琥珀色のリユニオン

琥珀色のリユニオン

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第一章 欠けた心の在り処

凪(ナギ)の工房には、忘却の匂いが満ちていた。それは古い書物と、微量のオゾン、そして無数の人生が放つ、甘くもほろ苦い香りだ。彼は記憶修服師。人々が特殊な技術で抽出した思い出の結晶――『記憶晶』を修復することを生業としていた。

彼の指先は、どんなに複雑に砕け散った記憶晶でも、寸分違わず元の形に戻すことができた。だが、その心は、まるで極北の氷原のように静まり返っていた。他人の幸福も、悲哀も、彼にとっては修復すべきオブジェクトの情報に過ぎない。ガラスケースに並ぶ、修復を待つ色とりどりの記憶晶を眺める凪の瞳は、いつも凪いでいた。

その静寂を破ったのは、古びたドアベルの乾いた音だった。入ってきたのは、背の低い老婆だった。深く刻まれた皺の一つ一つが、長い歳月の物語を語っている。彼女は震える手で、黒いビロードの小袋から、一つの記憶晶を取り出した。

「これを、お願いできますでしょうか」

凪はそれを受け取り、眉をひそめた。掌に乗るほどの、くすんだ琥珀色のかけら。しかし、それは尋常な状態ではなかった。全体に細かい亀裂が走り、本来の中心から放たれるはずの光が、ほとんど失われている。まるで、心臓が止まりかけた生き物のようだった。

「ひどい損傷ですね。これは……事故ですか?」

凪が分析用のルーペを翳しながら問うと、老婆は静かに首を振った。

「いいえ。ただ、時間が経ちすぎたのです。そして……持ち主が、この記憶を忘れることを、どこかで望んでしまったのかもしれません」

その言葉に、凪はわずかに興味を引かれた。記憶晶の劣化は、持ち主の精神状態と深くリンクする。だが、ここまで核が空洞化したものは見たことがない。内部の映像情報が、ごっそりと欠落している。

「申し訳ありませんが、これは修復不可能です。記憶の核となる部分が完全に失われている。例えるなら、心臓のない体に血を通わせようとするようなものです」

冷徹に、事実だけを告げる。それが彼の流儀だった。断られた老婆は、しかし、帰ろうとはしなかった。彼女はただ、凪の手の中にある記憶晶を、慈しむような、祈るような目で見つめていた。

「それでも、どうか。この中には、私の夫との……最後の約束が眠っているのです。光が戻らなくとも、形だけでも構いません。あの人がいたという証を、もう一度この手に」

老婆の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ち、皺の渓谷を伝って流れた。

その時だった。凪の掌の中で、死んだように冷たかった記憶晶が、ほんのかすかに、人の肌のような温もりを帯びた気がした。気のせいか。だが、彼の心に、これまで感じたことのない微かな波紋が立った。合理性を重んじる彼が、自らの原則を曲げてしまうほどの、小さな、しかし確かな波紋。

「……わかりました。お預かりします。ただし、保証はできません」

凪は自分でも信じられない言葉を口にしていた。老婆は何度も何度も頭を下げ、工房を後にしていく。一人残された凪は、掌中の琥珀色のかけらを睨みつけた。なぜ引き受けてしまったのか。この不完全な石ころのどこに、自分の心を揺さぶる要素があったというのか。

工房の窓から差し込む西日が、記憶晶の亀裂に反射し、壁に頼りない光の模様を描き出す。それはまるで、誰かに助けを求める、声にならない叫びのように見えた。

第二章 偽りの追体験

修復作業は、記憶の海へのダイブから始まる。凪はヘッドギア型の同調装置を装着し、意識を集中させた。彼の精神は、琥珀色の記憶晶が持つ、かすかな情報だけを頼りに、その内部へと沈んでいく。

最初に感じたのは、温かい陽光と、潮の香りだった。

目の前に、青く広がる穏やかな海が見える。砂浜で、若い男女が笑い合っていた。おそらく、依頼主である老婆とその夫の若き日の姿なのだろう。男が、不器用な手つきで女の髪にハイビスカスの花を飾る。女ははにかみながら、彼の肩にそっと頭を乗せる。

凪は、透明な傍観者としてその光景を眺めていた。幸せな記憶だ。あまりにありふれていて、陳腐でさえある。彼はこれまで、こうした甘ったるい記憶を何百と修復してきた。だが、いつもと何かが違った。

映像に触れるたび、凪の胸の奥が、ぎしりと軋むような痛みを覚えるのだ。男が女に向ける優しい眼差し。女が男に返す、絶対的な信頼を込めた微笑み。その一つ一つが、凪が人生で一度も手にしたことのない、眩しすぎる宝物のように思えた。

彼は、家族というものを知らない。物心ついた頃には両親はおらず、冷たい施設で育った。愛情とは、本の中で読む概念でしかなかった。だからこそ、他人の温かい思い出を修復しながらも、心のどこかでそれを「作り物の幸福だ」と見下すことで、自分を保っていた。

だが、この記憶晶が映し出す光景は、あまりに生々しく、温かかった。砂の熱さ、波の音、彼の頬を撫でる彼女の指先の感触までが、まるで自分の体験のように流れ込んでくる。

「くそっ……」

凪は思わず同調を中断し、ヘッドギアを乱暴に外した。額には汗が滲み、呼吸が荒くなっている。なぜだ。なぜ、他人の思い出にここまで心をかき乱される?

作業は困難を極めた。記憶の断片はあまりに脆く、核心に近づこうとすると、砂の城のように崩れ落ちてしまう。約束が眠っている、と老婆は言った。だが、その約束の場面が、どうしても見つからないのだ。まるで、記憶そのものが、最も重要な部分を隠そうとしているかのように。

苛立ちと焦燥感に駆られながら、凪は幾夜も修復を試みた。彼は知らず知らずのうちに、この記憶の修復にのめり込んでいた。それはもう、単なる仕事ではなかった。この欠けた記憶を完成させなければならない。さもなければ、自分の中の何かもが、決定的に壊れてしまうような気がしていた。

そして、ついに彼は、記憶修復師にとって最大の禁忌とされる手段に手を出すことを決意する。自身の記憶晶の一部を触媒として使い、欠損した記憶の核を強制的に再構築するのだ。それは、術者の精神を汚染しかねない、あまりに危険な賭けだった。

彼は覚悟を決め、自室の奥から、小さな桐の箱を取り出した。中に入っているのは、彼自身の記憶晶。それは、ほとんど光を放たない、冷たく濁った鉛色の石だった。彼が自ら封印した、幼い頃の記憶。それに触れることなど、考えたこともなかった。だが、今はもう、これしか方法がなかった。

第三章 琥珀色のリユニオン

凪は、鉛色の自らの記憶晶と、依頼された琥珀色の記憶晶を、修復装置の台座に並べて置いた。深く息を吸い込み、再び同調装置を装着する。禁断の修復が始まった。

彼の意識が二つの記憶晶に接続された瞬間、凄まじい衝撃が全身を貫いた。

「ぐっ……!」

二つの記憶は、まるで生き別れた双子が出会ったかのように激しく共鳴し、混じり合い、一つの巨大な奔流となって凪の精神に流れ込んできた。

視界が、真っ白な光に塗りつぶされる。

やがて光が収まると、そこには見覚えのある、あの海辺の光景が広がっていた。だが、今度は何かが違った。彼はもう、透明な傍観者ではなかった。

小さな手が、自分の手を温かく包んでいる。

見上げると、そこには優しい笑顔の男と女がいた。若き日の老婆とその夫ではない。知らないはずなのに、心の奥底から懐かしさがこみ上げてくる、若い男女。

「ナギ、見てごらん。夕日がきれいだよ」

女が言った。その声は、春の陽だまりのように温かい。

「父さん、もっと高い高いして!」

幼い自分の声が、口から飛び出した。男は、「よーし」と笑いながら、自分を軽々と抱き上げた。視界が高くなる。世界が輝いて見えた。

そうだ。これは、他人の記憶などではなかった。

これは、幼い頃の凪自身の、亡き両親との最後の記憶だったのだ。

全てのピースが、音を立ててはまっていく。

あの日、家族三人で海へ行った。父の肩車から見た夕日は、世界中のオレンジを溶かし込んだように美しかった。母は、僕のポケットに、お守りだと言って小さな貝殻を入れてくれた。「大きくなったら、父さんみたいな強い人になって、母さんみたいな優しい人を見つけるんだよ。約束だからね」。それが、母との最後の約束だった。

その帰り道、僕たちの車は事故に遭った。

激しい衝撃音。ガラスの砕ける音。そして、永遠の静寂。次に目覚めた時、両親はもういなかった。あまりの悲しみと衝撃に、幼い凪は心を閉ざし、この日の記憶を、自ら心の奥底に封印してしまったのだ。

あの老婆は、両親の古くからの友人だったのだ。彼女は、事故後に心を失ったようになってしまった凪を救うため、彼の同意のもと、この最も幸せで、最も辛い記憶を記憶晶として抽出し、大切に保管してくれていた。年月が経ち、凪が記憶修復師として独り立ちした今、この記憶を返す時が来たと判断したのだ。客を装ったのは、彼が素直に受け取れるようにという、彼女なりの配慮だったのだろう。

涙が、凪の頬を止めどなく流れた。同調装置を透して、現実の彼の目からも熱い雫がこぼれ落ちていた。

忘れていたのではない。忘れることなど、できるはずがなかった。両親の温もりも、声も、愛も、ずっと自分の中にあったのだ。ただ、それと向き合うのが怖かっただけだ。

凪は泣きながら、笑った。記憶の中で、両親に向かって手を振る。

ありがとう、父さん。ありがとう、母さん。

彼が意識を現実に戻した時、目の前の光景に息を呑んだ。

台座の上で、二つの記憶晶は一つに融合し、まばゆいばかりの、温かい琥珀色の光を放っていた。それは、凪が今まで見たどんな記憶晶よりも力強く、生命力に満ち溢れていた。亀裂は跡形もなく消え、中心には、穏やかな光の核が脈打っている。

数日後、老婆が再び工房を訪れた。

凪は、完璧に修復された記憶晶を、深々と頭を下げながら彼女に差し出した。

「ありがとうございました。おかげで……大切なものを、取り戻すことができました」

老婆は、その記憶晶を受け取ると、優しく凪の手に押し返した。

「いいえ。それは、初めからあなたのものです。お帰りなさい、凪くん」

その声は、記憶の中の母親の声と、少しだけ似ていた。

凪は工房に戻り、琥珀色の記憶晶をそっと胸に当てた。失われたと思っていた両親との絆が、確かな温もりとなって、彼の凍てついた心を溶かしていく。悲しみは消えない。だが、その悲しみごと、自分は愛されていたのだという事実が、凪の内に新たな力を与えてくれた。

工房の窓から差し込む光が、ガラスケースに並んだ無数の記憶晶を照らし出す。それらはもう、単なる仕事の対象ではなかった。一つ一つが、誰かの人生そのものであり、愛の物語なのだ。

凪の指先は、これからも記憶を修復し続けるだろう。だが、それはもう冷たい作業ではない。人の心を、愛を、未来へと繋ぐための、温かい祈りを込めた儀式となるはずだ。

彼の工房には、今日も忘却の匂いが満ちている。しかし今の彼には、その香りが、過去と未来を繋ぐ、希望の匂いのように感じられた。

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