追憶のカンティレーナ

追憶のカンティレーナ

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第一章 沈黙の結晶と予期せぬ歌声

リヒトの仕事は、世界の終わりに寄り添うことだった。「レクイエ・コレクター」と呼ばれる彼は、人の魂が肉体を離れる最後の瞬間に放つ、「言葉の結晶」を収集する。それは、言い遺したかった言葉、伝えたかった想い、あるいは胸の内に秘めたままだった後悔が、形を成したものだ。ほとんどの結晶は、涙の滴のように小さく、色も形も様々だったが、それ自体が声を発することは決してなかった。ただ静かに、持ち主だった魂の最後の感情を、その輝きに宿しているだけだった。

その日、リヒトが収集したのは、古いアパートの一室で孤独に息を引き取った老婆の結晶だった。市からの淡々とした依頼書には「身元不明、推定八十代後半」とだけ記されている。埃と古書の匂いが混じり合う部屋の片隅で、彼は老婆の魂が昇天するのを見届け、その後に残された小さな結晶をピンセットで慎重に拾い上げた。乳白色の、どこにでもある平凡な結晶だった。彼はそれを規定のビロード張りの小箱に収め、アトリエへと持ち帰った。

彼のアトリエは、街を見下ろす古い時計塔の最上階にあった。壁一面に設けられたガラス棚には、これまでに収集した何千もの結晶が、それぞれの小箱の中で静かな光を放っている。それはまるで、無数の星々を閉じ込めた夜空の縮図のようだった。リヒトは、この静寂を愛していた。他者との過剰な関わりを好まず、ただ黙々と死者の最後のきらめきを分類し、記録する。その行為だけが、彼の空虚な心を埋めてくれる唯一の営みだった。

今日の結晶を棚に収め、リヒトは窓辺の椅子に深く腰掛けた。眼下には、家路を急ぐ人々の灯りが川のように流れている。誰も、この時計塔の上で、死者の最後の沈黙が集められていることなど知りもしない。それでいい、と彼は思う。忘れ去られるべき静寂こそが、彼の守るべきものなのだから。

その夜、異変は起きた。

深い眠りの淵を漂っていたリヒトの耳に、ふと、澄んだ旋律が届いた。最初は夢だと思った。しかし、その歌声はあまりに明瞭で、優しく、彼の意識を現実へと引き戻していく。彼はベッドから跳ね起き、音の源を探した。歌声は、あのアトリエのガラス棚から響いてくる。

恐る恐るアトリエの扉を開けると、信じられない光景が広がっていた。棚の一角、今日収集したばかりの老婆の結晶を収めた小箱が、淡い月長石のような光を放ちながら、ひとりでに開いていたのだ。そして、その乳白色の結晶そのものが、震えるようにして、美しい子守唄を奏でていた。

「ありえない……」

リヒトは息を呑んだ。レクイエ・コレクターの歴史上、結晶が音を発したという記録は一度もない。結晶は、あくまで言葉の「化石」であり、沈黙の象徴のはずだった。だが、彼の目の前で、一つの結晶が、まるで生きているかのように歌っている。その歌声は、寂しげでありながら、深く、温かい慈愛に満ちていた。それは、リヒトが生まれてこの方、一度も聴いたことのないはずの、しかしなぜか魂の奥底で知っているような、不思議な懐かしさを伴う旋律だった。

第二章 忘れられた子守唄の旋律

翌日から、リヒトの静かな日常は一変した。あの歌う結晶は、彼の心を掴んで離さなかった。昼間は沈黙を守っているが、夜、アトリエに静寂が満ちると、再びあの優しい子守唄を奏で始めるのだ。彼は仕事も手につかず、一日中、その結晶のことばかりを考えていた。なぜ、この結晶だけが歌うのか。この歌は、誰に向けられたものなのか。

「知らなくていいことだ」と、彼の理性が囁く。コレクターの仕事は収集と記録まで。深入りは禁物だ。だが、夜ごと響く歌声は、彼の心の壁を少しずつ溶かしていくようだった。それはまるで、孤独な彼に語り掛けているかのようにも聞こえた。

決意を固めたリヒトは、数年ぶりに自らの規則を破り、結晶の持ち主だった老婆の身元調査を始めた。市役所の記録係に顔馴染みの男がいたのを思い出し、わずかな情報と正規の依頼書を手に彼の元を訪ねた。男は訝しげな顔をしながらも、古い戸籍のマイクロフィルムを調べてくれた。

「エマ・シュナイダー。それが老婆の名前だ」

男が読み上げた情報によれば、エマには八十年近く前、一人の息子がいた。しかし、その息子は若くして家を飛び出し、それきり音信不通。天涯孤独の身の上で、古いアパートに一人で暮らし続けていたという。息子の名は、クラウス・シュナイダー。職業欄には「音楽家志望」とあった。

音楽家。その言葉に、リヒトの心臓が小さく跳ねた。あの歌は、もしかしたら、行方知れずの息子クラウスのために、母エマが遺した最後の歌声なのかもしれない。リヒトは、今度はクラウスの足跡を追い始めた。古い音楽雑誌のバックナンバーを漁り、数十年前の演奏会のプログラムを調べ、年老いた音楽評論家に話を聞いて回った。

調査は困難を極めた。クラウスの名は、音楽史のどこにも記されていなかった。夢破れ、どこかで人知れず暮らしているのだろうか。リヒトは微かな手がかりを求めて、エマが長年住んでいたアパートの大家を訪ねた。白髪の老大家は、エマの思い出をぽつりぽつりと語ってくれた。

「エマさんは、いつも窓辺で何かを口ずさんでいましたよ。寂しそうな、でも、とても優しいメロディーでしたな。息子さんの話は、一度だけ聞いたことがあります。『あの子は、星の綺麗な夜に生まれたんだ。だから、きっと誰かを照らす光になる』と、そう言って、遠い目をしていました」

その夜、アトリエに帰ったリヒトは、改めて結晶の歌声に耳を澄ませた。大家の話を聞いた後では、その旋律が一層、切なく響く。これは、息子を想う母の祈りの歌なのだ。会えない息子へ、届くはずのない子守唄。そう思うと、リヒトの胸に、これまで感じたことのない種類の痛みが走った。それは、他人の人生に深く共感することで生まれる、温かい痛みだった。

第三章 交差する追憶の終着点

クラウス・シュナイダーの消息は、古い交通死亡事故の記録の中に、あっけなく見つかった。彼は三十年以上も前、リヒトがまだ物心もつかない赤ん坊だった頃に、雨の日の交差点でトラックにはねられ、若くしてこの世を去っていた。彼の隣には、同じく命を落とした妻の名も記されていた。

リヒトは、その記録用紙を握りしめ、茫然と立ち尽くした。エマは、息子の死を知らないまま、何十年も彼の帰りを待ち続け、彼のために歌い続けていたのだ。なんという悲劇だろうか。リヒトの心は、会ったこともない母子の運命に、激しく揺さぶられた。

彼は、自分の仕事の意味について考え始めていた。ただ無感情に死者の最後の言葉を収集するだけで、本当にいいのだろうか。この結晶の歌声は、本来、クラウスに届けられるべきだったのではないか。しかし、彼はもういない。ならば、この歌は行き場のないまま、永遠にアトリエで響き続けるだけなのか。

その考えが頭をよぎった瞬間、リヒトの脳裏に、閃光のような映像が蘇った。

それは、彼自身が固く封印してきた、幼い頃の記憶の断片だった。

――雨の匂い。車のヘッドライトの眩しさ。そして、自分を庇うように抱きしめてくれた、温かい腕の感触。耳元で、誰かが必死に何かを口ずさんでいる。途切れ途切れの、あのメロディー。そうだ、結晶が歌う、あの子守唄だ。

全身に鳥肌が立った。リヒトは震える手で、自分の戸籍謄本を取り出した。彼は幼い頃に両親を事故で亡くし、遠い親戚に引き取られた孤児だ。両親の記憶はほとんどない。だが、謄本に記された父の名は――クラウス・リヒト・シュナイダー。母の名は、アンナ。

血の気が引いていく。足元が崩れ落ちるような感覚に襲われた。

クラウス・シュナイダーは、リヒトの父親だったのだ。

三十数年前の雨の日、事故に遭ったのは、父クラウスと母アンナ、そして腕に抱かれた赤ん坊の自分。両親は、幼いリヒトを守って命を落とした。そして、父クラウスが死の間際に口ずさんでいたのは、母エマから教わったであろう、あの子守唄だった。

リヒトは、祖母とも知らずにエマの最期に立ち会い、その結晶を収集したのだ。エマは、死の直前、目の前に現れたレクイエ・コレクターが、行方不明だった息子の面影を宿していることに、魂のレベルで気づいたのかもしれない。そして、息子に歌ってやれなかった子守唄を、その血を引く孫であるリヒトに向けて、最後の言葉として結晶に込めたのだ。

だから、結晶は歌ったのだ。祖母から父へ、そして父から子へと受け継がれるはずだった愛の歌が、時を超え、奇跡的に孫であるリヒトの元へ届いた。それは、血の繋がりが引き起こした、沈黙を破る奇跡だった。

第四章 カンティレーナは永遠に

リヒトは、ガラス棚から光り輝く結晶をそっと取り出した。手のひらに乗せると、確かな温もりが伝わってくる。それはもう、彼にとって単なる収集物ではなかった。自分に向けられた、祖母の愛そのものだった。

「おばあさん…」

初めて口にしたその言葉は、彼の喉を震わせた。涙が、止めどなく頬を伝う。孤独だと思っていた。ずっと一人で生きてきたと思っていた。しかし、違ったのだ。自分は、見えない愛に守られ、導かれて、今ここにいる。父が最後に守ってくれた命。祖母が最後に遺してくれた歌。それらが、ずっと自分を支えてくれていた。

結晶が奏でる子守唄、カンティレーナは、今やリヒトの心を隅々まで満たしていた。空虚だった彼の魂に、温かい光が灯っていく。彼は、自分の仕事の本当の意味を、この瞬間、初めて悟った。レクイエ・コレクターは、ただ死の沈黙を集めるだけの存在ではない。遺された想いを、その輝きを、然るべき誰かの心へ届けるための「橋渡し役」なのだ。たとえそれが、何十年という時を経た後だとしても。

それからのリヒトは変わった。彼は依然としてレクイエ・コレクターを続けているが、その眼差しには、かつての無感情な光はない。一つ一つの結晶に宿る物語に耳を澄ませ、その沈黙の奥にある声なき声を聴こうと努めるようになった。時には、結晶の由来を調べ、遠い親族にそっと届けることもあった。

彼のアトリエには、今も夜ごと、祖母の結晶が奏でる優しいカンティレーナが響き渡っている。それは、リヒトが決して孤独ではないことの証であり、彼がこれから歩むべき道を示す道標だった。

死者の言葉は、沈黙の中にこそ、最も深く、豊かな物語を秘めている。そして、時を超えて届く愛は、時に奇跡を起こし、凍てついた心を溶かすほどの温もりを持っている。リヒトは、窓の外に広がる無数の灯りを見下ろしながら、その一つ一つに宿るであろう、まだ見ぬ物語に、静かに想いを馳せるのだった。彼の追憶のカンティレーナは、まだ始まったばかりなのだ。

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