涙晶のレクイエム
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涙晶のレクイエム

第一章 軽くなる世界

風が吹くたび、街から人が消える。

それは、この世界ではありふれた光景だった。人々は感動を失い、その質量を失い、ある日ふわりと靴底が地面を離れる。まるでタンポポの綿毛のように、意志なく空の彼方へと吸い込まれていくのだ。彼らは抵抗もせず、むしろ安堵したような表情で、薄青色の空に小さな点となって溶けていく。

僕、カイの足首には、錆びついた鉄の枷が食い込んでいた。物理的な重しがなければ、とうの昔に空の住人になっていただろう。僕自身の感動が、とっくの昔に枯渇してしまっているからだ。

埃っぽい風が吹き抜ける廃墟の街を、僕は今日も彷徨う。目的はただ一つ、「感動の涙」を探すこと。他者が生前に流した、最も純粋な感動の記憶が宿る結晶。僕には、それに触れることで、その記憶を追体験できる力があった。それは、この軽くなりすぎた世界で、束の間の「重さ」を取り戻すための唯一の手段だった。

手には、ひび割れた黒曜石の壺を抱えている。中にはこれまで集めた数粒の涙が、小さな宝石のように静かな光を放っていた。壺にそっと指で触れると、囁くような残響が聞こえる。喝采、産声、愛の告白。失われた世界の音だ。

やがて、崩れかけた音楽ホールの扉にたどり着く。軋む蝶番を押して中へ入ると、月光が巨大なパイプオルガンを照らし出していた。その鍵盤の上に、まるで零れ落ちた星屑のように、きらりと光るものがあった。僕は息をのみ、震える指でそっとそれに近づいた。間違いなく、誰かが遺した感動の涙だった。

第二章 残響に触れる指

涙は、指先でつまみ上げると、冷たい水晶のような感触があった。僕はそれを慎重に壺の中へ収める。これで、また少しだけ、この地に留まることができる。

アトリエに戻った僕は、窓辺の椅子に深く腰掛け、黒曜石の壺を膝の上に乗せた。中には、今日見つけたものを含め、七粒の涙が揺らめいている。どれもが、誰かの人生の頂点で流された、かけがえのないものだ。

しかし、代償は大きい。涙の記憶に触れるたび、僕は追体験した感動の質量を得る代わりに、僕自身の存在が少しずつ希薄になっていく。体重が、失われていくのだ。それでも、何もしなければただ消えるだけ。ならば、せめて誰かの最も輝いた瞬間を胸に刻んで消えたい。

僕は壺の中から、ひときわ澄んだ輝きを放つ、今日見つけたばかりの涙を選んだ。音楽家の涙だ。指先に乗せると、微かな旋律が脳裏に響く。覚悟を決め、僕はゆっくりと涙を額に押し当てた。

瞬間、世界が反転した。

視界に映るのは、無数の人々の顔、顔、顔。耳を劈くような万雷の拍手。僕は古いコンサートホールの舞台に立ち、巨大なピアノの前に座っていた。僕の指――いや、かつてエリアナと呼ばれた女性の指が、鍵盤の上を嵐のように舞っている。彼女の最後の演奏会。全身の細胞が歓喜に打ち震え、音楽と聴衆が一体になる奇跡の瞬間。指先から流れ出す旋律は、彼女の人生そのものだった。

「ありがとう……」

涙が頬を伝う。それは僕の涙ではなく、エリアナの涙。深い、深い感謝と達成感。これ以上ないほどの「重い」感動が、僕の魂を満たしていく。

意識が現実に戻った時、僕は恍惚とした疲労感の中にいた。だが同時に、奇妙な浮遊感が体を包んでいた。足元の床が、ほんの少しだけ遠くなった気がした。

第三章 失われた質量を求めて

それから僕は、憑かれたように涙を探し、追体験を繰り返した。

ある時は、初めて自分の足で雪山を踏破した登山家の涙に触れた。吹き荒れるブリザードの向こうに広がる、雲海の絶景。息もできないほどの寒さと、それを上回る達成感が、僕の体を大地に縫い付けた。

またある時は、戦火の中で再会した恋人たちの涙を追体験した。抱きしめ合う腕の温かさ、互いの無事を確かめる安堵の嗚咽。愛というものが持つ、抗いがたいほどの質量を感じた。

老婆が皺だらけの手で初孫を抱いた時の涙。

名もなき学者が、生涯をかけた研究の答えを見つけた瞬間の涙。

僕は無数の人生を生き、そのたびに彼らの感動を我がことのように感じた。その束の間、僕は確かにこの世界に存在していた。けれど、追体験が終わるたびに、僕の体はより一層軽くなっていく。足首の枷が、もはやただの飾りになりつつあった。

なぜ、世界はこんなにも軽くなってしまったのだろう。

追体験を重ねるうちに、一つの仮説が浮かび上がった。人々は感動を恐れるようになったのではないか。深い感動は、時として深い悲しみや苦悩を伴う。愛は執着を生み、達成は次なる渇望を生む。その重さに耐えきれなくなった人々が、自ら感動を捨て、軽くなることを選んだのだとしたら?

平穏で、何事もない、空気のように軽い生き方。それが、この世界の成れの果てだった。

第四章 空っぽの揺りかご

ある風の強い日、僕は街外れの小さな家屋で、奇妙なものを発見した。窓から差し込む光の中に、白木の揺りかごがぽつんと置かれていたのだ。そこには、生まれたばかりの赤ん坊が眠っていたはずの温もりの痕跡があった。

だが、涙はなかった。

普通なら、我が子の誕生という奇跡に、親は必ずや感動の涙を流すはずだ。しかし、そこには空虚な沈黙だけが漂っていた。母親も父親も、感動することなく、ただ軽くなって空へ消えてしまったのだろうか。

その時、僕は悟ってしまった。

世界から感動が失われているのではない。これから生まれてくる命、新しい世界を紡ぐはずの存在そのものに、感動が宿らなくなっていたのだ。感動は受け継がれず、生まれもしない。だから世界は一方的に軽くなり、終わりに向かっている。これこそが、中心にある巨大な虚無の正体だった。

絶望が、冷たい霧のように心を覆った。僕がいくら過去の涙を集めても、それは失われたものを懐かしむだけの行為に過ぎない。未来は、ない。

その瞬間、強い突風が窓から吹き込んできた。僕の体は木の葉のようにあっさりと舞い上がり、天井に頭をぶつけた。足首の枷が、カラン、と虚しい音を立てて床に落ちる。もはや、僕をこの世界に繋ぎとめるものは、何もなかった。

ただ、胸に抱いた黒曜石の壺だけが、確かな重みを保っていた。

第五章 最後の追体験

ゆっくりと、僕は床に降り立った。いや、降り立ったというよりは、漂うのをやめた、という方が正しい。体の感覚はほとんどなく、まるで自分が半透明の幻になったかのようだった。

もう、時間がない。

僕は最後の力を振り絞り、壺を逆さにした。手のひらに、残っていた全ての涙がこぼれ落ちる。登山家の涙、恋人たちの涙、そして音楽家エリアナの涙。それらは互いに惹きつけられるように一つに溶け合い、虹色の光を放つ、大きな一粒の雫となった。

それは、僕がこれまで繋いできた、過去の感動の集合体だった。

これを追体験すれば、僕の存在は完全に消滅するだろう。だが、構わなかった。このまま無に帰すくらいなら、人類が紡いできた最も美しい記憶の奔流に飲み込まれてしまいたかった。

僕は目を閉じ、その虹色の雫を、そっと額に押し当てた。

閃光。

次の瞬間、僕はもはや僕ではなかった。僕は無数の人々となり、同時にその全てを見つめる視点となっていた。創世の叫び、初めて火を手にした時の驚き、愛を知った喜び、星々を見上げた畏怖。喜びも悲しみも、希望も絶望も、全てが等価値の輝きとして僕の中を駆け巡る。それは個人の人生などという矮小なものではない。生命がこの星に生まれてから紡いできた、壮大な感動の叙事詩そのものだった。

体が完全に質量を失い、窓から空へと吸い出されていくのが分かった。もう、風に弄ばれる木の葉ですらない。僕は、風そのものになろうとしていた。

第六章 涙晶の繭

高く、どこまでも高く舞い上がる。眼下の街はミニチュアのように小さくなり、やがて地平線の向こうに溶けていった。薄青色の空が、次第に星々のきらめく深い藍色へと変わっていく。

そして、僕は見た。

成層圏の遥か上、星々の間に浮かぶ、巨大な結晶体を。

それは淡い光を放ち、まるで巨大な宝石のようだった。よく見ると、それは無数の光の粒子が集まって形成されている。空の彼方へ消えていった人々だった。彼らは消滅したのではなく、この場所へ集っていたのだ。

僕が追体験した虹色の感動も、僕の体から離れ、一条の光となってその結晶体――「涙晶の繭」へと吸い込まれていく。

その時、全ての謎が解けた。

感動が質量を持つこの世界では、その質量が個人の器の限界を超えた時、人々は肉体を捨てて空へと昇るのだ。そして、この場所で集合的な感動の記憶となり、次の生命が生まれるための巨大な「種」となる。

消滅は終わりではなかった。それは、より大きな感動を抱く新しい生命へと転生するための、聖なる儀式だったのだ。世界から感動が失われていたのは、次の時代へと移行するための、産みの苦しみだったのだ。

安らかな気持ちが、僕の全てを満たした。僕は自らの意志で、光り輝く繭へと手を伸ばす。僕の体もまた光の粒子へと変わり、ゆっくりと繭に融け込んでいった。

最後の意識の中で、僕は未来のビジョンを見た。

この繭から、いつか新しい世界が生まれる。そこに生きる人々は、僕たちが失った「重さ」を、そして僕たちが追体験した全ての感動をその魂に宿して生まれてくる。彼らはきっと、僕たちよりもずっと強く、深く、大地に根を張って生きていくのだろう。

僕は、その礎の一つになるのだ。

地上では、カイが消えたアトリエの床で、役目を終えた黒曜石の壺が、朝日に照らされていた。パシッ、と乾いた音を立てて、その表面に入っていた亀裂が、静かに深くなった。

ひび割れの奥から、新しい世界の夜明けを告げるように、小さな、小さな光の芽が、確かに瞬いていた。

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