後悔のカタロギスト

後悔のカタロギスト

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第一章 錆びた心臓と枯れた花

柏木湊(かしわぎ みなと)が営む古道具屋『時の澱(おり)』は、忘却の匂いがした。埃と黴、そして乾いたインクが混じり合ったその香りは、湊にとって世界のどんな香水よりも心を落ち着かせるものだった。彼は人より、モノと対話する方が得意だった。客の来ない静かな午後、カウンターの奥で黙々とモノの修繕に没頭するのが彼の日課であり、安らぎだった。

湊には、秘密の収集癖があった。それは、道端や廃墟、忘れられた公園の片隅で、奇妙なオブジェを拾い集めることだ。ガラクタ、と呼ぶにはあまりに奇妙で、誰かの意図を感じさせるそれらは、どれも掌に収まるほどの大きさだった。錆びついたゼンマイ、溶けかけたガラス玉、意味不明な記号が刻まれた木片。共通しているのは、それらに触れると、胸の奥に形容しがたい重さがじんわりと広がることだった。まるで、モノ自体が溜息をついているかのように。

ある雨上がりの夕暮れ、湊は近所の解体中のビル裏で、これまでで最も心をかき乱されるオブジェを見つけた。それは、いくつもの錆びた歯車が複雑に絡み合い、中心には押し花のように無残に潰れた、一輪の黒ずんだ花が封じ込められていた。まるで、機械仕掛けの心臓が、その鼓動を止めた瞬間の化石のようだった。

そっと拾い上げると、ずしりとした重みが腕を伝い、心臓を直接握り潰されるような切ない痛みが全身を駆け巡った。これは一体、誰の、どんな想いが凝り固まったものなのだろう。湊は他のオブジェとは違う、特別な棚にそれを置いた。磨りガラスの向こうで、錆びた心臓は静かに雨上がりの弱々しい光を吸い込んでいた。彼は知らなかった。そのオブジェが、自身の凍てついた過去を溶かす鍵になることを。これが、彼の人生の歯車が、大きく、そして軋みながら回り始める合図だった。

第二章 後悔のカタログ

その老婆が店に現れたのは、数日後の穏やかな昼下がりだった。古びているが清潔な和服を身に纏い、背筋をしゃんと伸ばした姿は、この埃っぽい店には不釣り合いに見えた。彼女は千代と名乗り、店内をゆっくりと、何かを探すように歩き始めた。

「変わったものを、集めていらっしゃるのね」

千代は、湊が拾い集めたオブジェが並ぶ棚の前で足を止めた。その眼差しは、単なる好奇心ではなく、懐かしむような、慈しむような色を帯びていた。湊は警戒心を解かずに応じる。

「ただのガラクタですよ」

「いいえ」千代は首を横に振ると、小さな真鍮の羅針盤を指差した。「これは、ガラクタなんかじゃありません。これは、『後悔』ですわ」

湊は言葉を失った。後悔?目の前の老婆が何を言っているのか、理解が追いつかない。

「主人がね、若い頃、船乗りになるのが夢だったんです。でも、体を壊した父の稼業を継ぐために、諦めなければならなかった。たった一度も、故郷の港から出ていくことはありませんでした」

千代は、その羅針盤をそっと手に取った。湊がいつも感じていた、あの重苦しい感覚が、彼女の指先からオブジェへと逆流していくように見えた。

「『君を幸せにできたから後悔はない』と、主人は笑って逝きました。でも、心の奥底では、ずっと海の向こうに焦がれていた。見果てぬ夢への後悔。それが、これなんです」

彼女の言葉は、雷のように湊の心を撃ち抜いた。自分が集めていたのは、誰かが捨てきれずにいた「後悔」が具現化したものだったのか。あの胸を締め付ける重さは、持ち主の叶わなかった願いや、言えなかった言葉の痛みそのものだったのだ。

「どうして、それがここに?」

「後悔は、持ち主が亡くなったり、あるいは強く手放そうと願った時に、こうして形になって、世界のどこかに現れる。そして、あなたのような、心の静かな人がそれを見つけるのですわ」

千代は微笑んだ。「私は、主人の後悔を、もう一度だけ抱きしめたくて探していたんです。ありがとう、見つけてくれて」

彼女が羅針盤を懐にしまうと、湊の胸から、確かに一つの重しが取れたような気がした。店を出ていく千代の背中を見送りながら、湊は呆然と棚に残された「後悔のカタログ」を見つめた。一つ一つが、誰かの人生の断片であり、愛と痛みの結晶なのだ。

その時、彼の視線は自然と、あの特別なオブジェへと引き寄せられた。錆びた歯車と枯れた花の心臓。これは、一体誰の、どれほど深く、そして痛ましい後悔なのだろうか。知りたい、という衝動が、初めて湊の心に熱を帯びさせた。

第三章 星屑の遺言

錆びた心臓のオブジェは、他のものとは明らかに異質な気配を放っていた。それは単なる後悔ではなく、もっと深く、個人的な悲しみに満ちているように感じられた。湊は、まるで磁石に引かれるように、そのオブジェが発する微かな波動を頼りに、その出所を探し始めた。それは無謀な試みのはずだったが、彼の感覚は不思議なほど鋭敏になっていた。

手がかりは、オブジェにこびりついていた微量の赤土と、かすかに香るヒノキの匂いだった。湊は市街地の地図を広げ、古い地名や施設の記録を漁った。そして、ついに一つの場所に辿り着く。町の外れ、今は雑木林に覆われた丘の上に、かつて存在した小さな私設天文台の跡地。

廃墟と化した天文台は、静寂に包まれていた。蔦の絡まるドームの扉を押し開けると、中は星屑のような埃が舞っていた。中央には、巨大な望遠鏡の残骸が横たわり、床には観測日誌らしきノートが散乱している。湊がオブジェを拾った場所の赤土と、建物の柱に使われているヒノキの香りが、ここが目的地だと告げていた。

彼は一冊の日誌を手に取った。インクは滲み、紙は湿気で波打っていたが、そこには几帳面な文字で、星々の運行記録がびっしりと綴られていた。読み進めるうちに、湊は息を呑んだ。それは単なる観測記録ではなかった。個人的な、苦悩に満ちた独白が、ページの片隅に書き殴られていたのだ。

『新しい彗星を見つけた。だが、湊は今日、初めて歩いたらしい。私はそれを見てやれなかった』

『宇宙の果ては見えても、息子の寝顔を見る時間がない。私は何と引き換えに、この星空を得ているのだろう』

『湊、すまない。父さんは、お前に星を見せてやりたい。この手で、あの無数の光の意味を教えてやりたい。だが、時間が、ない』

ページをめくる手が震えた。日誌の署名は、「柏木聡」。それは、湊が幼い頃に事故で亡くした、父親の名前だった。湊の記憶の中の父親は、いつも研究に没頭し、家庭を顧みない冷たい人だった。母親からもそう聞かされて育った。自分は愛されていなかったのだと、心のどこかでずっと思い込んでいた。

だが、この日誌は違う物語を語っていた。父親は、息子への愛と研究への情熱との間で、引き裂かれんばかりに苦しんでいたのだ。最後のページは、乱れた文字でこう締めくくられていた。

『もし叶うなら、もう一度。あの子と二人で、満天の星を見上げたい。ただ、それだけでいい』

湊は、ポケットの中のオブジェを握りしめた。錆びた歯車は、宇宙の神秘と格闘した父親の研究の象徴。そして、枯れた花は、共に過ごすことのできなかった息子との、儚い思い出のメタファー。これは、父親の、自分に対する愛と後悔の結晶だったのだ。自分が捨てられたのではなかった。誰よりも強く、想われていた。その事実が、何十年もかけて築き上げてきた湊の価値観を、根底から、優しく覆した。涙が、後から後から溢れて止まらなかった。

第四章 解放の夜光

その夜、湊は再び天文台に戻った。手には、父親の後悔のオブジェを固く握りしめている。壊れたドームの隙間から、満天の星が降ってくるようだった。それは、父が愛し、そして父を苦しめた星空だった。

湊は、巨大な望遠鏡の残骸に腰を下ろし、静かに夜空を見上げた。オリオンが、カシオペアが、北斗七星が、父の日誌に記されていた通りの場所で、冷たく、しかし確かに輝いている。

「父さん」

初めて、そう呼びかけた。声は微かに震えていた。

「俺も、ずっと星が好きだったよ。理由は分からなかったけど。夜空を見上げていると、寂しいけど、独りじゃないって思えたんだ。あなたの血が、そうさせてたのかな」

彼はオブジェを両手で包み込むように持ち上げた。錆びた歯車と枯れた花が、星の光を受けて鈍く輝く。

「もういいよ、父さん。俺は、あなたのせいだなんて思ってない。あなたの愛は、ちゃんとここに届いたから」

湊がそう囁いた瞬間、奇跡が起きた。オブジェが、ふわりと柔らかな光を放ち始めたのだ。それは温かい、慈愛に満ちた光だった。錆びた歯車はゆっくりと解け、枯れた花は息を吹き返したかのように鮮やかな色を取り戻し、そして、すべてが光の粒子となって夜空へと昇っていく。

粒子は天の川に吸い込まれるように消えていった。後悔は、昇華されたのだ。湊の手のひらには、もう何も残っていなかった。しかし、彼の心は、これまで感じたことのないほどの温かさと充足感で満たされていた。父親の後悔と共に、湊自身の孤独と寂しさも、あの光の中に溶けていったのだった。

店に戻った湊は、棚に並ぶ後悔のオブジェたちを、以前とは全く違う眼差しで見つめた。これらはもはや、不気味なガラクタではない。一つ一つが、誰かの愛であり、痛みであり、そして語られるべき物語なのだ。

数日後、湊は店の看板に、小さな文字を書き加えた。『後悔、配達いたします』。

彼は、後悔のカタロギスト(目録作成者)になった。オブジェの物語を読み解き、それを然るべき場所へ、然るべき人へ届ける。それは、千代のような遺族かもしれないし、過去を乗り越えようとする本人かもしれない。

ある晴れた日、湊は小さな革の鞄を肩にかけ、店を出た。手には、持ち主の元へ帰るのを待つ、新たな後悔のオブジェが一つ。彼の表情は穏やかで、その足取りには迷いがなかった。

後悔は、決して消し去るべき過去の染みではない。それは、誰かを深く、強く想ったことの証。湊は、その温かい重みを胸に、今日も誰かの物語を未来へと繋ぐために歩き出す。空は、まるで彼の新たな門出を祝福するかのように、どこまでも青く澄み渡っていた。

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