第一章 灰色の世界と最初の赤
龍之介の世界は、色を失っていた。
降りしきる雨も、瓦葺きの屋根も、ぬかるんだ土の道も、すべてが濃淡の異なる墨で描かれた水墨画のようだった。人々が交わす声も、駄馬のいななきも、遠くで響く鐘の音も、まるで薄い和紙を一枚隔てた向こう側から聞こえてくるかのように、現実感を欠いていた。感情という名の絵の具を失くして以来、彼の世界は静かな灰色に沈み込んで久しい。
かつて神崎道場の麒麟児と呼ばれた男の今は、江戸の片隅で日銭を稼ぐしがない用心棒稼業。鞘に収まる刀だけが、己が何者であったかの微かな記憶を留めている。その刀身すら、彼の目には鈍い鉛色にしか映らない。
その日も、龍之介は小糠雨の降る神田の町を、目的もなく歩いていた。湿った空気が肌にまとわりつき、道行く人々の笠が、灰色の景色の中を動く染みのように見えた。その時、裏路地から甲高い声と、若い娘の悲鳴が聞こえた。よくある、チンピラのいざこざだ。普段なら関わることなく通り過ぎる。他人の世界に彩りを添える義侠心など、とうに枯れ果てたと思っていた。
だが、なぜかその日は足が止まった。
「離してくださいまし!」
「いいじゃねえか、少し付き合えよ。お前の店の反物、ちっとも売れねえそうじゃねえか。俺たちが慰めてやるってんだ」
卑しい笑い声。龍之介は音もなく路地に足を踏み入れた。三人の男が、小柄な娘を取り囲んでいる。娘は必死に抵抗していたが、腕を掴まれ、逃げられないでいた。その顔は恐怖に歪んでいるが、瞳の奥には屈しない芯の強さが灯っているように見えた。
龍之介は、ただそこに立った。雨に濡れた黒い着流しが、周囲の灰色に溶け込んでいる。
「……そこをどけ」
呟くような声だったが、奇妙なほどよく通った。男たちがぎょっとして振り返る。
「なんだぁ、てめえ」
一人がすごんで見せるが、龍之介の虚ろな、それでいて底なしの沼のような瞳を見て、言葉を詰まらせた。その目に宿る空虚は、常人のそれではない。死線を潜り抜けた者だけが持つ、独特の静けさがあった。
痺れを切らした一人が、懐の小刀を抜いて斬りかかってきた。愚かな選択だった。龍之介の身体が、まるで水に落ちた一滴の墨が広がるように、すっと動いた。鞘を握る左手はそのままに、右手で男の手首を掴み、軽く捻り上げる。悲鳴と共に小刀が宙を舞い、地面に落ちて乾いた音を立てた。
残る二人が怯んだ隙に、別の男が娘の背後から羽交い締めにしようと腕を伸ばす。その瞬間、龍之介は動いていた。男の腕を掴んでいた右手を離し、腰の刀に手をかける。しかし、抜かなかった。鞘に収めたまま、その柄で二人目の男の鳩尾を正確に突く。男は「ぐっ」という呻きと共に崩れ落ちた。
最後の一人が、恐怖に駆られてやみくもに殴りかかってきた。龍之介はそれを紙一重でかわすと、相手の勢いを利用して体勢を崩させ、路地の壁に叩きつけた。
静寂が戻る。三人の男たちは、もはや戦意を失い、這うようにして逃げていった。
龍之介は、雨の中に立ち尽くす娘に目を向けた。恐怖が去り、安堵した娘の瞳から、一筋の雫がこぼれ落ちた。
「あ、りがとう、ございます……」
震える声で礼を言う娘に、龍之介は何も答えず、背を向けようとした。その時だった。
「あっ!」
娘の小さな叫び声。龍之介は、自分の左の腕に鈍い痛みを感じて視線を落とした。先ほどの乱闘の際、小刀が着物を切り裂き、腕を浅く傷つけていたらしい。破れた袖から、じわりと血が滲み出ている。
そして、龍之介は息を呑んだ。
その血は、灰色ではなかった。
彼のモノクロームの世界に、たった一点、燃えるような、鮮烈な「赤」が灯っていた。何年ぶりに見る色だろうか。あまりの鮮やかさに、目が眩むようだった。それは、ただの赤ではない。心の奥底で燻っていた、忘れたはずの激情の色。静かな怒りの色だった。
「お怪我を!すぐに手当てをしないと」
娘が駆け寄り、自分の着物の裾を裂いて、手際よく彼の腕に巻き付けた。その指先の温かさが、鈍く伝わってくる。
龍之介は、腕に巻かれた白い布に滲んでいく鮮やかな赤から、目を離すことができなかった。灰色だった世界に、たった一滴落とされたその色は、彼の心の湖に、静かだが、しかし確かな波紋を広げていた。
第二章 蘇る色彩と過去の影
娘は「お絹」と名乗った。日本橋で小さな染物屋を営んでいるという。彼女の店は、あの路地のすぐ先にあった。手当ての礼にと、龍之介は店に招き入れられた。
店の中は、様々な反物が所狭しと並べられていた。龍之介の目には、それらもまた濃淡の異なる灰色の布にしか見えなかったが、店内に満ちる染料の匂いが、彼の鼻を微かにくすぐった。お絹は甲斐甲斐しく薬箱を用意すると、改めて丁寧に傷口を清め、布を巻き直してくれた。
「本当に、ありがとうございました。私、一人ではどうなっていたか……」
「……気にするな」
短く答える龍之介に、お絹は困ったように微笑んだ。
「あの、もしよろしければ、傷が癒えるまで、うちの用心棒をしていただけませんか。もちろん、お礼はいたします」
断る理由もなかった。龍之介は黙って頷いた。
その日から、龍之介の灰色の日常に、お絹という存在が加わった。彼女は働き者で、朝から晩まで染めの仕事に精を出していた。龍之介は店の隅に座り、ただ静かにその様子を眺めているだけだったが、お絹はそんな彼を気遣い、時折、茶を淹れてくれたり、他愛のない話をしてきたりした。
ある晴れた日の午後。お絹が店の裏手で育てている朝顔の世話をしていた。
「龍之介さん、見てください。今年も綺麗に咲きました」
彼女が指さす先には、見事な花がいくつも咲いている。龍之介がその花に目をやった瞬間、彼の世界に再び変化が訪れた。
灰色の花びらが、ふわりと色づいた。吸い込まれるような、深く、そして澄んだ「青」。それは空の色であり、海の色。見ているだけで、ささくれ立った心が穏やかになっていくような、不思議な色だった。安らぎの色。龍之介は、自分が長い間忘れていた感情の名前を、その色の中に見出した。
「……青、か」
「え?」
「いや、なんでもない」
それからというもの、龍之介の世界には、時折、唐突に色が蘇るようになった。お絹が客と楽しげに会話し、屈託なく笑った時、その笑顔の周りに、陽だまりのような温かい「黄」が見えた。それは喜びの色。彼女が染め上げた新しい反物を、誇らしげに広げて見せた時、芽吹く若葉のような鮮やかな「緑」が見えた。それは希望の色。
しかし、色が蘇るたびに、龍之介は激しい頭痛と、過去の断片的な映像に襲われた。燃え盛る道場の炎。師の苦悶の表情。そして、自分の手を濡らした、あの日の「赤」。色は、感情は、彼にとって忌まわしい記憶と分かちがたく結びついていた。感情を取り戻すことは、あの日の絶望を再び味わうことと同義だった。彼は、お絹がもたらす彩りを享受しながらも、その光が強まるほどに濃くなる自らの影に怯えていた。
「龍之介さんは、どうしてそんなに悲しい目をしているんですか?」
ある夜、月明かりの下で、お絹が不意に尋ねた。
「お強いのに、いつもどこか遠くを見ているみたいで。まるで、この世にいないみたい」
龍之介は答えられなかった。色を取り戻し始めた世界は、確かに美しい。だが、その美しさを知れば知るほど、それを失った時の喪失感が、彼の心を締め付けるのだった。
第三章 藍より深き真実
平穏は、長くは続かなかった。お絹の店に、奉行所の役人である榊原(さかきばら)という男が、悪徳商人・近江屋を伴って現れた。彼らは、お絹の店の土地の権利書に不備があるといちゃもんをつけ、店を明け渡すよう高圧的に迫った。
「この土地は、元々近江屋様の先代がお貸ししていたもの。証文はこちらにある」
榊原が突きつけた書状は、明らかに偽造されたものだった。彼らの狙いは、お絹の父が遺した「深藍(しんらん)」と呼ばれる、門外不出の特別な藍染の技法だった。
榊原の顔を見た瞬間、龍之介の全身を雷のような衝撃が貫いた。灰色の世界が激しく揺らぎ、忘れかけていた過去の光景が、鮮明な色彩と共に蘇る。この男、榊原こそ、彼の人生を狂わせた元凶だった。
五年前。龍之介は、師であり養父でもある神崎重兵衛のもとで、剣の道を究めようとしていた。当時、役人だった榊原は、重兵衛の旧知であったが、裏では商人たちと癒着し、私腹を肥やしていた。その不正に気づいた重兵衛と龍之介は、証拠を掴み、告発しようとした。だが、榊原の方が一枚上手だった。
あの嵐の夜、榊原は道場に刺客を放った。龍之介は必死に戦った。師を守るために、夢中で刀を振るった。しかし、道場は火に包まれ、混乱の中、彼は誰かを斬った。その手応えと、返り血の生温かい感触。最後に見たのは、血の海に倒れる師の姿と、その傍らで絶望に膝をつく兄弟子・宗太の姿だった。そして、燃え盛る炎の「赤」と、すべてを飲み込む絶望の「黒」が、彼の世界から一切の色を奪い去ったのだ。
龍之介は、自分が師を斬ってしまったのだと信じ込んでいた。守るべき人をその手で殺めてしまったという罪悪感が、彼の心を蝕み、感情を殺し、世界を灰色に変えた。
「……榊原」
龍之介の口から、地を這うような声が漏れた。榊原は、目の前の浪人が誰であるかに気づくと、歪んだ笑みを浮かべた。
「ほう、生きていたか、龍之介。神崎道場の落ちこぼれが。まだそんなところで、うろついていたとはな」
「貴様が……なぜここに」
「なぜ?決まっているだろう。この娘の持つ技法は、高く売れる。それだけのことよ」
榊原はせせら笑い、決定的な言葉を突きつけた。
「勘違いするなよ、小僧。貴様は師を斬ってなどおらん。あの夜、儂の刃から師を庇って死んだのは、貴様の兄弟子、宗太よ。そして、師を斬ったのは、この儂だ」
真実が、鋭い刃となって龍之介の胸を貫いた。
「貴様が斬ったのは、師を守ろうと飛び出してきた宗太の方よ。まあ、暗闇の中だ、無理もない。己が兄弟子を斬った絶望で、師殺しの罪を背負い込むとは、滑稽な男よな!」
世界が、砕け散った。
師を殺したのは榊原。そして自分は、師を、自分を庇ってくれた兄弟子を、この手で……。
憎しみの「赤」。絶望の「黒」。悲しみの「青」。後悔の「灰色」。そして、お絹の恐怖に染まる顔が、か細い「白」に見えた。失われた感情の全てが、色の奔流となって彼の内側で荒れ狂い、視界をぐちゃぐちゃにかき混ぜた。
龍之介は、ゆっくりと刀の柄に手をかけた。その瞳には、もはや空虚な灰色はなかった。燃え盛る、地獄の業火が宿っていた。
第四章 緋色の涙
「殺す」
龍之介の唇から漏れたのは、言葉というより獣の咆哮に近い音だった。次の瞬間、彼の身体は弾かれたように榊原へと向かっていた。抜かれた刀身は、彼の内なる激情を映すかのように、ギラリと禍々しい光を放った。
斬り結ぶ刃の音が、店内に甲高く響き渡る。榊原もまた、かつては名の知れた剣客だった。だが、今の龍之介の剣は、常軌を逸していた。憎悪、後悔、そして五年もの間、心の奥底に封じ込めていた全ての感情が、一太刀一太刀に込められている。それはもはや剣術ではなく、魂の叫びそのものだった。
彼の視界では、色が嵐のように渦巻いていた。榊原の嘲笑が歪んだ「紫」に、近江屋の恐怖が濁った「茶」に見える。床に散らばった反物が、まるで血飛沫のように様々な色を撒き散らしていた。
しかし、その色彩の混沌の中心に、たった一つ、揺るぎない光があった。隅で震えながらも、必死に彼を見つめるお絹の姿。彼女の存在そのものが、純粋な「白」。その光が、狂気に呑まれかけた龍之介の心を、かろうじて繋ぎとめていた。
(守らなければ)
その思いが、彼の剣筋に冴えを取り戻させる。虚無の剣ではない。悲しみを知り、怒りを知り、そして守りたいと願う心が宿った、人の剣。
榊原の太刀筋に、焦りが見え始めた。龍之介の剣は、予測不能な軌道を描きながら、確実に彼を追い詰めていく。
「化け物め……!」
榊原が渾身の力で斬りかかってくる。龍之介はそれを紙一重で受け流し、身体を回転させながら、流れるような動きで榊原の懐に潜り込んだ。
全てが、止まって見えた。
龍之介の刃が、榊原の胴を深く、静かに薙いだ。
榊原は信じられないという顔で己の腹を見つめ、やがて崩れ落ちた。近江屋は腰を抜かし、その場にへたり込んでいる。
静寂が戻った店内に、朝日が差し込んできた。決着の光だった。龍之介は刀を下げ、ゆっくりと息を吐く。その時、彼の頬を、一筋の温かい雫が伝った。朝日を浴びたその涙は、彼の目に、鮮やかな「緋色」に映った。
それは、師と兄弟子を弔う悲しみの涙であり、長きにわたる呪縛から解放された安堵の涙であり、そして、失われた人間性を取り戻した証の涙だった。
事件の後、奉行所の不正は明るみに出され、お絹の店は守られた。だが、龍之介の心は晴れなかった。仇は討った。しかし、兄弟子をその手で殺めてしまったという事実は、彼の心に重く、消えない傷として刻まれた。
数日後、龍之介はお絹の店を訪れた。軒先には、彼女が染め上げた美しい藍色の反物が、春の風に気持ちよさそうに揺れていた。
「龍之介さん」
お絹が、柔らかい表情で彼を迎えた。彼女は尋ねた。
「その色、見えますか?」
龍之介は、風にそよぐ反物を見つめた。彼の世界は、まだ時折、色褪せた灰色に沈むことがある。それでも、目の前の色は、はっきりと見えた。
「……ああ。見える。とても、美しい藍色だ」
彼の声には、確かな温もりが宿っていた。
龍之介は、旅に出ることを告げた。犯した罪を、ただ忘れるのではなく、背負って生きていくために。償いの旅になるだろう。お絹は、何も言わずに彼の言葉を聞いていた。そして、一枚の小さな、藍色の手巾を彼に差し出した。
「いつか、この色が褪せる前に、帰ってきてください」
その言葉は、命令でも約束でもなく、ただの祈りだった。龍之介は黙って手巾を受け取ると、懐にしまい、静かに背を向けた。
去りゆく彼の背中を、お絹は涙で見送った。龍之介が歩き出す先、江戸の町並みは、まだらではあったが、確かに色を取り戻し始めていた。空は青く、木々は緑に、人々の着物は様々に。彼の心象風景が、少しずつ世界と重なっていく。
墨染めの過去を背負い、緋色の涙を流した男は、これからどんな色の未来を描いていくのだろうか。その答えはまだ、風の中にあった。