめた。目を閉じると、意識がゆっくりと溶けていく。

冷たい夜気が肌を刺す。鼻腔をくすぐるのは、針葉樹の森が放つ、澄みきった香り。

目を開けると、そこは満天の星空の下だった。天の川が白々しい帯となって夜空を横切り、無数の星々がダイヤモンドのように瞬いている。そして目の前には、月光に照らされて鈍く光る一台のグランドピアノがあった。

「……君のために」

アキの唇が、彼の意思とは無関係に動いた。それは若い男の声だった。その視線の先には、優しい眼差しで微笑む一人の女性がいる。

指が鍵盤に触れる。象牙の冷たく、滑らかな感触。息を吸い込み、男は――アキは、旋律を奏で始めた。それは、喜びと、切なさと、言葉に尽くせぬ愛しさが溶け合った、ただ一人のためだけの曲。一音一音が星の輝きと共鳴し、夜の静寂に溶けていく。

ああ、これが彼の「真の感動」だったのか。

音楽を禁じられた世界で、愛する人のためだけに、たった一度だけ奏でた星空のソナタ。その純粋なまでの想いの奔流に、アキの心は激しく揺さぶられた。

やがて演奏が終わり、最後の音が夜気に吸い込まれると同時に、フラッシュバックも終わった。部屋には静寂だけが戻っていた。アキの手の中に残された結晶は、先ほどよりも少しだけ透明度を増しているように見えた。彼は、自分の頬が再び濡れていることに気づく。それは音楽家の涙であり、紛れもなくアキ自身の涙でもあった。感動は美しい。だが、その美しさが人を消滅させるというのなら、この世界はあまりにも歪んでいる。

第四章 風を聴く少女

「原初の感動」の手がかりを求め、アキの旅は続いていた。灰色の街をいくつも越え、人の気配のない荒野を歩いていた時だった。

不意に、澄んだ歌声が風に乗って耳に届いた。

声のする方へ歩いていくと、丘の上に広がる名もなき野草の花畑で、一人の少女が空を見上げていた。風に揺れる亜麻色の髪。彼女は、この世界では誰もが忘れてしまったはずの「歌」を口ずさんでいた。

アキの気配に気づいた少女が、くるりと振り返る。リナ、と彼女は名乗った。

「こんにちは。あなたもこの風の音を聴きに来たの?」

屈託のない笑顔だった。アキは戸惑いながら頷く。

「歌を……歌っていたのか」

「うん。だって、風が気持ちいいから。お花が綺麗だから。そう思うと、なんだか胸の奥からメロディが湧いてくるの」

リナは昇華を恐れていなかった。それどころか、日々のささやかな出来事の中に、無数の感動を見つけ出し、それを全身で慈しんでいるようだった。

「昇華は怖くないよ」アキの心を見透かしたように、彼女は言った。「だって、私が感じた『綺麗』は、私がいなくなっても、きっと世界の一部になって残るでしょう? 風の匂いとか、夕焼けの色みたいに」

その言葉は、アキが今まで抱えてきた罪悪感や恐怖を、根底から揺るがした。彼はリナに、自分の能力のこと、そして「原初の感動」の源泉を探していることを打ち明けた。

「それ、私も探してる!」リナは目を輝かせた。「きっと、すごく素敵な場所に違いないわ。一緒に行こうよ、アキ!」

こうして、二人の奇妙な旅が始まった。

第五章 嵐のあとの光

リナと旅をするようになってから、アキの世界は少しずつ色を取り戻していった。彼女は、道端の小石の形、雲の流れ、雨上がりの土の匂い、その全てに感動を見出した。彼女の隣にいると、アキを襲うフラッシュバックの痛みさえ、どこか和らぐような気がした。

ある日、二人は海辺の古い灯台で激しい嵐をやり過ごしていた。叩きつける雨と風が、窓ガラスを揺らす。長い時間が過ぎ、やがて嵐が嘘のように過ぎ去った。

リナが、アキの手を引いて外へ駆け出した。

「見て、アキ!」

彼女が指さす先には、信じられないような光景が広がっていた。分厚い雲の切れ間から、黄金色の光がいくつもの筋となって地上に降り注いでいる。濡れた大地はきらめき、空気は洗い流されたように澄み渡っていた。天使の梯子、と誰かが言っただろうか。

「なんて、綺麗なんだろう……」

リナが恍惚として呟いた、その瞬間だった。

彼女の体から、柔らかな光が溢れ始めた。それは、今までアキがフラッシュバックの中で何度も見てきた、昇華の兆候だった。

「リナ!」

アキが叫ぶ。だが、彼女は穏やかに微笑んでいた。その瞳には、恐怖も後悔もなかった。ただ、目の前の世界の美しさを映しているだけだった。

「ありがとう、アキ。あなたと旅ができて、たくさんの『綺麗』を見つけられた。私、幸せだよ」

彼女の輪郭が薄れ、光の粒子となって風に溶けていく。アキは、ただ手を伸ばすことしかできなかった。

リナが立っていた場所には、小さな露草の形をした、青い「記憶の結晶」が一つ、静かに残されていた。

絶望がアキを打ちのめす。守れなかった。また、失ってしまった。

だが、その時。彼の内で、何かが弾けた。

今まで体験した全ての感動が、奔流となって彼の中に流れ込んできた。老婆の歓喜、音楽家の愛、そしてリナが見た嵐のあとの光。無数の記憶と感情が混じり合い、一つの巨大なタペストリーを織り上げていく。

そこで、アキは悟った。「原初の感動」とは、特定の場所にある神秘などではなかった。それは、リナのような名もなき人々が日々の中に紡いできた、ささやかで、ありふれていて、しかし何よりも尊い感動の輝きの集合体そのものだったのだ。

第六章 感動を紡ぐ旅へ

なぜ自分だけが昇華しないのか。その答えも、今ならわかる。

世界は、感動を記憶しておくための「器」を必要としていたのだ。昇華によって世界に還った魂の輝きは、消えてなくなるわけではない。アキという器を通して、再び誰かの心に届く残響となる。彼は、世界中の感動を受け止め、繋ぎ、体現し続けるために選ばれた存在だった。

アキは、足元に落ちていたリナの結晶を、そっと拾い上げた。ひんやりとした結晶からは、嵐のあとの澄んだ空気の匂いと、彼女の最後の温もりが伝わってくるようだった。

悲しくなかったと言えば嘘になる。だが、それ以上に、温かい使命感が胸を満たしていた。

彼は顔を上げた。空は、リナが見たのと同じように、どこまでも青く澄み渡っている。

もう、感動を恐れる必要はない。感動から目を逸らす必要もない。

アキは、リナの結晶を胸のポケットに大切にしまい、再び歩き始めた。

行く先には、まだ感動を知らず、その輝きを恐れて生きる人々がいるだろう。彼らに伝えなくてはならない。昇華は終わりではないこと。人が抱く感動は、世界を彩る何よりも美しい光なのだと。

アキの旅は終わらない。いや、今、始まったのだ。

世界に満ちる無数の感動をその身に受け止め、残響として未来へ紡いでいくための、永遠の旅が。

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